印旛郡(読み)いんばぐん

日本歴史地名大系 「印旛郡」の解説

印旛郡
いんばぐん

面積:二一一・〇九平方キロ
白井しろい町・本埜もとの村・さかえ町・印旛いんば村・酒々井しすい町・富里とみさと

県の北部中央に位置し、印西いんざい市を挟み東西に分れる。東部の三町二村は東が成田市・山武さんぶ芝山しばやま町、南が同郡山武町・八街やちまた市・佐倉市・八千代市、西が印西市、北の利根川対岸が茨城県北相馬きたそうま郡利根町・同県稲敷いなしき河内かわち村で、西部の白井町は東が印西市、南が船橋市・八千代市・かま市、西から北にかけて東葛飾ひがしかつしか沼南しようなん町に接する。当郡は下総国の南部中央に置かれた古代以来の郡で、ほぼ中央に印旛沼が広がり、近世後期には北東は埴生はぶ郡、南東は上総国武射むしや郡・山辺やまべ郡、西は千葉郡・葛飾郡、北西は相馬郡、北は常陸国と接し、当時の郡域は栄町の一部を除く現在の印旛郡の町村のほか、印西市・佐倉市・八街市・四街道市および成田市西部・八千代市北部などに相当する。明治三〇年(一八九七)には下埴生郡を編入した。郡名は印波・印播・印幡などの表記がみられるが、古代の早い時期には印波が多いようである。元禄郷帳では印旛、天保郷帳では印旙。「和名抄」名博本や「延喜式」民部省ではインハ、「拾芥抄」ではインバと訓じ、天文一〇年(一五四一)九月六日の下総十一郡之次第(香取文書)には「印はん郡」とある。

〔古代〕

律令期以前の郡域は「国造本紀」記載の印波国造の領域に比定することができ、埴生郡域も含んだと考えられる。その本拠地を示すように印旛沼東部沿岸を中心として古墳群の密集が認められる。四世紀代の古墳としては沼南部の台地上に存在する前方後方墳の佐倉市飯合作いごうさく一号墳・二号墳があるが、五世紀代の前方後円墳の存在は今のところ確認されていない。六世紀代には印旛沼北東岸の台地上に龍角寺りゆうかくじ古墳群(栄町・成田市)公津原こうづはら古墳群(成田市)の二大古墳群が形成され、そのなかの盟主的存在として栄町の浅間山せんげんやま古墳、成田市の船塚ふなづか古墳・天王塚てんのうづか古墳・瓢塚ひさごづか古墳などの前方後円墳などがみられるが、その内容はいずれも未詳である。七世紀に入ると龍角寺古墳群中に国内最大規模の終末期方墳といわれる栄町の岩屋いわや古墳が造営され、ほかにも同町のみそ岩屋いわや古墳、成田市の上福田岩屋かみふくだいわや古墳など中小規模の方墳が多数造営される。印波いには国の中核となる勢力が形成されたのは六世紀後半、その勢力が最も強大化したのは七世紀代とみられ、七世紀末には岩屋古墳の至近に白鳳寺院龍角寺の造営が行われている。なお「先代旧事本紀」天孫本紀に饒速日命の一〇世孫の物部印葉連公がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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