細川氏(読み)ほそかわうじ

改訂新版 世界大百科事典 「細川氏」の意味・わかりやすい解説

細川氏 (ほそかわうじ)

(1)室町時代の守護大名。足利氏の祖である清和源氏源義康の次男義清から出た。義清の孫義季のとき,本家の三河守護足利義氏に従って下野から三河に移り,細川(現,岡崎市北西部)の地を本拠とし,細川氏を称した。鎌倉期は所領も狭小で,足利氏の惣領的支配に従属する小領主にすぎなかった。元弘・建武の争乱に際し足利尊氏に従った細川一族は各地で戦功を挙げ,ことに1335年(建武2)の尊氏離反後は,俊氏の孫定禅らが四国,中国方面の軍勢催促に活躍,翌年尊氏の西下に当たり細川顕氏,和氏,定禅らは四国における足利方の再建をゆだねられ,以後同氏が四国に勢力を扶植する端緒となった。同年室町幕府が成立するや,河内・和泉・讃岐が顕氏に,土佐が皇海に,日向・阿波・伊予・備後が細川頼春に,淡路が師氏にそれぞれ与えられ,早くも同氏は7ヵ国以上の国持守護となり,足利一門中最有力の大名になる。なかでも細川清氏は観応の擾乱(じようらん)で軍功著しく,58年(正平13・延文3)幕府執事となり,清氏没落後は頼春の長男細川頼之が惣領となり,中国管領,四国管領,幕府管領を歴任,幼将軍義満をたすけて幕政を主導したが,79年(天授5・康暦1)政敵斯波義将の画策で幕府の弾圧をこうむった(康暦の政変)。しかし族滅は免れて3年後には赦免され,明徳の乱では山名氏討伐に重要な役割を果たし,南北朝末期の細川一族の分国は讃岐,阿波,土佐,淡路の南海道諸国に摂津,丹波,備後,備中の8ヵ国(のち備後が和泉に代わる)を数え,おおむね世襲分国として戦国期まで守護職を保持した。このうち摂津,丹波,讃岐,土佐の4ヵ国は京兆家と呼ばれた惣領家に伝領され,当主は畠山,斯波両氏と交替で管領を歴任,兵庫と堺の二大良港の地に守護所をおき,淡路,伊予の水軍をも勢力下に収め,瀬戸内海の制海権を事実上掌握した。

 斯波,畠山両氏が家督紛争で衰微すると,嘉吉の乱後台頭した侍所家の山名氏がわずかに同氏に対抗しうるにすぎず,これも応仁・文明の乱で細川氏の優位が明らかになると,1487年(長享1)以降は細川氏以外に管領を出す家は皆無となった。乱後将軍足利義尚,義材(義稙)は将軍親裁権の強化を目ざして細川氏を抑えようとしたが,細川政元は先手を打って93年(明応2)将軍義材を廃立し,政敵畠山政長を敗死させて幕政に主導権を確立,以後将軍はまったく細川京兆家の傀儡(かいらい)と化した。また同氏は摂津,丹波,和泉の畿内分国統治に当たって四国系の国人のみを重用したので畿内国人の反発を招き,乱後各地で国一揆に見舞われたが,これも弾圧によって明応政変までには鎮静化している。政元が政治に倦んで事実上隠居すると,被官の四国系守護代がその主導権を争い,政元の2人の養子澄之と澄元の対立もあって,16世紀に入ると反乱と弾圧が相次ぐ。しかし1508年(永正5)庶系から宗家を継いだ細川高国によって畿内の混乱は収束された。跡を襲った晴元の晩年,家宰の三好氏が台頭し,次の氏綱の代はまったく三好長慶に操られる存在となる。本家は昭元の代に断絶し,和泉守護家を継いだ細川藤孝が細川の名代を継承,近世に至って肥後熊本城主となり維新に至る。
執筆者:(2)近世大名。近世細川氏は藤孝(幽斎)を初代とし,2代忠興(三斎)は小倉藩主,3代忠利から13代韶邦(よしくに)が1869年(明治2)版籍奉還するまで熊本藩主であった。藤孝は1534年(天文3)三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれた。足利義晴の子ともいわれる。39年義晴の命により細川元常の養子となった。藤孝はすぐれた文化人で,足利義昭,織田信長,豊臣秀吉に仕え,子忠興とともに丹後宮津12万石を領した。忠興は関ヶ原の戦後豊前・豊後30万石に封ぜられ中津城主(のち小倉城に移る)となる。その子忠利は1632年(寛永9)加藤忠広改易後の肥後54万石に封ぜられ熊本城主となり,父忠興は八代城に入り隠居領3万石を領した。46年(正保3)忠興の死後八代城に家老松井興長が入り,忠興の四男立孝(早世)の子行孝は藩主光尚から宇土益城2郡のうち3万石を内分され宇土町に館を構えた(宇土藩)。熊本新田藩は66年(寛文6)光尚の次男利重が兄綱利から新田3万5000石を蔵米で給され,江戸定府であった。1868年世上不安を理由に帰国高瀬(現,玉名市)に移り高瀬藩と称した。70年両支藩は本藩に吸収された。常陸谷田部藩は藤孝の次男興元が,関ヶ原の戦の功により1610年(慶長15)下野国芳賀郡に1万石を与えられ茂木居所とし,さらに16年(元和2)常陸国に6200石余加増され,筑波郡矢田部に居所を置いた。維新後本家は侯爵,分家は子爵。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川氏」の意味・わかりやすい解説

