福岡村(読み)ふくおかむら

日本歴史地名大系 「福岡村」の解説

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]二戸市福岡

馬淵まべち川中流右岸に位置し、奥州街道が町筋に沿って南北に縦貫する。「北奥路程記」によれば呑香稲荷とんこういなり参道入口の南方に一里塚がみえる。西流してきた白鳥しらとり川が当地で馬淵川と合流、合流点の南には九戸政実の居城であった九戸城跡がある。当時は宮野みやのとよばれたが、天正一九年(一五九一)南部信直の入部とともに福岡と改められたとされる(「内史略」など)。慶長一三年(一六〇八)一〇月二四日の南部利直知行宛行状(岩舘系図)によれば岩舘右京亮が「福岡之内舟田」と「宮野さんかう」に合せて二石余を与えられている。正保国絵図に村名がみえ、高四一五石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高六三一石余とあり、七ヵ年平均の免一ツ五分四厘五毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方二五五石余・畑方六〇九石余。「邦内郷村志」では福岡村九日ここのか町とみえ、蔵分九一九石余のみ。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数五三五、うち駅場五日いつか町六六・同九日町一四三・本村一七九で、枝村は村松むらまつ五六、穴牛あなうし一三・鍵取かぎとり一四・かどさわ八・きり久保くぼ三・尻子内しりこない一七・ぬま六・舟田ふねだ一・つなぎ二・蝦夷森えぞもり一・月木平つきのきたい二・鷹場たかば二・大萩野おおはぎの七・夏間木なつまぎ六・さく久保くぼ八・上野うわの一。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]泉市福岡

根白石ねのしろいし村の北西、七北田ななきた川右岸とその支流花輪はなわ川左岸に位置し、泉ヶ岳(一一七二メートル)から南東に延びる丘陵上に立地。北東は平坦地。平姓国分系図(「宮城県史」所収)によると、国分氏二代胤茂の末子茂晴は福岡七郎と称し、采地八〇〇余町で国分こくぶ庄福岡村に居住、福岡氏を称したという。正応元年(一二八八)一二月一九日没とあり、当地がその頃国分氏一族の支配を受けていたことを推定させる。福岡氏は福岡館に居住していたと考えられる。正保郷帳によると田七三貫四一三文・畑五一貫五四八文、ほかに新田七貫一一九文。柴山の注記がある。「封内風土記」では戸数六五。「伊達世臣家譜」によると当村に給所をもつ武士は次のとおり。永田氏(虎間番士格、三六七石)・甲田氏(同、一五〇石)・桜田氏(同、三〇三石)・太田氏(同、一五〇石)・多ヶ谷氏(同、四〇〇石)・長田氏(同、四〇両八口)・甲田氏(中間番士格、五〇〇石)・遠藤氏(同、一一〇石)・久米氏(次間番士格、三〇〇石)。「安永風土記」によると代数有之百姓が四人いる。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]上福岡市福岡・福岡一―三丁目・たきうえはら長宮ながみや西原にしはら・上福岡一―六丁目・西にし一―二丁目・かすみおか一―三丁目・北野きたの一―二丁目・大原おおはら一―二丁目・上野台うえのだい一―三丁目・武蔵野むさしの中央ちゆうおう一丁目・南台みなみだい一―二丁目・元福岡もとふくおか一―三丁目

現上福岡市の中央部に位置する。北部を南東流する新河岸川を挟み北は渋井しぶい村・古市場ふるいちば(現川越市)、東は大久保おおくぼ(現富士見市)、新河岸川右岸の滝・はけ(本村)、東方の下福岡の三地区に分れ、福岡新田・中福岡村と村域が錯雑する。小田原衆所領役帳には御家門方伊勢兵庫頭に「入東福岡内刑部分」二〇貫文、小机衆上田左近に「福岡内難波田分」六貫文、御馬廻衆藤田大蔵丞に「福岡之内沼間分」四貫文、江戸衆富永善左衛門に「入東郡福岡」三七貫文、「福岡内渋谷分」三貫文、他国衆柏原に「福岡内小幡分」一三貫文の知行地が宛行われ、うち富永氏の知行地では弘治元年(一五五五)に検見が行われた。天正一八年(一五九〇)正月二一日の北条家印判状写(武州文書)によれば、福岡に対し郷中の兵粮は郡代の干渉を排除し領主が指図すること、種・夫食・食物以外を隠し置いた場合は兵粮として没収することなどが命じられた。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]村岡町福岡

