徳川義直(読み)とくがわよしなお

精選版 日本国語大辞典 「徳川義直」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐よしなお【徳川義直】

江戸初期の大名。家康の九男。尾張家の祖。幼名五郎太。六二万石を領し、徳川御三家の第一。学問を好み、儒学神道に通じ、「神祇宝典」「類聚日本紀」などを撰する。慶長五~慶安三年(一六〇〇‐五〇

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デジタル大辞泉 「徳川義直」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐よしなお〔トクがはよしなほ〕【徳川義直】

[1601~1650]江戸初期の尾張藩主。家康の九男。尾張徳川家の祖。尾州61万石の領主となり、儒学・神道を重んじ、「類聚日本紀」「神祇宝典」などの撰述がある。敬公。→尾州家

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川義直」の意味・わかりやすい解説

徳川義直
とくがわよしなお
(1600―1650)

江戸初期の大名。家康の第9子。御三家の筆頭尾張(おわり)家の祖。慶長(けいちょう)5年11月28日大坂城西丸(にしのまる)で石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神官志水宗清(しみずむねきよ)の娘お亀の方(相応院)を母として生まれる。幼名は千々世丸、のち五郎太丸。1603年(慶長8)甲府25万石を与えられ、06年元服して義知(よしとも)と名のり、しばらくして義利(よしとし)と改名。翌年尾張(愛知県)清洲(きよす)城主となり53万9000石。10年、新たに築かれた名古屋城主となる。大坂冬・夏の陣には家康とともに参加し、15年(元和1)浅野幸長(よしなが)の娘と結婚し、61万9000石に加増。翌年の家康の死後に駿府(すんぷ)を離れて初めて尾張に入国した。21年義直と改名し、26年(寛永3)従(じゅ)二位権大納言(ごんだいなごん)。学を好み儒教奨励し、城内に孔子廟(びょう)を営んだ。著書『神祇(じんぎ)宝典』『類聚(るいじゅう)日本紀』など。慶安(けいあん)3年5月7日江戸に没した。墓は水野村定光(じょうこう)寺(愛知県瀬戸(せと)市)。

高木昭作

『中村孝也著『家康の族葉』(1965・講談社)』

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日本歴史地名大系 「徳川義直」の解説

徳川義直
とくがわよしなおびよう

定光寺の本堂方丈の間を右手に、数十段の石段を登った所にある。生前義直は定光寺を自らの墓所と定めたという。仏教を嫌った義直は、死の半年ばかり前に、幼年時代の師林道春と議して、二品前亜相尾陽侯源敬と号した。慶安三年(一六五〇)五月七日江戸の藩邸で没すると、寺尾直政・鈴木重之らの近臣が殉じ、さらに陪臣などの新武屋保信・馬場永吉らもそれぞれの主人に殉じた。

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川義直」の意味・わかりやすい解説

徳川義直 (とくがわよしなお)
生没年:1600-50(慶長5-慶安3)

江戸初期の大名。尾張徳川氏の祖。徳川家康の九男として大坂に誕生。母は志水氏亀。幼名は五郎太,諱(いみな)は義利,字は子敬。1607年尾張に封を受け,10年名古屋に築城。従二位大納言。尊王の志が厚く,学問を好み,神道にも詳しい。立法,知行割り,税制改革,農商工業の振興,武事の奨励など藩政の基礎を固めた。《神祇宝典》《軍書合鑑》の著述もある。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「徳川義直」の解説

徳川義直

没年:慶安3.5.7(1650.6.5)
生年:慶長5.11.28(1601.1.2)
江戸初期の尾張(名古屋)藩主。初代将軍徳川家康の9男,母はお亀の方(相応院)。慶長8(1603)年甲斐国24万石を与えられ,12年尾張清洲に移され,15年名古屋を居城とした。元和1(1615)年信濃の木曾,同5年美濃の一部を加えられ61万9500石となり,御三家の筆頭に数えられた。寛永3(1626)年権大納言に進んだ。領内の治水に努め,新田開発を進めるとともに商工業の保護も行い,瀬戸窯業の発展の基礎を作る。また林羅山に師事し,のち堀杏庵 を招いて儒学を深め,神道にも造詣が深かった。『類聚日本紀』『神祇宝典』などの著書がある。

(上野秀治)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川義直」の解説

徳川義直 とくがわ-よしなお

1601*-1650 江戸時代前期の大名。
慶長5年11月28日生まれ。徳川家康の9男。母はお亀の方(相応院)。慶長12年三家(さんけ)筆頭の尾張(おわり)名古屋藩主徳川家初代となる。61万9500石。従二位,権(ごんの)大納言。儒学を奨励し,城内にわが国最初の孔子廟(びょう)(聖堂)を建立。慶安3年5月7日死去。51歳。初名は義知(よしとも),義利(よしとし)。著作に「神祇(じんぎ)宝典」,編著に「類聚(るいじゆう)日本紀」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川義直」の解説

徳川義直
とくがわよしなお

1600.11.28~50.5.7

江戸初期の大名。御三家の一つ尾張徳川家の祖。徳川家康の九男。母は側室相応院(お亀の方)。1603年(慶長8)甲斐国府中25万石をへて,07年尾張国清洲に入封,10年名古屋城に移り,19年(元和5)には尾張・美濃国などで計61万9000石余を領した。26年(寛永3)従二位権大納言に叙任。成瀬正成・竹腰正信ら付家老(つけがろう)の補佐を得,法令や職制の整備,家臣団への知行割など初期名古屋藩の藩政を推進。儒教を奨励し,城内に聖堂を営んだ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川義直」の意味・わかりやすい解説

徳川義直
とくがわよしなお

[生]慶長5(1600).11.28. 伏見
[没]慶安3(1650).5.7. 江戸
江戸時代初期,初代尾張藩主。家康の9男。母は於亀の方。慶長 12 (1607) 年尾張に受封 (61万 9000石) され,同 15年名古屋に築城,清洲城から移った。藩内に儒教を奨励し,自著に『類聚日本紀』がある。

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367日誕生日大事典 「徳川義直」の解説

徳川義直 (とくがわよしなお)

生年月日:1600年11月28日
江戸時代前期の大名
1650年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川義直の言及

【尾張国】より

…07年忠吉は病死し嗣子がなく絶家。家康の九男徳川義直が甲斐府中城主から清須城主となり尾張一円を領したが,幼少のため従来どおり駿府の家康の手もとにとどまり,吉次を常陸笠間に移し義直の重臣平岩親吉を入れ9万3000石を領し代わって国政を執らせた。翌年検地実施,高47万2344石と定まる。…

【尾張藩】より

…1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,清須城主福島正則に代わり,徳川家康の四男松平忠吉が入封したが,07年無嗣断絶。あとへ家康の9子徳川義直が甲斐より移封,翌年将軍秀忠の尾張一国を領知すべき旨の判物を受けた。しかし当時義直は幼少で駿府の父のもとにあり,国政は傅(もり)役の平岩親吉がとった。…

※「徳川義直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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