袋村(読み)ふくろむら

日本歴史地名大系 「袋村」の解説

袋村
ふくろむら

[現在地名]黒石市袋

黒石城下の東南にあたり、西は深川ふかがわ村、浅瀬石あせいし川を隔てて温湯ぬるゆ村、東は板留いたどめ村に接する。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「袋」とあり、「馬音内まうない」は現字毛内もうないのことといわれる。村の南側の金平岱こんぴらたいの山足に館跡がある。館主は不明だが、天正一三年(一五八五)宇杭野うぐいの合戦の勇士のなかに、袋野喜右衛門の名がみえる(津軽一統志)。慶長二年(一五九七)の浅瀬石城落城の際、残党が袋、白沢しらさわ(現中津軽郡西目屋村)に潜んで機をうかがったが果せず、百姓となって開拓に従事したという(白山姫神社沿革誌料)

袋村
ふくろむら

[現在地名]水俣市袋

肥後国最南端部の八代海沿岸にあり、北に月浦つきのうら村・中茂なかしげり村、東に野川のがわ村・茂川もがわ村、南の肥薩国境にかみかわ村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に「水俣内袋村」とみえ、田畠高五五二石五斗余とあり、屋敷数三七、男一二八・女八九、牛七・馬一九が記されるが、これは野川村と茂川村を含む数で、袋村のみでは屋敷数二四、男八二・女五九、牛四・馬一一である。ただしこれも同一六年の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)の記述から考えると、月浦村木臼野きうすの村・長崎ながさき村・津留つる村・頭石かぐめいし村・中茂村・大窪おおくぼ村などを含んだ数字と思われる。村内を薩摩街道が通り、文久(一八六一―六四)頃の水俣石高(水俣市立図書館蔵)には旅人宿・荷物問屋などがみえ、一一枚立の高札場もあり、村の中心部には在郷町的な性格もみられたようである。

袋村
ふくろむら

[現在地名]婦中町袋

井田いだ川中流右岸に隣接し、北は麦島むぎじま村、東は砂子田すなごだ村。御門みかど村に次いで開発が古く、室町時代後期の成立と伝える。袋とは三方を水に囲まれた地形名である(婦負郡志)為成ためなり保内の一村で、永禄九年(一五六六)一一月二八日の西川定勝寄進状(本覚寺文書)の宛所に「婦負郡為成之保北方袋村 本覚寺まいる」とある。真宗大谷派本覚ほんがく寺は現在町内富崎とみさきにある。

袋村
ふくろむら

[現在地名]金沢市袋板屋町ふくろいたやまち

なか村の南、浅野川右岸に位置。正保郷帳によれば高一九四石余、田方一二町三反余・畑方六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二四〇石、免五ツ一歩、小物成は山役二七二匁・蝋役四匁・漆役一三匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数五・百姓数六(高免付給人帳)。安政二年(一八五五)の高一九〇石、家数一二(うち頭振一)・人数八三。

袋村
ふくろむら

[現在地名]北区桐ヶ丘きりがおか一―二丁目・赤羽北あかばねきた一―三丁目・赤羽台あかばねだい三―四丁目・赤羽あかばね三丁目・岩淵町いわぶちまち

岩淵宿の西にあり、北は荒川を隔てて足立郡飯塚いいづか(現埼玉県川口市)、西は小豆沢あずさわ(現板橋区)。田園簿に袋村とあり、田一六六石余・畑一二四石余、幕府領。水損場と注記される。寛文五年(一六六五)には三二石余が小石川伝通でんづう院領となっており(寛文朱印留)、幕末には幕府領二七七石余、伝通院領一四五石余(旧高旧領取調帳)。村内は大袋おおぶくろ小袋こぶくろと称される地域に分れ、化政期の家数四七(風土記稿)。安政二年(一八五五)の家数九三・人数五七〇、馬一(「川口・岩淵宿組合地頭姓名其外書上帳」永瀬家文書)

