職人町(読み)しよくにんまち

日本歴史地名大系 「職人町」の解説

職人町
しよくにんまち

[現在地名]宮津市字宮本みやもと

万町よろずまちの東部半分の南方、約三町四方の一郭をいう。

「京極丹後守様御上地町地子並ニ家別」(「宮津事跡記」所引)に、職人町は反別一町五反四畝一二歩、地子米一八石二斗五升七合九勺七才、家数一二四軒としている。六幹町の一つで(→宮津城下、幹町としての職人町分として同書は切戸町きれとまち(現京口町。二一軒、反別は職人町に含む)大久保おおくぼ(四〇軒、反別は有田田中村小散田地)松原町まつばらまち(四五軒、反別は田中村小散田地)(三一軒、反別は有田村小散田地)をあげる。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]鳥取市職人町

桶屋おけや町の北西に続く両側町で北西端は若桜わかさ往来筋。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、町人地四〇町のうち上構二〇町の一町として起立された(因幡志)。町名は、大工・木挽・石工などの職人が多く居住したことにちなむ(鳥府志)。寛永一一年(一六三四)の竈数二八(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数七九、表口間数合せて一二九間、町役負担五七人余、賦課比率の等級は下に定められる。

職人町
しよくにんちよう

[現在地名]新発田市御幸みゆき町一丁目

新町の下手、紺屋こんや町の西に続く町。西流する新発田川を隔てて北側には下鉄砲しもてつぽう町がある。新発田川に並行して町の南を堀川が流れ、西の突当りには神明宮があった。溝口氏の新発田入封の際、家臣団とともに移住してきた鍛冶職人は初め五十公野いじみのに屋敷を与えられていた。城下の建設が進むとともに寛永二年(一六二五)三ノ丸外に移り、鍛冶かじ町を作った。しかし家中屋敷増設のため、下鉄砲町裏の野畑二町五〇間を屋敷割して元禄元年(一六八八)鍛冶職人らを移住させ、職人町とした。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]松阪市中町

なか町の東側に並行した町で裏通りにあたる。「権輿雑集」に「丁役弐歩五厘、但此町三丁有、継松寺より法久寺迄を上職人町と云、法久寺より清光寺迄を中職人町と云、清光寺より鍛冶町迄を下職人町と云、往古呉器屋町と云しは中職人町の古称也、下職人町は日野町之部ニ集」、同書日野町之部には「下職人町、天正十六子年従松ケ嶋移、丁役弐歩五厘」とみえている。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]八幡町職人町

小駄良こだら川左岸にあたり、長敬ちようけい寺の南側門前に位置する。南は鍛冶屋かじや町、東は殿との町。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図にショク人丁とあり、通りの東側全部と西側北端に家中屋敷が記される。元禄五年(一六九二)の家数三〇・寺一、反別七反余、内訳は医師三・馬医一・桶屋三・仕立物屋一・畳屋一・鍛冶屋三・郷通商人二・大工二・耕作人一一・遠藤源五郎調屋敷(石神忠助)・塗師屋一・存心(のち蓮生寺)、寺は長敬寺(「城下町家帳」郡上郡史)。安永二年(一七七三)郡上領留記(大西文書)は当町を地子免許とする。明治五年(一八七二)の戸数四〇・人数二二一(郡上八幡町史)

職人町
しよくにんちよう

[現在地名]平戸市職人町など

平戸城の南西に位置する。東に最教さいきよう寺がある。紺屋こうや町・大工だいく町・桶屋おけや町・鍛冶屋かじや町・白銀しらがね町五ヵ町の総称であった。本町ほんちようしん町の南にあたるが、紺屋町はやや離れて木引田きひきだ町の西手にある。正保二年(一六四五)平戸城下図では大きく六つの街区に分れる。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]福江市大荒町おおあらちよう 職人町

福江城の北西、福江川左岸に位置する。寛永一一年(一六三四)福江直りに伴って町割が行われた町人町の一つで、大工・左官・鍛冶屋・銀屋などの職人二〇〇戸を居住させた。大工だいく町のほか銀屋ぎんや町・鍛冶屋かじや町・紺屋こうや町など個別町名を称する場合があった。延宝六年(一六七八)の諸役付万定書(青方文書)では「職人」番役として大工二一人・白金細工二人および塗師・檜物・畳・張付屋・屋根屋・切付屋各一人が勤めた。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]富江町職人郷

富江市街の南東に位置する。寛文二年(一六六二)五島氏の富江陣屋の完成に伴い、その東に職人を配したことに由来し、鍛冶屋かじや町・紺屋こうや町・大工だいく町の地名や、鍛冶に用いた善様井戸が残る。南西の只狩ただかり山の近くに牧場があり、一の木戸いちのきど・二の木戸・張口はりぐちなどの地名がある。嘉永六年(一八五三)非常用穀物倉が置かれた。慶応四年(一八六八)富江調帳では職人町として家数九九・人数五九五、大工頭・鍛冶頭・紺屋頭などの役人がおり、おご納高一〇〇斤。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]彦根市本町ほんまち三丁目

上魚屋かみうおや町の西に続く両側町。南側に明照めいしよう寺がある。もと彦根村の村域であったといわれ、当初は下細工しもさいく町と称したという。「木間攫」に現浄土真宗本願寺派の明照寺をあげる。元禄八年大洞弁天寄進帳では職人町として男八五・女七七、平田明照寺門前職人町通としては軒数二一、男四三・女三〇(下人六)、諸職諸商は一二種一九軒で、日用屋四ほか白金屋・屋根屋・髪結など、町方役人の記載はない。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]小倉北区室町むろまち一丁目