黒田くろだ村の南にあり、山陰道が通る。一帯は湯舟ゆぶね川の支流にあたる大谷おおたに川・大野おおの川・八井谷やいだに川が合流して小盆地を形成、集落はこの盆地の東側に発達。集落西方には大谷川と湯舟川・大野川に挟まれた舌状の丘陵地(八幡山)が南西方から北東方に張出し、同丘陵上に中世の中山なかやま城跡や八幡神社などがある。交通の要衝を占める当村は、中世には菟束うつか庄の中心地、中山城の城下として発展、古くは市場いちば村・菟束(兎束)村、あるいは菟束市場村などと称していた。近世にも一帯の交易の中枢として賑いをみせ、福岡町ともよばれた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」では菟束分のうちとして「市は」とみえ、伊勢神宮の御師吉久は当地で神札一四、五枚を配っている。また当地には井上加賀殿・同又三郎殿・同助二郎殿・同石見殿などの井上氏一族が居を構えていた。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]長船町福岡

現長船町の西部、吉井川左岸にあり、西は同川を挟み寺山てらやま(現岡山市)。山陽道が通る。もとは上道郡であったが、吉井川の変流にともない邑久郡に編入されたとみられるが、その時期は不明。中世には一帯に福岡庄が成立していた。貞和二年(一三四六)九月日の光信申状案(東寺百合文書)に「福岡村」とみえ、小国宮内左衛門入道が知行していた。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千五六八石余。「備陽記」では、田畑八六町二反余、家数二六六・人数一千四六七、枝村にくるまがある。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二千三四六石余で、蔵入のみ。反別は田四四町二反余・畑四一町八反余、家数二四八・人数八六〇、牛八三、寺四(寺領一一石余)、樋一一、土橋二一、池三、波戸一(長さ二八間)、高札一、大川堤長さ七一〇間。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]高松市上福岡町かみふくおかちよう観光町かんこうちよう

御坊ごぼう川下流域東側の平野部に位置し、西は城下藤塚ふじづか町、西から北は東浜ひがしはま村。長尾ながお街道が通る。寛永(一六二四―四四)以前は海が入込んでおり(南海通記)、寛永国絵図に村名がみえるが、当村沖には深い入江が描かれる。同図では野原のはら庄に所属。寛永年間生駒高俊は西島八兵衛に命じ、当村から山田やまだ木太きた春日かすがを経てしん川に至る堤防を築いて入海の干拓を行った。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]河内村福岡

江津ごうづ村の北に位置し、集落は手取川右岸の河岸段丘上にある。慶長四年(一五九九)の前田利家知行宛行状(県立歴史博物館蔵)に村名がみえ、知行高四八四俵余。正保郷帳では高三二三石余、田方六町三反余・畑方一五町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(福岡区有文書)の高三四〇石、免四ツ一歩、小物成は山役三〇一匁・川役三〇目。同年間の家高数一四・百姓数三七(高免付給人帳)。享保六年(一七二一)に一〇石余の新田開発が行われ(「新開願許可状」福岡区有文書)、寛政四年(一七九二)の高は三四八石余(「田地割帳」同文書)

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]谷和原村福岡

小貝こかい川東岸の微高台地に所在。小貝川から取水する福岡堰が設けられている。「寛文朱印留」によれば河内狭山藩北条氏領であったが享保三年(一七一八)に土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には土浦藩領一〇〇一・三四二石のほか阿弥陀堂領三〇石があった。村内は寺町てらまち北坪きたつぼ大畑おおばたけ戸崎とざき塙坪はなわつぼ水門みずもん根新田ねしんでん中曾根なかそねに分れる。大楽だいらく寺は西光さいこう寺とも称し、天台宗で、阿弥陀堂があり朱印地三〇石を宛行われていた。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]小高町福岡

小高川の南岸に位置し、南は女場おなば村、東は枝郷村上むらかみ村と村上浦に接するが、浦は現在は消滅。「奥相志」に「一邑低地にして洪水あれば則ち田を浸し稲を損ず。瀕浦の地亦大波あれば則ち潮水田に入りて稲実らず」とある。明暦二年(一六五六)に村上村を分村(相馬藩政史)。天保郷帳に「古者 福岡村・村上村弐ケ村」と注記される。延文三年(一三五八)一一月二〇日の相馬親胤譲状(相馬文書)によると、「陸奥国行方郡福岡村、小池村」が親胤の子息胤頼に譲られているが、両村は鎌倉寿福じゆふく寺領であるため年貢は同寺に納めることとされている。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]福岡町福岡

