九戸城跡(読み)くのへじようあと

日本歴史地名大系 「九戸城跡」の解説

九戸城跡
くのへじようあと

[現在地名]二戸市福岡 五日市など

馬淵まべち川中流右岸、標高一〇五―一三五メートルの河岸段丘上に立地。白鳥しらとり城・宮野みやの城・福岡ふくおか城とも称した。九戸政実居城。標高一〇五―一一〇メートルの中町なかまち段丘に築かれた三の丸と、福岡段丘に築かれた本丸・二の丸・松の丸、石沢いしざわ(別名外館)若狭わかさ館によって構成される連郭式の平山城で、相接する両段丘がつくる段丘崖が本丸・二の丸の西壁、本丸・二の丸・石沢館の北壁となっており、その規模は南部宗家の三戸(現青森県三戸郡三戸町)をはるかに上回るものであった。総面積は〇・三四平方キロで、うち〇・二一平方キロが国の史跡に指定されている。九戸政実が長興ちようこう(現九戸郡九戸村)大名だいみよう館から当地に移ったのは永禄一二年(一五六九)のこととされる。ただし政実の曾祖父光政が明応(一四九二―一五〇一)の頃に築城したとする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「九戸城跡」の解説

くのへじょうあと【九戸城跡】


岩手県二戸市福岡にある平山城跡三方を馬淵(まべち)川と白鳥(しらとり)川と猫淵(ねこぶち)川に囲まれた天然の要害の地にある。城は本丸、二ノ丸、若狭館(わかさだて)、外館、松丸などの曲輪(くるわ)を形成し、本丸の一部には東北地方最古の石垣をもち、東北地方では有数の規模であった。正確な築城年は不明であるが、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。1591年(天正19)、九戸政実(まさざね)が跡目相続争いを発端に南部信直(のぶなお)に対して挙兵したが、信直が前年に豊臣秀吉から領地安堵(あんど)をとりつけていたことから九戸政実の反乱とされ、総大将豊臣秀次以下、徳川家康、伊達政宗など討伐軍約6万が派兵され、関東・奥羽諸将も討伐軍に従い、同年9月、九戸城を包囲した。難攻不落の城に苦戦を強いられた豊臣軍は謀略をめぐらせ、婦女子や下級武士助命を条件に九戸政実に開城を迫った。政実は受諾し開城したが、約束は反故にされ、城内に居た者は女、子供かまわずすべて二の丸に押し込められて惨殺、なで斬りにされ、かけられた火は三日三晩夜空を焦がしたという。二ノ丸跡の発掘調査で、首を刎()ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘された。「九戸の乱」以後は、蒲生氏郷(がもううじさと)によって改修され、南部宗家の本城となったが、1636年(寛永13)に廃城となった。1935年(昭和10)に国の史跡に指定された。JR東北新幹線ほか二戸駅から徒歩約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報