高瀬藩(読み)たかせはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「高瀬藩」の意味・わかりやすい解説

高瀬藩
たかせはん

肥後熊本(細川)藩の支藩の一つ。肥後(熊本)新田(しんでん)藩ともいう。細川氏4代光尚(みつなお)の二男利重(とししげ)が、1666年(寛文6)7月、熊本藩主兄綱利(つなとし)の願いによって肥後領分のうち3万5000石を分知したのに始まる。江戸詰めで、知行地(ちぎょうち)をもたず、宗家から切米(きりまい)が送られた。江戸の上屋敷は鉄砲州(てっぽうず)、下屋敷は本所中ノ郷にあった。第10代利永(としなが)のとき、1868年(慶応4)鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いのあと、本藩の勧めもあって江戸を引き払い、藩地を高瀬(現玉名(たまな)市)岩崎原に定めて、高瀬藩と称した。100町歩の陣屋地に御殿を建設し、周囲を区画して家臣団(297戸、700人)を格式別に配置。版籍奉還の際、藩として認められたが、知藩事の任命がなく解体、本藩に合併。藩校自明堂を設立し子弟を教育した。

[森山恒雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の高瀬藩の言及

【熊本藩】より

…46年(正保3)忠興の死後八代城は老臣松井佐渡守興長に預けられ,藩主光尚(みつなお)の従弟行孝は宇土,益城2郡のうち3万石を内分されて宇土藩を立てた。ついで66年(寛文6)藩主綱利の弟利重は蔵米のうち3万5000石を内分されて江戸定府の新田藩(1868年高瀬に移り高瀬藩)を立てた。1649年(慶安2)2代光尚が31歳で死去したとき嫡子六丸(のちの綱利)は6歳で,九州の押えの大藩としての前途が危ぶまれたが,翌年遺領相続が許され事なきを得た。…

【細川氏】より

…熊本新田藩は66年(寛文6)光尚の次男利重が兄綱利から新田3万5000石を蔵米で給され,江戸定府であった。1868年世上不安を理由に帰国,高瀬(現,玉名市)に移り高瀬藩と称した。70年両支藩は本藩に吸収された。…

※「高瀬藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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