西田町(読み)にしだまち

日本歴史地名大系 「西田町」の解説

西田町
にしだまち

[現在地名]鹿児島市西田一―三丁目・薬師やくし二丁目・たけ一―二丁目・中央町ちゆうおうちようなど

鹿児島城下三町の一。鹿児島城から南方、甲突こうつき川に架かる西田橋を渡った参勤街道筋(出水筋)にあり、西田橋西詰から西にかみ町・なか町・しも町の三町に分れていた(三州御治世要覧)。町の由来について、寛政四年(一七九二)当地を訪れた高山彦九郎は「西田町野町にて今は町也、天和年間忠孝を励ます抔の公儀制札の下りしより初メて町となり、町に年寄を置く」との風聞を記している(筑紫日記)。「三国名勝図会」には「城市接界の所にして、橋東に郭門あり、橋西に市坊あり、西田町と呼ぶ」とあり、天保城下絵図にも町門と番所、甲突川には水量計測柱が描かれている。郭門は鹿児島城郭を意味し、その軍事的重要性をうかがわせ、安永四年(一七七五)三月番所勤番は城下の辻番所同様に昼夜をわけず勤めることとされた(列朝制度)。町門は水上みつかん坂への登口の西田町西端に設けられている。天保城下絵図では西田橋は板橋で、石橋への架替えは鹿児島藩家老調所広郷に招聘された肥後の石工岩永三五郎によってなされた。留石に弘化三年(一八四六)九月一一日と刻まれている。「三国名勝図会」に「神月川に跨す欄干橋なり、青銅の擬宝珠に、慶長十七年壬子六月吉日と鐫銘す」とあり、「鹿児島県地誌」には石造長さ二七間二尺・幅四間一尺七寸、千石馬場せんごくばば町と西田町との間に架され、水深は平水でおよそ一尺とある。

西田町
にしだちよう

下京区仏光寺通猪熊西入

東西に通る仏光寺ぶつこうじ(旧五条坊門小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条二坊一保二町南側と同二保三町北側にあたり、平安中期以降は五条坊門小路猪熊小路いのくまこうじの西の地。嘉禄二年(一二二六)の比丘尼妙法家地売券案(京都大学所蔵文書)はこの地のことを次のように記す。

<資料は省略されています>

また「康富記」享徳三年(一四五四)七月一四日条によると、「予代々墳墓在五条坊門猪熊円福寺」とあり、当町周辺に円福えんぷく寺が所在したことが知れる。同寺は後深草天皇の勅により建長三年(一二五一)に僧立信が紀伊きい深草ふかくさ(現伏見区)の里に創立、のち当町周辺に移り、さらに天正年中(一五七三―九二)に寺町四条坊門に移転した(坊目誌)

西田町
にしだまち

[現在地名]萩市大字西田町

東西に通る御成道を挟む両側町。西はかわら町、東は東田ひがしだ町、南は新堀しんぼり川。

町名はもと田地であったのを町割の節、地上げして町家ができたことに由来するという(萩諸町之旧記草案)。両町を総称して田町たまちともいう。「長門金匱」には「今の田町通りより南東は皆沼にて蘆原の水溜りなり、田も聢々無之能道もなし」とある。

貞享年間(一六八四―八八)の城下町絵図には新堀川はみえず、町は御成道沿いにのみ形成されているが、貞享四年新堀川開削後の、宝暦元年(一七五一)の萩大絵図では町は南方に拡張されて新堀川に接している。

西田町
にしたまち

[現在地名]大垣市寺内町じないちよう

大垣城下の南端に位置する士屋敷地域。北は牛屋うしや川を隔ててたわら町、もと南寺内みなみじない村のうち。町名は田町の西に続くことに由来し、江戸末期に侍町となったとされる(新修大垣市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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