細川氏
ほそかわうじ

(1)足利(あしかが)一門の守護大名。清和源氏(せいわげんじ)。嫡流は室町幕府の管領(かんれい)家。足利義康(よしやす)の曽孫(そうそん)義季(よしすえ)が鎌倉中期、三河国(みかわのくに)額田(ぬかた)郡細川郷(愛知県岡崎市細川)を本領としたのに始まる。義季の曽孫和氏(かずうじ)・頼春(よりはる)・師氏(もろうじ)兄弟とその従兄弟(いとこ)顕氏(あきうじ)・定禅(じょうぜん)ら兄弟は、足利尊氏(たかうじ)に属して四国、近畿などで軍功を重ね、一族で数か国の守護となった。和氏の子清氏(きようじ)は将軍義詮(よしあきら)の執事(しつじ)となったが追放された。頼春の子頼之(よりゆき)は中国に足利直冬(ただふゆ)党を攻め、四国で従兄弟清氏を討ち、管領(かんれい)となって将軍義満(よしみつ)を助け、室町幕府と守護大名細川氏との基礎を固めた。嫡流は代々、摂津、丹波(たんば)、讃岐(さぬき)、土佐の守護を継いで管領となり、庶流5家もそれぞれ和泉(いずみ)(半国ずつ2家)、阿波(あわ)、淡路、備中(びっちゅう)の守護を世襲した。管領勝元(かつもと)に至り、山名宗全(やまなそうぜん)(持豊(もちとよ))と対立して応仁(おうにん)の乱(1467~77)を引き起こし、その子政元(まさもと)は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之(すみゆき)を擁する家臣に殺された。それ以来一族・家臣分争して阿波の三好(みよし)氏の台頭を招き、1561年(永禄4)晴元(はるもと)が三好長慶(ながよし)に降り、管領細川氏はまったく没落した。

(2)江戸幕府の外様大名(とざまだいみょう)。本家は肥後熊本藩主。和泉半国守護細川元常(もとつね)の甥(おい)で養子の藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))よりおこる。藤孝は足利・織田・豊臣(とよとみ)氏に仕え、丹後(たんご)田辺(たなべ)(京都府舞鶴(まいづる)市)城主、その子忠興(ただおき)(三斎(さんさい))は徳川家康に属し豊前(ぶぜん)小倉(こくら)(福岡県北九州市)藩主となり、父子ともに故実(こじつ)、歌道などに長じた。忠興の子忠利(ただとし)は1632年(寛永9)熊本54万石を領し、子孫相継いで外様雄藩の藩主。なかでも江戸中期の重賢(しげかた)は藩政改革に努め、名君として知られる。忠興の弟興元(おきもと)、忠利の甥行孝(ゆきたか)、孫利重(とししげ)はそれぞれ常陸(ひたち)谷田部(やたべ)(茨城県つくば市)藩、肥後宇土(うど)(熊本県宇土市)藩、新田(しんでん)藩(のちに高瀬藩と改称、熊本県玉名市)の初代藩主となる。明治維新後は4家ともに華族に列し、熊本の本家は侯爵、他の3家は子爵となった。

