浮島村(読み)うきしまむら

日本歴史地名大系 「浮島村」の解説

浮島村
うきしまむら

[現在地名]城島町浮島

筑後川の下流右岸にある。筑後川の潟洲葭野を開発して成立した村で、初め「有喜島」とよばれたが、巡視にきた久留米藩家老有馬大膳が「浮島」とよぶように命じて浮島になったという(旧家由緒書)。筑後川の旧流路が北に屈曲し、肥前神埼かんざき郡に入り込んだところにあたり、飛地状を呈する。南の筑後川左岸は青木島あおきじま村で、同村と結ぶ浮島渡(川幅一七〇間、舟一艘)があった(在方諸覚書)。慶長年間(一五九六―一六一五)の肥前国絵図写(佐賀県立図書館蔵)には「林慶島」と記され、肥前国領とされていた。江島村江島石見の家に寄寓していた菊池十左衛門資次(惣右衛門)は当地辺りの中洲の開発を企画し、英彦山良品坊(現添田町)から開墾成功の啓示を受けた。惣右衛門は早速葭を植付けたが肥前領から妨害があり、柳川藩主田中吉政の保護のもと、肥前領民との紛争を制しながら開拓したという。その後「江島新島」が領主田中吉政から筑後領であることを承認され、葭野銀(運上銀)を納めた。吉政の保護のもと干潟は増大し、慶長一五年新田開発に取掛り、江島村が耕作小屋を管理した。元和三年(一六一七)惣右衛門一族が移住し、隣接の小島も開発して肥後長洲ながす(現熊本県長洲町)の船頭納戸氏などに小作させた。

浮島村
うきしまむら

[現在地名]多賀城市浮島・浮島一―二丁目

市川いちかわ村の東に位置し、塩竈から延びる丘陵と沖積地に立地。北と東は塩竈村。「安永風土記」は村名由来を「往古当村海ニ而当時宮堤と申所ニ多賀明神之御社相立候山浮島ニ御座候由古歌も在之、右ニ付村名ニ罷成候よし申伝候事」と記す。歌枕浮島の比定地。康和二年(一一〇〇)六月二日の兼良解(朝野群載)に「坐陸奥国浮島塩竈鳥海三箇社」がみえる。「観蹟聞老志」は浮島神社は浮島村にあるとし、「塩松勝譜」には多賀神社を祀る所は二座あり、一は浮島にあり古来浮島明神と称するもので、一は多賀崎(高崎か)にあり、両社を合せて多賀神社というとある。「封内名蹟志」は多賀神社は今の塩竈一宮であり、郷説のいわゆる浮島明神であるとしている。

浮島村
うきしまむら

[現在地名]桜川村浮島

霞ヶ浦湖岸にある。もとは稲敷台地の一部が霞ヶ浦の入江と野田奈のだな川によって浸食されてできた島で、「常陸国風土記」に「乗浜のりはまの里の東に浮島の村あり。長さ二千歩、広さ四百歩なり。四方絶海にして、山と野と交錯まじり、戸は一十五烟、田は七八町余なり。居める百姓は塩を火きて業と為す。しかして九つの社ありて、言も行も謹諱めり」とあり、村の様子が記される。また同書は古老の伝えとして、景行天皇の「浮島のとばりの宮」(仮の座所)が置かれたとする。

浮島村
うきしまむら

[現在地名]三和村浮島

藤塚ふじつか山の南方の平地にあり、南は井野口いのくち村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「うきしま 上」とのみ記され、川の左岸に描かれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報