付知つけち川中流に沿い、南は高山たかやま村、北は田瀬たせ村、東は下野しもの村。「美濃国諸家系譜」によれば、遠山氏の祖加藤次景廉は承久三年(一二二一)没し、廟所は福岡村にあるという。遠山氏拠点の苗木なえぎ(現中津川市)は、当初福岡村植苗木うえなえぎにあり、広恵寺こうえんじ城といったという。この地は中山道西道(黒瀬道)と南北街道が交差し、飛騨と木曾の境界の要衝であったためという。関ヶ原戦後、遠山友政(苗木藩)領となり、以後幕末まで同藩領。慶長郷帳の加茂郡に村名がみえ、高七四五石余とある。正保郷帳では田方五六一石余・畑方一七九石余で、ほかに新開田畑高一四六石がある。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]若柳町 福岡

若柳村の北西、はさま川左岸の自然堤防上に立地する。北部後背地は水田が開け、金成かんなり耕土の中心をなす。北は三迫の武鎗さんのはさまのむやり村、西は同大林おおばやし村で、当村も三迫の内。村名は古く福宇賀村と書いたとも伝え、周囲の低湿地よりやや小高いため岡の字を用いたともいう。正保郷帳に水損と注され、田四一貫四九一文・畑九貫五一九文で、ほかに新田五三貫五五文。「封内風土記」に戸数五五とある。御分領中風土記(飯田次雄家蔵)によれば、安永期(一七七二―八一)の高一一一貫九〇二文で、蔵入三三貫八四五文。人頭六二人、うち寛永検地時の竿答百姓は二八人。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]倉吉市福守町ふくもりちよう西福守町にしふくもりちよう鴨川町かもがわちよう

岡田おかだ村の北に位置する。古くは同村の枝郷であったが、のちに分村した。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に村名がみえ、高三一四石余、竈数一八、村内に四宮大明神を祀る。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。寛政年間(一七八九―一八〇一)の久米郡御通筋厘付帳(県立博物館蔵)では本田高三〇二石余(うち畑高二二石余)、永荒五石余などを引いて今高二五二石余、土免五ツ三分・請免四ツ六分余、物成一一六石余、家数二〇、男五三・女三六、牛一四。産土神は天神宮。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三一〇石余、竈数三一。正徳五年(一七一五)には倉吉御蔵が火災に遭った際の火消人夫三人が割当てられている(在方諸事控)

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]酒田市福岡

広野新田ひろのしんでん村の南、押切新田おしきりしんでん(現東田川郡三川町)の北にあり、京田きようでん川下流左岸に位置する。同村の大肝煎佐藤三右衛門によって寛文三年(一六六三)開発された(改訂酒田市史)。同一二年萱谷地請負の願いを出した同村惣百姓のうちに福岡新田村の百姓一二名が含まれるので(大泉紀年)、一村として独立するのは検地帳作成の同一三年と思われる。同年の下々田一六町二反余・分米一四六石余、下々畑二町四反余・分米九石余、屋敷一反余・分米一石余(「名寄帳」福岡区有文書)。元禄九年(一六九六)には下々田一八町余・分米一六八石余、下々畑三町余・分米一三石余、屋敷一反余・分米一石余(「検地帳」同文書)

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]岸本町福岡

久古くご村の北、大原千町おおはらせんちよう北西部の台地に位置し、北・東・南の三方を山林に囲まれる。西は押口おさえぐち村・岸本村。かつては北西に接する福万ふくまん(現米子市)の枝郷であったが、天保五年(一八三四)分村した(藩史)。地名は近世初頭、日野郡福岡村(現溝口町)からの移住者によって当地が開発されたことに由来するという。会見あいみ郡に属し、本免は三ツ。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七四石余、竈数六。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]五所川原市松野木まつのき

大釈迦だいしやか丘陵西端に位置し、東は松野木村、西は水野尾みずのお村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以後の新田として福岡村八五一・四石とある。貞享四年の検地帳は田方二〇町六反二畝二二歩・畑方二八町九畝二三歩、田畑屋敷合せて四八町七反二畝一五歩、村高二二六・八一六石とあり、支村の平田村は貼紙によれば、享保一一年(一七二六)本村になったという。元禄三年(一六九〇)には飯詰組に属し、村位は中で、家数一七、平田村を合せて三一、うち庄屋一・百姓一五・水呑一五とある(平山日記)