[小川 信]


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百科事典マイペディア 「細川氏」の意味・わかりやすい解説

細川氏【ほそかわうじ】

清和源氏足利氏の支流。室町幕府三管領(かんれい)家の一つ。三河国八名(やな)郡細川郷を本拠とする。足利尊氏の挙兵に従い,畿内および中国・四国地方の守護大名となる。また管領として幕政に参加,15世紀中ごろ勝元の時代が最盛期。戦国末期,支流の藤孝(幽斎)が家を再興,のち肥後(ひご)熊本藩主となり,明治維新後侯爵。→細川勝元細川幽斎細川頼之
→関連項目秋月荘永青文庫大野荘(徳島)金丸荘からしれんこん柞田荘熊本[県]熊本[市]鹿田荘政基公旅引付

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川氏」の意味・わかりやすい解説

細川氏
ほそかわうじ

清和源氏。室町幕府三管領家 (→三管四職 ) の一つ。足利義季が上野から三河国額田郡細川郷に移り,郷名を称したことに始る。一族は足利尊氏の挙兵に応じて各地に転戦。尊氏西走の際は四国におもむき,ここに領国体制の基礎を築き,のちに讃岐,河内,和泉,阿波,淡路などの守護となった。清氏のとき室町幕府の執事となったが,足利義詮 (よしあきら) にそむいて滅ぼされた。しかし清氏のいとこ頼之は,正平 22=貞治6 (1367) 年義詮の死にのぞんで子の義満を託されて執事 (管領) となった。こののち頼之の子孫はしばしば管領となって幕府に重きをなした。応仁の乱後,守護領国体制がくずれ,一族が分裂して相争い,天文 21 (1552) 年には本拠地阿波までも三好氏などに蹂躪されて滅んだ。その後,支流の長岡藤孝 (→細川幽斎 ) のとき再興され,忠興のときに丹波宮津 12万石の大名となり,関ヶ原の戦いを経て,徳川氏から豊前小倉 35万 9000石に封じられ,寛永9 (1632) 年には肥後熊本 54万石の大名に封じられた。明治になって侯爵。熊本支藩の宇土細川,常陸谷田部の細川はともにこの支流で,明治にいたり子爵を授けられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「細川氏」の解説

細川氏
ほそかわし

室町幕府の管領,近世の大名家。清和源氏足利氏の支族。足利義清の孫義季(よしすえ)が,三河国額田郡細川郷(現,愛知県岡崎市)に住み,細川氏を称したのに始まる。その子孫は足利尊氏の挙兵に従い,軍功をたてて勢力を伸ばした。7代頼之(よりゆき)が3代将軍足利義満の後見となり管領として幕政を主導。以後,嫡家(京兆(けいちょう)家)は幕府管領家の一つとなり,摂津・丹波・讃岐・土佐諸国の守護を世襲。嫡家を中心に,阿波・備中・淡路・和泉の守護家など庶流数家が連合し,幕府内に有力な地位を占めた。応仁の乱後,嫡家・庶家ともに衰退,滅亡したが,和泉国守護の末裔藤孝(幽斎)・忠興(ただおき)(三斎)父子が織田・豊臣両氏に従い,一族を再興。のち徳川氏に属し,肥後国熊本城主となり,外様の有力大名として存続し明治期に至る。維新後,侯爵。庶流3家は子爵。「細川家史料」を伝える。