袋村
くずぶくろむら

[現在地名]東松山市葛袋

石橋いしばし村の南に位置し、村域は都幾とき川右岸の低地から岩殿いわどの丘陵上に展開する。西は下唐子しもがらこ村。小田原衆所領役帳では入東につとうのうちとして葛袋とあり、小机衆の上田左近に当地の二五貫文などが与えられている。また「乙卯検地」との注があり、弘治元年(一五五五)北条氏による検地が行われている。田園簿によると田高一二二石余・畑高一四五石余、旗本渡辺吉綱領と相模甘縄藩領の相給。吉綱は寛文元年(一六六一)野本藩主となる。元禄郷帳では高四一五石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本四家の相給。「風土記稿」では旗本二家と幕府領の相給。

袋村
ふくろむら

[現在地名]鹿島町大内おおうち

蛇行しながら南東流する真野まの川南岸の平地に位置し、南と西は烏崎からすざき村・大内村真野川の対岸は南右田みなみみぎた村。三方を川に囲まれた平坦地なので袋村とよばれ、郷帳類には袋新田と記される。明暦二年(一六五六)の高一五七石余(相馬藩政史)。元禄郷帳には袋新田とみえ高三二二石余。なお元禄検地高は三二三石余、ほかに新田三斗余がある(奥相志)

袋村
ふくろむら

[現在地名]三条市袋

嵐南東山丘陵沿い平地に開けた村で、東は長嶺ながみね村・山崎やまざき新田、南から西にかけて入蔵にゆうぐら新田・入蔵村と接する。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に仁科孫太郎・須賀正左衛門尉・広瀬縫殿允らの知行分として、「袋村」あるいは「大面庄内袋村」がみえる。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、同一〇年の給知方村々高目録(新発田市史資料)によると毛付一二四石三斗余・荒一〇四石九斗余。また同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば、炉役八斗が五軒に課されている。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では二四七石五斗余。

袋村
ふくろむら

[現在地名]佐賀市本庄町ほんじようまち大字袋、鬼丸町おにまるちようみず五丁目

佐賀城下の南から西へかけての地域で、武家屋敷に隣接する。大崎おおさき村や鬼丸村を含む。

永正二年(一五〇五)三月一六日の千葉某の竜造寺隠岐入道あての安堵状(竜造寺家文書)に「肥前国佐嘉郡河副下庄袋之内瑞応寺壱所之事」とある。八田江はつたえの西にある低平な水田地域で、天正四年(一五七六)竜造寺隆信が建立した天満宮があり、また藩の焔硝蔵(火薬庫)が置かれていた。

袋村
ふくろむら

[現在地名]富山市上袋かみぶくろ

神通川の支流川の右岸に位置し、西は黒瀬くろせ村。北西部を飛騨街道が通る。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高三九八石、免三ツ三歩。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳によると、親村の下掛尾しもかけお村の南二町にある枝村新田で高五一六石。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高二八八石余・定免三ツ七歩、新田高五三石余・平均免一ツ三歩八厘二毛、定小物成は銀一一匁余。

袋村
ふくろむら

[現在地名]吹上町袋

下忍しもおし村の南東、元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置する。村の北部を忍川が東流し、集落は両川の自然堤防上にある。埼玉郡忍領に属した(風土記稿)。田園簿では田二七四石余・畑四〇一石余、幕府領・忍藩領、旗本鈴木・石巻・会田領の五給。元禄一二年(一六九九)に忍藩領となり幕末に至る(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書など)。城付佐間組で、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の家内人数四五四(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には高五〇一石余、百姓本人七八(忍領石高社寺人別帳)

袋村
ふくろむら

[現在地名]八千代町袋

鬼怒きぬ川旧河道最末端部に位置し、東は旧河道(現在は水田)を隔て川尻かわじり村。南下してきた旧河道が大きく湾曲して北上する突端部に旧村社白山はくさん神社があり、真宗大谷派常照じようしよう寺ももとはこの付近にあったといわれるが現在は北寄りの集落の中にある。したがって初期の集落はこの突端部近くに形成され、のち分散散居したものと考えられる。結城道が鬼怒川西岸の土手に沿って屈曲しつつ斜めに通じる。

袋村
ふくろむら

[現在地名]魚津市袋

片貝かたかい川左岸にあり、北西は六郎丸ろくろうまる村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三三石・免四ツ二歩、明暦二年(一六五六)・同三年の新田高五石(三箇国高物成帳)。宝永六年(一七〇九)など七度の手上高があり、天保一一年(一八四〇)の打銀高六〇石(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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