無・莫・勿・毋・无・亡(読み)ない

精選版 日本国語大辞典 「無・莫・勿・毋・无・亡」の意味・読み・例文・類語

な・い【無・莫・勿・毋・无・亡】

〘形口〙 な・し 〘形ク〙
[一] 存在しない。
① …が存在しない。所有しない。具備しない。
古事記(712)上・歌謡「汝を置(き)て 男は那志(ナシ)
※源氏(1001‐14頃)帚木「なよびかにをかしきことはなくて」
② (①の特殊な場合)
(イ) 家にいない。不在である。
※古今(905‐914)雑上・八九五「おいらくのこむとしりせばかどさしてなしとこたへてあはざらましを〈よみ人しらず〉」
※源氏(1001‐14頃)夕顔「少将のなき折に見すれば心うしと思へど」
(ロ) (亡) 世にない。故人になっている。→亡き
※万葉(8C後)三・四四六「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人そ奈吉(ナキ)
※土左(935頃)承平四年一二月二七日「あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける」
③ 抽象的な事柄について、その実現の否定を表わす。
(イ) 実現しない。事が起こらない。主として「…することなし」の形で、用言の意味を打ち消す。
※書紀(720)雄略一三年三月・歌謡「馬の八匹(やつぎ)は 惜しけくも那斯(ナシ)
※源氏(1001‐14頃)明石「行ひより外のことなくて月日を経るに」
(ロ) 主として「…せずといふことなし」「…せざるはなし」などの形で、二重否定から「すべて…する」の意を表わす。
※守護国界主陀羅尼経平安中期点(1000頃)四「難行苦行したまふこと経すといふこと靡(ナシ)
(ハ) (「なきようなり」の形で) 正体がない。魂を失っている。
※源氏(1001‐14頃)賢木「なかばはなきやうなるみけしきの、心ぐるしければ」
(ニ) 世間からみすてられている。→なき(無)になす
※源氏(1001‐14頃)薄雲「中頃身のなきに沈み侍りしほど」
④ 事実がない。無実である。不当である。→なき(無)名
※大鏡(12C前)二「なきことによりかくつみせられ給ふを」
⑤ またとない。外にない。比べものがない。
※十訓抄(1252)一〇「なきすき者にて、朝夕琴をさしおく事なかりけり」
※引越やつれ(1947)〈井伏鱒二〉巣林館「いい年して、みっともないったらないわ」
[二] 補助的に用いて、否定の意を表わす。
形容詞活用の連用法を受ける。
※源氏(1001‐14頃)柏木「年頃下の心こそ懇に深くもなかりしか」
② 副詞「さ」「かく」などを受ける。→さなきだにさもない
※枕(10C終)四一「よる鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき」
③ 「である」の打消。あらず。
(イ) 体言に付いた助動詞「なり」「だ」、また、形容動詞の連用法を受ける。
※竹取(9C末‐10C初)「ここにつかはるる人にもなきにねがひをかなふることの嬉しさ」
(ロ) 打消の語に付いた助動詞「だ」の連用法を受ける。全くは否定せず、いくぶんの存在を認めるさま。…しないわけではない。
多情多恨(1896)〈尾崎紅葉〉前「気拙くないでも無かった折から」
(ハ) 「ではないか(じゃないか)」の形で、動詞、形容詞の終止形、形容動詞語幹および体言を受けて、予想外の事に驚いた気持、相手に判断の同意を求め、また問いただし、詰問する気持を表わす。
洒落本・辰巳之園(1770)「お前はさっき来なさうたじゃねエか」
(ニ) 「ではないか(じゃないか)」の形で、動詞の未然形に助動詞「う」「よう」の付いたものを受けて、相手の同意を求め、勧誘する気持を表わす。
※洒落本・売花新駅(1777)楼上興「コレむすこ、たれぞ呼にやろうではねえか」
④ 用言に付いた連語「のだ」の連用法を受ける。
(イ) 否定的説明。「それはほめるのではない、けなすのだ」
(ロ) 禁止の言いきかせ。「泣くんじゃないよ」「見るんじゃない」
接頭語「御(お・おん・ご)」を冠した動詞連用形に付いた助動詞「だ」の連用法を受ける。
(イ) 「お…だ」の打消。「…しない」「…していない」の意の尊敬語。
滑稽本・素人狂言紋切形(1814)上「イイエおまへは三升をおほめでないから、私もほめません」
(ロ) いくらか礼儀のある禁止。同輩または目下に用いる。
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)二「おめへも亭主を持ったら弓断をお仕でないよ」
⑥ 接頭語「御(お・おん・ご)」を冠した動詞の連用形に付いて、敬意のある打消を表わす。
※寛永刊本蒙求抄(1529頃)七「下の邪正を、御知りなうてはぢゃそ」
⑦ 引用を表わす助詞「と」を受ける。
(イ) 「と」が動詞活用の終止形に付く。その事態が起こっていないこと、また、自覚また確認できないことを表わす。
※万葉(8C後)二・二一二「衾道(ふすまぢ)を引出の山に妹を置きて山路を行けば生けりとも無(なし)