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旺文社日本史事典 三訂版 「細川氏」の解説

細川氏
ほそかわし

南北朝〜室町時代の有力な守護大名。室町幕府の三管領家の一つ
足利氏の一支族。足利義季 (よしすえ) が三河国八名郡細川郷に住み姓とした。足利尊氏の挙兵に従って功をたて,讃岐・阿波を中心に河内・和泉など畿内周辺の地を領国として活躍,頼之が将軍足利義満を補佐して管領となって以来勢力を固めた。勝元は応仁の乱(1467〜77)に東軍の主将として活躍したが,乱後細川氏は衰えた。のち一族の藤孝(幽斎)・忠興父子は,関ケ原の戦い(1600)後徳川家康に仕え,忠興の子忠利が肥後国熊本に封ぜられた。以来有力な外様大名として14代続き,明治維新に至る。

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世界大百科事典(旧版)内の細川氏の言及

【阿波国】より

…これは荘園支配体制および鎌倉幕府の支配体制を崩壊させる原動力となった悪党の活動の阿波におけるあらわれであり,時代は南北朝の動乱を経て室町時代へと入っていく。 南北朝動乱のなかで,小笠原氏に代わり,阿波守護として入部してきたのは足利氏の一族である細川氏である。動乱の初期,細川氏は板野郡に秋月城を築き,吉野川流域平野部の武士を足利方に組織するとともに,ここを拠点に四国全体の経営を行ない,室町幕府の基盤固めに貢献する。…

【小倉藩】より

…1587年(天正15)より毛利勝信が企救・田川2郡を領していたが関ヶ原の戦後改易され,代わって細川忠興が丹後国宮津より入部,豊前一国および豊後国国東(くにさき)・速見2郡をあわせ30万石(内高39万9000石)を領した。細川氏は1602年(慶長7)より小倉城を築き,領内の検地および戸口調査を実施,手永(てなが)制度を創設,また城下町を整備して藩制の基礎を定めた。22年(元和8)作成の〈小倉藩人畜改帳〉は江戸初期の農村の状況を今に伝えるものとして貴重である。…

【讃岐国】より

…なお,1207年(承元1)法然が讃岐に配流となり,浄土宗の展開をもたらした。 南北朝・室町時代,讃岐は細川氏嫡流,京兆(けいちよう)家の根本分国として重要な政治的役割をになった。《太平記》には1335年(建武2)足利尊氏の西走に際し,細川和氏,頼春,顕氏,定禅(じようぜん)らを西国諸国に配置して再挙にそなえたことが記され,このうち定禅が讃岐鷺田(さぎた)荘(現,高松市)で挙兵し諸勢力を糾合したことが伝えられている。…

【摂津国】より

… 摂津の守護には承久の乱後,長沼,安達,野本,北条らの諸氏がみられ,1315年(正和4)以降は六波羅北方が兼帯した。南北朝期以降には赤松,仁木,細川の諸氏があいついで守護となり,1397年(応永4)以降は管領細川氏の一族が守護職を世襲して,摂津は細川氏の領国となった。応仁の乱後,幕府の実権を独占した細川政元が死ぬと,その養子澄元,高国の対立で細川家は分裂し,摂津の支配は幕府の実権とともに,抗争の中で澄元から高国へ移ったが,その後1526年(大永6)の反高国派の蜂起により,高国から澄元の子晴元に移行した。…

【瀬戸内海】より

…なかでも征西将軍宮懐良(かねよし)親王の九州下向に当たり,忽那義範は1339年(延元4∥暦応2)これを忽那本島の館に迎え,その3ヵ年の滞在中,伊予の南軍の勢いは大いに振るった。しかし,やがてまず四国東部は武家方の細川氏が制し,中国路においても63年(正平18∥貞治2)ころから大内弘世や山名時氏が幕府方に降って南朝勢力は急速に衰え,最後まで細川氏に対抗した伊予の河野氏もやがて幕府に降り,瀬戸内の南北朝内乱は終りを告げた。将軍足利義満は89年(元中6∥康応1)3月,厳島参詣の名目で諸大名を従えて西下し内海遊覧の旅を行ったが,これは瀬戸内の海上勢力が幕府に制圧されたことを象徴するできごとであった。…

