福山町(読み)ふくやまちよう

日本歴史地名大系 「福山町」の解説

福山町
ふくやまちよう

面積:六八・五二平方キロ

鹿児島湾奥東岸、姶良郡南東端に位置し、東は曾於そお財部たからべ町・末吉すえよし町・大隅町、南は垂水たるみず市・曾於郡輝北きほく町、北は国分市に接する。町域は標高三〇〇―四〇〇メートルの断層崖が海に迫る狭い海岸地の下場地区と、その崖上に広がる丘陵性の火山灰台地からなる上場地区に分けられる。海岸に沿ってほぼ南北に国道二二〇号が走り、中央部を北西から東へ国道一〇号が横断、牧之原まきのはらで南へ国道五〇四号が分岐する。町名の由来について、当町域は古来めぐりとよばれていたが、永禄四年(一五六一)に廻城をめぐる肝付氏と島津氏の攻防戦ののち、島津忠将以下多くの戦死者を出した戦いの災を福に転じる願いから福山と改めたとされる(「福山町郷土誌」など)

原始から古代の遺跡は北部の沿岸地域や内陸部の台地上で多く確認されている。福山の東牧之原にある鳥越とりごえ遺跡では縄文時代早期・前期・後期の土器が確認され、佳例川の比曾木野かれいがわのひそきのにある縄文時代の上村かんむら遺跡では前期の土器や石器が採集されている。大正六年(一九一七)からの福山の私立福山中学校(現福山高校)建設の際には縄文後期の土器片が多数出土し、石偶も出土した。佳例川の一本松いつぽんまつ遺跡も縄文後期の良好な遺跡で、後期を中心とする遺物の密な散布がみられる。

福山町
ふくやまちよう

明治三三年(一九〇〇)から昭和一五年(一九四〇)まで存続した町。南は松前湾に臨み、西は弁天べんてん島、東は及部およべ川西岸までのほぼ旧松前城下を含む地域であった。明治三三年七月一日、旧城下地域の総社堂そうしやどう町・生符いけつぷ町・白川しらかわ町・愛宕あたご町・西館にしだて町・博知石ばくちいし町・唐津内沢からつないさわ町・唐津内町・新荒しんあら町・湯殿沢ゆどのさわ町・小松前こまつまい町・大松前おおまつまい町・枝ヶ崎えだがさき町・なか町・ふくろ町・松城まつしろ町・よこ町・くら町・中川原なかかわら町・川原町・神明しんめい町・馬形上まかどうえ町・馬形中まかどなか町・馬形下まかどした町・端立はたて町・東上ひがしうえ町・東中ひがしなか町・東下ひがししも町・東新ひがししん町・泊川とまりかわ町・伝治沢でんじさわ町・山之上やまのうえ町・寅向どらめき町と及部町の三四町が合併して一級町村として成立。同時に旧町名を継承した三四の大字を編成した。同年の戸数一千四九七・人口六千六七九、出寄留二千七一六人(男一千八七一・女八四五)・入寄留六一〇人(男三八一・女二二九)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報