(ロ) 「と」が動詞活用の終止形に付く。明確でないさまでその事態の起こっていることを表わす。「だれ言うとなく」「聞くともなしに聞いていた」「降るともなき春の雨」
(ハ) 「と」が体言または引用句に付く。それと指定しないこと、限定されないさまを表わす。「大小」「昼夜」など対語に付くもの、「いつとなく」「どことなく」「そこはかとなく」など不定の語に付くものも多い。
※万葉(8C後)一二・三一九六「春日野の浅茅が原におくれ居て時そとも無(なし)あが恋ふらくは」
他動詞の連用形に助詞「て(で)」の付いたものを受ける。動作が起こらなかった状態にあることを表わす。「名前はまだつけてない」「届は出してないが、休むつもりだ」「見てもない手紙には返事の書きようがない」
[語誌](1)もともと「なし(ない)」は、事物の存在を表わす「あり」の対義語にあたる。(一)は上代から用いられ、「あり」の打消にあたる「あらず」が、「美しく(は)あらず」「木に(は)あらず」のように補助的な用法を主とするのと用法を分けあっていた。
(2)(二)の補助的な用法は、新たに発達しだしたもので、⑦の「と」を受ける例は「万葉集」などにも見られ、比較的早いが、その他の①「美しく(は)なし」、②「さ(も)なし」、③「木に(は)なし」などの用法は、平安時代にはきわめてまれである。一般には中世以後に発達して、「あらず」と交替するようになった。
(3)語の一部として「ない」の用いられることがある。「心ない」「情けない」「さりげない」など。ただし、「はしたない」などの類の「ない」は、形容詞を作る接尾語であって、この形容詞の「ない」とは別のものであると考えられる。→接尾語「ない」
(4)活用形として「なく・なし・なき・なけれ」のほか、上代には未然形、已然形に「なけ」がある。「万葉‐三四二一」の「わがへには故はなけども子らによりてぞ」など。なお、副詞法の「なく」にあたるところに、「なしに」が用いられることがある。→なけなくに
(5)「あり」の結合した「なかり」は、上代には連用形「なかりけり・なかりし」、終止形「わぎもこに恋ひすべなかり」、連体形「ほととぎす無かる国・すべ無かるべし」、已然形「神は無かれや」、命令形「浦吹く風の止む時無かれ」などの例があるが、平安時代には、補助活用としてもっぱら未然形「無からむ」など、連用形「無かりけり」など、連体形「無かるべし」などの助動詞への連接形が用いられ、また特に命令形「なかれ」は、「きることなかれ」「見るなかれ」など禁止の語として、特別の用法をもつようになった。→なかれ
(6)中世以降の口語では、連体形「なき」の音便形「ない」を終止法、連体法に用いることが普通になった。この「ない」は、江戸語では口頭でしばしば「ねえ」となっている。また、江戸語では、「なし」が次のように終止や「か」を付ける質問に用いられる。「洒・辰巳之園」の「主はなんと深川へいく気はなしか」、「滑・浮世風呂‐二」の「出好(でずき)での、内に尻が居(すは)る間なしさ」など。
(7)「ない」は、様態の助動詞「そうだ」に続くとき、語幹から接尾語「さ」を介して続く。
(8)「でない」その他否定の叙述のため補助的に用いられる「ない」「なし」を、品詞分類上で助動詞とする説もある。ただし、用法上は、「知らない」「見せられない」などの「ない」と混同することはできない。
(9)他動詞を受ける「てない」に対して、現代の口語としては、「見てる」「咲いてる」などの否定の「見てないとわからない」「花はまだ咲いてなかったよ」などがあるが、これらは、「ている」「ていない」などの融合した形で、区別される必要がある。→てる
(10)「…たことはない」という表現は、経験のないことを表わす。「見たことも聞いたこともない」など。また、「…することはない」には、「…するほどのことはない」と同じく、することが不必要、しないほうがよいことを表わす場合がある。「洒・世説新語茶‐粋事」の「ばかな泣事アねへ」や「たけくらべ〈樋口一葉〉一〇」の「喧嘩の相手に成るといふ事は無い」など。また、「…までもない」は、することが不必要、しないでもちろん十分の意を表わす。「言うまでもなく」「考えるまでもない」など。
(11)「…よりない」は、「…よりほかはない」「…しかない」と同じ意味に用いられる。「贅沢貧乏〈森茉莉〉」の「だが何処が豪華なのか、といふことになると、首を捻るよりない」など。
(12)「もないものだ」は相手のことばについて、「とはよく言えたものだ」「と言う義理はないはず、すじみちがちがう」とそしる表現。「にごりえ〈樋口一葉〉一」の「後にも無(ナ)いもんだ来る気もない癖に」など。
(13)補助的に用いる「ない」「なし」を助動詞とする説もある。→ない〔助動〕
(14)已然形「なけれ」に助詞「ば」「ど」などが付いて、「なけねば」「なけねど」「なけにゃ」などの形に変化した例もみられる。「吉田は全盛の太夫なれば、これ程まだ五つもなけねば請出されぬ」〔伎・傾城江戸桜‐中〕、「凄い程器量がようなけにゃ、うつらぬ物ぢゃ」〔咄・軽口大黒柱‐五〕、「無理ではなけねど無分別」〔浄・持丸長者金笄剣‐五〕など。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android