【大名】より

…織豊大名は織豊両氏の家臣から近世大名に取り立てられたもの。丹羽,前田,藤堂,仙石,池田(岡山,鳥取),浅野,蜂須賀,山内,黒田,有馬,細川氏らで(福島,加藤,京極,生駒氏らは改易(かいえき)),北陸,中国,四国,九州に多い。徳川系大名は徳川氏の一門,家臣から近世大名に取り立てられたもので,さらに親藩譜代大名に分かれる。…

【丹波国】より


[室町から戦国へ]
 1391年(元中8∥明徳2)末に明徳の乱が勃発して,丹波守護山名氏清は敗死。摂津・讃岐守護の細川頼元が守護として入部し,戦国末に至る百数十年の細川氏の丹波支配が始まる。細川氏治下に領国機構はさらに整備され,守護代の下に2~3郡を管轄する小守護代が常設され,各郡には郡奉行が置かれ,使節遵行(じゆんぎよう),段銭徴収,検断など領国事務をつかさどった。…

【手永】より

…近世,細川氏が豊前,肥後で設けた地方行政単位で,郡の下に30村程度を束ねる。慶長(1596‐1615)末年ごろ始めたらしい。…

【土佐国】より

…1323年(元亨3)以降,守護代として北条氏得宗(とくそう)被官安東氏の在任が確かめられるから,守護は得宗家である。守護所の所在地は不明だがおそらくは国衙に近い香長(かちよう)平野の東部であろう(室町期の守護代細川氏の居館は香美郡田村にあった)。鎌倉期の土佐の地頭・御家人としては,古くからの在地領主で幕府に本領安堵された夜須,八木,安芸などの諸氏と,治承あるいは承久の乱以後入部したと思われる長宗我部(ちようそがべ)氏香宗我部(こうそがべ)氏,大黒氏などがあり,津野氏も後者の公算が大である。…

【肥後国】より

…忠利はさっそく人畜改めと地撫(じならし)を行って土地と人民を把握し,領内を50~60の手永(てなが)に区分し,土豪を登用して惣庄屋に任じて地方支配に当たらせ,熊本のほか八代,川尻,高瀬,高橋を五ヶ町として藩の直接支配とするなど領内統治体制を整えた。細川氏の藩政は忠利の子の藩主光尚が30歳の若さで没したとき,幼い綱利の統治を危ぶみ幕閣に藩二分の動きがあったが,この危機を乗り切ってからは順調に推移した。しかし財政的には苦しく,入国直後の島原の乱(1637)出兵,47年(正保4)長崎警衛まではなんとかもちこたえたものの,享保の飢饉や代々の御手伝普請(おてつだいぶしん)などによって悪化の一途をたどり,7代藩主宗孝のころには参勤の費用にも事欠き,たとえ参勤できても江戸での月々の御用金にもさしつかえるという有様であった。…

【備中国】より

…南北朝期に空白になった守護に,南遠江守宗継,高(こう)越後守師秀,宮下野守兼信,渋川義行,同満頼らが交代して補任されたが,1392年(元中9∥明徳3)に細川満之が守護に任ぜられてからは,頼重,氏久,持常,勝久,之持,政春とその子孫が守護職を継承して戦国期に及んだ。細川氏の下で守護代に任じたのは荘,石川両氏であるが,守護家の勢力が衰えると,両守護代家や国人三村氏の勢力が台頭して本格的な戦国乱世を迎える。 中世の荘園としては,東寺領新見(にいみ)荘,神護寺領足守(あしもり)荘,南禅寺領三成(みなり)荘,安楽寿院領駅里(はゆまや)荘,相国寺領大井荘などが知られ,ほかに東福寺領上原(かんばら)郷,吉備津宮領隼島(はやしま)保,新熊野社領佐方(さかた)荘,万寿(ます)荘,多気(たけ)荘,長講堂領巨瀬(こせ)荘,六条院領大島保ほかの多くの荘園があり,皇室領荘園が多いのがめだつ。…

※「細川氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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