室町の南、二の丸の堀に面した東西に延びる片側町。毛利氏の時代にはたわら町の一帯で、細川氏の代まで諸国の職人が来住、職人町と改めたという(倉府俗話伝)小倉藩の役所や役宅が並ぶ町並で、一丁目に国次(送り状役)の役宅があり、道を挟んで評定所が並ぶ。四丁目側に寺社奉行兼町奉行の役宅があった。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]桑名市職人町

あぶら町の東にあり、南北の長さ九六間の町屋敷地。江戸時代以前には光明こうみよう寺があったが、慶長の町割の際にしん町へ移った。「久波奈名所図会」に町名の由来を「町割の時職人多居住せし故町名とす。今尚職人の家多し」と記す。町の西側に永山氏宅跡がある。

職人町
しよくにんまち

[現在地名]高崎市新町あらまち

城郭の南東方、新町の南端東側に南北に延びる両側町。北は延養えんよう寺境内に接し、南側は遠堀。「高崎志」に「此地昔ハ組屋敷也、享保年中ヨリ大工職ノ者ヲ置ク、故ニ里人常ニハ大工町ト呼ブ、南北一条ノ町ニシテ行止リ也」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「職人町」の意味・わかりやすい解説

職人町 (しょくにんまち)

近世の都市において手工業技術者である職人の集住する町。近世初頭の城下町建設期に,領主は築城などの土木建築工事や武器武具類の製作修理など,主として軍事上の必要から大工,左官,鍛冶屋をはじめとする手工業者を城下に集住させる必要があった。そのため,御用手工業者の棟梁には領内における営業権など種々の特権を与え,1町ないし数町の土地を拝領させ,国役(くにやく)または公役としてそれぞれに仕事を請け負わせた。棟梁は配下の職人を集めてその拝領地を分割して住まわせ,領主の仕事に従事させた。この結果,江戸時代初期には町単位で同業者が集住し,手工業の棟梁が多くの場合町役人を務める職人町が出現することになる。城下町にみられる鍛冶屋町(鍛冶町),紺屋町,大工町(番匠町),細工町,檜物師町,瓦町,金屋町,磨屋町(研屋町),工(たくみ)町(匠町),大鋸(おが)町(鋸町),畳町,鉄砲町,革屋町,鞘師町,鎗屋町,白銀町,左官町,石屋町,吹屋町,鋳物師町,鍋屋町,塗師町,桶屋町などの町名は,この江戸初期に集住した職人の職種がそのまま町名になったものである。これらの職人町は,商人町が城下の大手に近い主要街路ぞいの一画を占めるのに対して,その裏町か,またはその職種の立地条件により城下中心部からはずれた外延部に置かれることが多かった。江戸初期の軍事目的による建設が一段落すると,領主のためほとんど独占されていた職人の仕事は,しだいに商品生産にも向けられるようになり,17世紀後半の全国的な商品流通の展開により,江戸をはじめとする大きな城下町では,御用手工業者の身分的職人支配体制は急速に解体し,したがって同職同町集住もくずれ,職人は市内に散在するようになる。ただこの場合も職人は中心部からはなれた周辺部に多く住み,江戸時代初期とはちがった形で職人町を構成することが多かった。このように,場末に職人が集住する傾向は近代にもうけつがれている。城下町以外でも各地域の中心となるような湊町,在郷町,宿場町などで,その中心部からはずれた一画に船大工,農鍛冶などが集住して職人町を形成している例は多い。
国役
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「職人町」の意味・わかりやすい解説

職人町
しょくにんまち

職人が多数居住する町。近世城下町には特定職種の職人の集居する町が多くみられるが、青森や酒田(さかた)など城下町以外の都市にもあった。また、桑名(くわな)・鳥取などの城下町のなかには職人町と名付けられた町もあった。中世末期、戦国大名やその有力家臣が建設した城郭の麓の根小屋(ねごや)にも鍛冶(かじ)ら職人がある程度居住したが、職人町が計画的に建設されたのは近世城下町においてであった。近世城下町には大工町、紺屋町、鍛冶屋町が多くみられ、このほか桶屋町、畳屋町、檜物(ひもの)町、塗師(ぬし)町、金屋町、瓦町、研屋(とぎや)町など多種の町があるが、江戸・大坂のような大城下町では多数の職種の職人町がつくられた。職人町は主として町端や裏側となる町に設けられた。江戸の職人町は、各職の職人頭が町地を与えられ、職人頭がこの拝領地に職人を集めてつくった。職人には御用務めが役(やく)として賦課された。江戸ではこの役を国役(くにやく)と呼び、この役を務める町を国役町と呼んだ。金沢でも大工町は大工が拝領した町地であった。他の城下町も大工・鍛冶などの諸職人は、公役(くやく)として1年間のうち一定期日の御用を務め、かわりに諸役免除の特権を与えられた。17世紀後半以降の商品経済展開の下では、御用務めを代金でかえることもみられるようになった。また、職人の町からの流出や他職業の者の流入も進み、町名と居住者の職業とが対応しなくなる職人町も多くなった。

[深井甚三]

『小野均著『近世城下町の研究』(1941・至文堂)』『豊田武著『日本の封建都市』(1952・岩波書店)』『東京百年史編集委員会編『東京百年史1』(1979・ぎょうせい)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

山川 日本史小辞典 改訂新版 「職人町」の解説

職人町
しょくにんちょう

近世城下町の町人地において,同種の職人が集住する町。おもなものに鍛冶町・大工町・紺屋町などがある。近世初期の城下町建設期に,領主は軍事的必要から,大工・鍛冶屋などの手工業者を城下町に集中させるため,手工業者集団の棟梁に町を下付して同職の職人町を形成させ,職人の国役を負担させた。17世紀後半以降,民間需要の手工業生産が広範に行われるようになると同職集住はくずれ,職人は町域に散在するようになった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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