大野荘(読み)おおののしょう

改訂新版 世界大百科事典 「大野荘」の意味・わかりやすい解説

大野荘 (おおののしょう)

豊後国大野郡(現,大分県豊後大野市の北西部)の荘園大野郷が荘園化したもの。1186-1198年(文治2-建久9)の間に京都三聖寺に寄進されたようで,〈三聖寺領文書惣目録〉(年未詳)に〈大野荘 建久九年実検目録送文〉が見え,98年以前に三聖寺が領家となったことがわかる。〈弘安図田帳〉(1285)に面積300町,志賀村73町,上村51町,中村100町,下村76町と見える。建久のころ,中原親能が在地領主大野氏を滅ぼして獲得した地頭職は,養子大友能直に譲与された後,妻深妙を経て7人の子息に配分された。1289年(正応2)に志賀村北方で,92年には同村南方で,それぞれ三聖寺と各地頭間で坪分中分をし,さらに1314年(正和3)には南方で分直(わけなおし)一円中分が行われた。1581年(天正9)ころまで大友宗麟(義鎮)と義統父子は当荘を大名請所とし,300貫文で請け負ったが,大友氏衰退で三聖寺の当荘支配も終わった。
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大野荘 (おおののしょう)

阿波国那賀郡(現,徳島県阿南市)の荘園。《和名類聚抄》の大野郷の地。1159年(平治1),鳥羽上皇の御願寺宝荘厳院の所領目録に記載されている12ヵ荘の一つとして初出。本家は宝荘厳院,領家は藤原季行。このうち本家職は,のちに八条院領に属するが,1330年(元徳2),後醍醐天皇は宝荘厳院を東寺に寄進し,この荘も東寺の支配するところになる。一方,領家職は藤原季行から九条家に移る。1204年(元久1)の九条兼実の譲状では本荘と新荘とに分かれているが,このうち本荘については,九条道家の所領処分に際して子どもの実経に譲られ,さらに71年(文永8)には普門寺に寄進された。南北朝期になると,本家職をもつ東寺は,阿波守護細川氏が荘園の押領を企てていることを室町幕府にくりかえし訴え,普門寺も1368年(応安1)には大野本荘について同様な訴えを起こしている。それ以後のこの荘の動向はあきらかではない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野荘」の意味・わかりやすい解説

大野荘
おおののしょう

豊後(ぶんご)国大野郡に存在した荘園。大分県豊後大野市の北部にあたる地域。『和名抄(わみょうしょう)』における大野郷が荘園化したもの。平安末期に、開発領主であった大野氏が京都三聖寺(さんしょうじ)に寄進し、三聖寺領荘園として成立したものと推定される。水田面積は300町で、上村、中村、下村、志賀村の4か村に分かれる。鎌倉初期、大野氏は幕府追討を受け、中原親能(ちかよし)が総地頭となり、養子の大友能直(よしなお)に継承された。以降この地は豊後大友氏隆盛の基盤となり、惣領制(そうりょうせい)的支配が行われ、庶子家のうち志賀村南方(みなみかた)の志賀氏、上村一万田(いちまだ)氏らが発展した。地頭制の進展とともに領家の支配は形骸(けいがい)化したが、1581年(天正9)ごろまで大友氏による三聖寺への貢納が続けられた。

[海老澤衷]

『渡辺澄夫著『豊後国大野荘史料』(1979・吉川弘文館)』

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