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]水原町上福岡かみふくおか

阿賀野川の自然堤防上に位置し、北は寺社新じしやしん(現京ヶ瀬村)、南東は分田ぶんだ村。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では下条組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高五〇石九斗余とある。その後、幕府領を経て白河藩預領となったが、文久二年(一八六二)会津藩主松平容保の京都守護職任命の際、会津藩領となり、福岡陣屋が設置された。詰役人は奉行篠田金左衛門以下一五名で、支配地は岩船・蒲原・魚沼三郡の一部、五万石に及んだ。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]宇都宮市福岡町

多気たげ山の西方と古賀志こがし山東麓一帯の地で、東は田野たの村、西は古賀志村に接する山村で、北東に山を負い、南西にいくにしたがい平坦になる。日光山常行三昧堂新造大過去帳の「往古社領六拾六郷」のうちに福岡郷がある。近世初めは宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一七〇石余・畑方七一石余とある。元禄郷帳では高三八七石余で、甲斐谷村藩領。改革組合村では下総多古藩領。

享保九年(一七二四)壬生みぶ板橋いたばし文挟ふばさみ両宿(現今市市)への助郷高は三八七石(「板橋・文挟宿助郷帳」小堀三郎文書)

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]いわき市小川町福岡おがわまちふくおか

南東流する夏井なつい川左岸にあり、東は柴原しばはら村、北は上小川村、対岸は塩田しおだ村。磐城郡に属した。磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。所々新田新開発年数覚(「伊呂波寄頭書」内藤家文書)によれば、慶安元年(一六四八)から村になったという。元禄郷帳では福岡村は高一二七石余、下福岡新田は高一一二石余。天保郷帳では「古者 福岡村・下福岡新田弐ケ村」と注記され、高二七八石余。延享四年の村明細帳(内藤家文書)によれば本田高一二五石余・反別一一町一反余、新高一五〇石余・反別一四町五反余、家数三〇(本百姓二〇・水呑一〇)、人数一三一、馬二二。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]根上町福岡町

手取川河口南方、二口ふたくち村の東、中江なかのごう村の北に位置。天正三年(一五七五)八月、織田信長軍の加賀侵攻の際、江沼えぬま・能美二郡が蹂躙され(同月二二日「織田信長書状」高橋文書、「朝倉始末記」)、信長勢に降伏した村々のなかに「福岡」があげられている(菅家見聞集)。江戸時代は加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)より万治二年(一六五九)までは越中富山藩領。正保郷帳によれば高一千一九七石余、田方六九町二反余・畑方一町一反余。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]笹神村下福岡しもふくおか

北は島田新しまだしん村、南は野村新のむらしん村に接する。永正三年(一五〇六)加賀名越家の家臣田川庄左衛門の開発と伝え、田川氏の前住地越中国新川にいかわ郡福岡にちなんで福岡村と命名されたといわれる(水原博物館文書)。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では山崎組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高一五石七斗余とある。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]棚倉町福岡

山際やまぎわ村の南、八溝やみぞ山地北麓、久慈くじ川上流域の山間に立地。江戸時代の領主の変遷は上手沢かみてざわ村と同じ。元禄郷帳に「上手沢村枝郷福岡村」とみえ、高一九五石。寛延四年(一七五一)村差出帳(福岡区有文書)によれば家数一九(うち寺一)、人数七九(男五二・女二七)、馬八。

福岡村
ふくおかむら

[現在地名]御前山村中居なかい

四方を山に囲まれ、南は長倉ながくら村、西は中居村。元禄郷帳に「福岡村」とみえ、その注記に「古ハ伊豆原村」とあり、寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳には「伊豆原村」とみえる。「水府志料」によると延宝四年(一六七六)に福岡村と改称。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福岡村の言及

【白石[市]】より

…宮城県南端の市。1954年白石町と越河(こすごう),斉川,大平,大鷹沢,白川,福岡の6村が合体,市制。57年小原村を編入。人口4万1852(1995)。阿武隈川の支流白石川の流域にあり,白石盆地の南半を占める。中世に白石氏が拠った地で,近世には仙台藩領の南の要所を占め,重臣片倉氏が白石城に居城し,城下町が形成された。仙台・松前道の宿駅でもあり,2・7日の六斎市が立ち,片倉氏が奨励した和紙などが取引された。…

※「福岡村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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