五所川原市(読み)ゴショガワラシ

デジタル大辞泉 「五所川原市」の意味・読み・例文・類語

ごしょがわら‐し〔ゴシヨがはら‐〕【五所川原市】

五所川原

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「五所川原市」の解説

五所川原市
ごしよがわらし

面積:一六七・五三平方キロ

津軽平野北部に位置し、東は大釈迦だいしやか丘陵・梵珠ぼんじゆ山地により南津軽郡・青森市、西は岩木川を隔てて西津軽郡、南は川付近、北は飯詰いいづめ川と旧十きゆうと川により北津軽郡に接する。大釈迦丘陵・梵珠山地西麓の金木かなぎ台地には高野こうや大溜池・原子はらこ溜池・長橋ながはし溜池など大小の溜池が点在し、山間に源をもつ前田野目まえたのめ川は十川へ、松野木まつのき川・飯詰川・小田おだ川・金木川は旧十川へ合流する。五所川原の名は、正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に五所川原村とある。「平山日記」によれば、寛文年間(一六六一―七三)岩木川が屈折して五ヵ所に川原があったため名付けられたという。

〔原始・古代〕

考古遺跡は東部の大釈迦丘陵・梵珠山地・金木台地に分布する。原子遺跡は縄文前―後期、観音林かんのんばやし(松野木)遺跡は縄文晩期に属する。前田野目・持子沢もつこさわ・原子の須恵器窯跡は、平安時代末から鎌倉時代前半のものと推定されている。

〔中世〕

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、足利方の曾我光貞が南部氏と対抗するようになった興国元年(一三四〇)藤原景房が飯詰高楯いいづめたかだて城を築いたと伝えられる(飯詰村史)。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字の奥法おきのり郡にみえる「まりの沢」(鞠野沢)・「原子」「飯積いヽつめ」は八甲田はつこうだ山西麓から梵珠山地西麓を結ぶ線にあり、浪岡なみおか(現南津軽郡浪岡町)城主北畠氏の支配下にあったと考えられ、天正一六年(一五八八)その残党で飯詰高楯城主の朝日左衛門尉が大浦為信に滅ぼされた(飯詰村史)

〔近世〕

藤崎ふじさき(現南津軽郡藤崎町)の北から十川の南中泉なかいずみ村までの開発は、元和―寛永年間(一六一五―四四)であり(平山日記)、寛文四年三千石遣となった。十川と岩木川の合流点以北の萢地の開発は寛永年間からで、寛文四年下の切遣となり、その中心は飯詰で藩の役所が置かれた。正保二年の津軽郡之絵図には高野・原子・神山かみやま金山かねやま各村、新田として持籠沢もつこざわ・前田野目・七ッ館ななっだて新里にさと唐笠柳からかさやなぎ・飯詰・狐鼻きつねはな岩崎いわさき沖飯詰おきいいづめ・五所川原の諸村がみえ、五所川原村は下之切しものきり(弘前市史)金山村から脇道へ入ったところで、わずか六・二五石であった(津軽知行高之帳)。延宝四年(一六七六)に五所川原新田が成立(津軽信政公事績)。天和元年(一六八一)下の切遣から六ヵ村が加えられ、五所川原遣が成立し、下の切遣は飯詰俵元遣となった(「津軽旧記抄」青森県史)。貞享四年(一六八七)五所川原遣は広田組、飯詰俵元遣は飯詰組・金木組となった。

五所川原市
ごしよがわらし

2005年3月28日:五所川原市と北津軽郡市浦村金木町合併
【市浦村】青森県:北津軽郡
【金木町】青森県:北津軽郡
【五所川原市】青森県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五所川原市」の意味・わかりやすい解説

五所川原〔市〕
ごしょがわら

青森県西部,津軽平野の基部中央,および津軽半島西岸に位置する飛び地からなる市。 1954年五所川原町と栄村,中川村三好村長橋村松島村,飯詰村の6村が合体して市制。 1956年七和 (なわ) 村を編入。 2005年金木町,市浦村と合体。弘前藩4代藩主,津軽信政が寛文5 (1665) 年に五所川原の新田開発に着手し,そののち新田集落から発展。津軽米,リンゴの大集散地。「虫送り」は田植仕舞のさなぶり行事として有名。市域の一部は津軽国定公園芦野池沼群県立自然公園に属する。中心市街には JR五能線,津軽鉄道,国道 399号線が通り,津軽平野北半部の商業,文化の中心地となっている。面積 404.20km2。人口 5万1415(2020)。

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