萩城下(読み)はぎじようか

日本歴史地名大系 「萩城下」の解説

萩城下
はぎじようか

日本海に注ぐ阿武あぶ川下流、松本まつもと川と橋本はしもと川が作る三角州上に形成された城下町。橋本川以南の現大字椿の金谷つばきのかなや雑式町ぞうしきちよう椿町つばきまちの地をも含む。地元では御城下または城下とよんだ。現在萩市の中心市街地にあたる。

幕末の萩城下を描く「八江萩名所図画」は城下の範囲を「七里計四方を萩と称す東手水川垰・西玉江坂・南悴坂・北猪熊垰を限る大方は東南二川を帯ひ、西北韓海に連なれる地にて魚塩の利乏しからぬ御城下とはなれり」とし、市街地を越え現椿・椿東ちんとう山田やまだの全地区をも含む垰内たおうちとする。

〔城下の形成〕

安芸国広島を居城としていた毛利輝元は慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に敗れ、防長二国に封じられたため、この地に新城下を建設した。同九年三角州西北端の指月しづき山麓に築城を始め、翌一〇年諸士の屋敷割を実施した。当時三角州の大部分は低湿地で、町づくりは沼や湿地の埋立から開始された。地誌「長門金匱」はその様子を

<資料は省略されています>

と述べる。この蓮池は大正の初期に疎水開削の土で埋められるまで残っていた。

城は慶長一三年に完成するが「萩古実未定之覚」に「川上よりの流水蛍火山の下より南明寺の麓小松江の方へ行桜江え出る、元和二年今の様に川筋を堀て流るる、山下に川ありては防の時分手前の用に不立、向う用に立故と云あり」「御城山西の方倉江と地続にて御山堅固無之故吉川様御馳走にて堀切被仰付候」と記されるように、城下建設と並行して城地防衛の見地から元和二年(一六一六)古川(橋本川)筋付替えの大工事が行われた。築城後約五〇年の慶安五年(一六五二)の城下町絵図には古川筋の出入口がまだ陸地化しないまま幅広く残るのがみられる。

この橋本川は松本川とともに総郭の役割を果し、城下の大部分はこの両川が作る三角州上に形成されたが、この中にはかなりの百姓屋敷と農地が含まれていた。

町割は道路敷設から始まる。萩城三の丸の中ノ惣門から東に向かい、東田ひがしだ町で南折し、三田尻みたじり(現防府市)に至る御成道(参勤街道)を幹線道路とし、これに平行または直交する多くの街路ができ、これらの道を中心に町割が行われた。また三角州南西部の平安古ひやこ地域は三の丸南門の平安古ノ惣門から橋本川に平行して走る街路を主軸とし、これに平行または交差する多くの道ができた。これらの街路の一応の完成は元禄以後であったといわれる。うち江向えむかいと平安古地区の町割の方位は、三角州の外に残っていたと考えられる古代の条里を延長した方向と一致するともいわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の萩城下の言及

【萩[市]】より

…古く萩浦,萩津とよばれた地は,近世,毛利氏の城下町が開かれたことによって発展,周防・長門両国の政治の中心であった。現在も旧城下の景観をよくとどめ,萩城下町とその東にあたる椿東(ちんとう)にある松下村塾(史),伊藤博文旧宅(史)などの維新史跡に多くの観光客が訪れる。伝統の萩焼や士族授産に始まったナツミカンが特産。…

※「萩城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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