清光寺(読み)せいこうじ

日本歴史地名大系 「清光寺」の解説

清光寺
せいこうじ

[現在地名]長坂町大八田

朝陽山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来で、行基の作と伝える。もともとは天台宗で信立寺と号していたが、正治元年(一一九九)の開基逸見清光死後に寺名を改めたという。文明七年(一四七五)興因こういん(現甲府市)悦堂英穆により中興され現宗派に改宗した(甲斐国志)。永禄二年(一五五九)五月二日には武田氏から禁制を下され(武田晴信禁制写)、天正三年(一五七五)三月一日には寺中ならびに門前の家八間の棟別銭などの諸役を免除された(武田勝頼禁制写)

清光寺
せいこうじ

[現在地名]萩市大字西田町

西田にしだ町の北端上五間かみごけん町との境に位置し、山門を西に開く。浄土真宗本願寺派。月輪山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺号は毛利輝元夫人の法名清光院殿釈尼妙誓大姉による。

寺伝によれば寛永八年(一六三一)に死去した清光院の菩提寺として山口に創建され、初代藩主秀就の時萩の興正こうしよう(現京都市下京区)兼帯所の地に移ったという。また一説(天幕江家雑記)には寛永八年西田にしだ町に建立したとする。当寺の初代准円の母は毛利輝元の養女で二世良重(円乗)も准円の同母弟であった。

近世には寺料二七五石あった(嘉永改正いろは寄萩藩分限帳)。寛永一一年、万治二年(一六五九)、寛政一一年(一七九九)の三度焼失したが文化年間(一八〇四―一八)再建。

清光寺
せいこうじ

[現在地名]酒々井町上本佐倉

清光寺作せいこうじさくにある浄土宗寺院。亀沢山と号し、本尊は阿弥陀如来。門前を近世の成田道が通り、西隣に本佐倉もとさくら陣屋跡がある。弘治二年(一五五六)月峰の開山と伝える。天正一九年(一五九一)一一月以来、佐倉郷のうち五〇石を寺領とした(御朱印帳)。これは三河国大樹だいじゆ(現愛知県岡崎市)九世鎮誉の弟子峰誉が徳川家康の父松平広忠の歯骨を抱えて諸国遍歴の末、当寺二世となってその歯骨を埋葬したという由緒により与えられたものともいう。

清光寺
せいこうじ

[現在地名]松阪市中町

三縁山信阿院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。明治一六年(一八八三)の「飯高郡松坂地誌」(松阪市立図書館蔵)によれば「本尊ハ不動明王ノ尊像ヲ安置シ、行基菩薩ノ開基ニシテ、初メ神光寺ト名ヅケ、無本寺独立ノ一等ニシテ諸人渇仰ノ霊場ナリ」とある。行基云々は俗説にすぎないが、次いで「然リト雖モ堂舎甍破レ寺門扉落修理ヲ仮ルニ由ナシ、然ルニ人王百四代後柏原天皇ノ御宇、大永三年、超誉察道和尚官命ヲ蒙リ、浄土宗門ニ転成シ、神光寺ノ号ヲ改メテ、三縁山無量覚院清光寺ト名ヅク、弥陀如来ノ尊像ヲ安置シ、専ラ浄土ノ教法ヲ弘メ、絶タルヲ継グ、廃シタルヲ興シ、室坊修造事新ニ成レリ、因テ今ニ察道和尚ヲシテ本寺ノ開山トス」とみえる。

清光寺
せいこうじ

[現在地名]桜川村浮島

釣船ちようせん寺の東南の平地にある。金仙山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、宝亀一一年(七八〇)海上山東雲とううん寺として開かれた。本尊は楊柳観音で、もとは浮島うきしまの西寄りにあったが、現在地に移った時期は不明。文禄二年(一五九三)に中興され、中興開山は千巌曇奕。天明五年(一七八五)には、寺中七段六畝、弥陀堂墓所段別四畝余、観音山段別四段二畝余、姫宮明神山段別一段四畝余、経塚一ヵ所段別四畝を有した(桜川村郷土史資料)

清光寺
せいこうじ

[現在地名]鯖江市本町三丁目

所在地は近世のてら町東側にあたる。天台真盛宗。朝倉山と号し、本尊阿弥陀如来。延徳三年(一四九一)朝倉教景の女妙花栄忠比丘尼(金室祐閑比丘尼)の創建とされるが(新撰鯖江誌)、当寺過去帳は蓮月清音尼の天文一二年(一五四三)開基とする。

清光寺
せいこうじ

[現在地名]南部町相内 沢構

相内あいないのほぼ中央に位置する。竜淵山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「清光寺 竜淵山曹洞宗、八戸法光寺末寺、開山風山慶門大和尚、元禄四年遷化、寛政三年辛亥迄六代也云々」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報