永田錦心(読み)ながたきんしん

改訂新版 世界大百科事典 「永田錦心」の意味・わかりやすい解説

永田錦心 (ながたきんしん)
生没年:1885-1927(明治18-昭和2)

錦心流薩摩琵琶創始者。当時すでに東京にも普及しつつあった薩摩琵琶を肥後錦獅の下で数年のうちに習得し,20歳で錦心の号を許された。従来剛健な語り的演奏様式にあきたらず,歌うことを強調した発声と表情豊かな節回しを特徴とする様式をつくりあげた。増加する門弟を組織して1908年には一水会を発足させ活躍したので,この一派錦心流と呼称されるようになった。《石童丸》ほか多数の作品の創作があり,その教習および演奏によって全国的なレベルで隆盛し,御前演奏をもつとめた。他の邦楽ジャンルや美術,文芸その他にも実践的に通暁しており,そのために伝統的語法を十分に尊重しながら新しい芸術表現を追求する方法ができたといえる。著書として《愛吟琵琶歌之研究》(2巻,1927)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「永田錦心」の意味・わかりやすい解説

永田錦心
ながたきんしん
(1885―1927)

薩摩琵琶(さつまびわ)錦心流の創始者。本名武雄。東京生まれ。19歳で薩摩琵琶を肥後錦獅(ひごきんし)に学び、20歳で宗家吉水錦翁(よしみずきんおう)から錦心の号を受ける。しかし従来のものに飽き足らず、豪華な技巧などを案出し、1908年(明治41)「一水(いっすい)会」という一派を創始。これが大正から昭和初期にかけて旧来の薩摩琵琶をしのぐほど大流行し、この派を「錦心流」、従来のものを「正派」とよび区別する。錦心流は優婉(ゆうえん)・雅趣、正派は素朴・勇壮な芸風を特徴とする。作品に『石童丸(いしどうまる)』ほか多数。著書に『愛吟琵琶歌之研究』がある。

[シルヴァン・ギニアール]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永田錦心」の解説

永田錦心 ながた-きんしん

1885-1927 明治-昭和時代前期の琵琶(びわ)演奏家,日本画家。
明治18年12月1日生まれ。肥後錦獅(きんし)に薩摩(さつま)琵琶正派をまなぶ。明治41年一水(いつすい)会をつくり,錦心流を創始。田口米作,寺崎広業に絵をまなび,文展などに出品した。昭和2年10月30日死去。43歳。東京出身。本名は武雄。画号は武州。作曲に「石童丸」,著作に「愛吟琵琶歌之研究」など。

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百科事典マイペディア 「永田錦心」の意味・わかりやすい解説

永田錦心【ながたきんしん】

薩摩琵琶錦心流の開祖。肥後錦獅(きんし)・吉水錦翁(よしみずきんおう)に琵琶を学び,20代はじめに一水会を組織して演奏活動を開始。1915年に錦心流を創流した。従来の薩摩琵琶に,長唄や清元節などの各種の邦楽の要素を取り入れて新味を出し,全国的流行をみた。絵画,文学,弓術などにも長じた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「永田錦心」の意味・わかりやすい解説

永田錦心
ながたきんしん

[生]1885.12.1. 東京
[没]1927.10.30. 東京
薩摩琵琶演奏家。本名武雄。薩摩琵琶正派の肥後錦獅に師事。 1906年帝国黄嘴会を組織して独立。邦楽の諸種目を研究して,一般に広く受入れられるように琵琶楽の曲風を改め,かつ芸術的にも洗練された優雅な様式を樹立して錦心流を創始した。著書に『愛吟琵琶歌之研究』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の永田錦心の言及

【琵琶】より

…明治以後はこれらをまとめて〈薩摩琵琶〉という名称のもとに男性的なたしなみとして全国に広まった。これに手を加え繊細な節回しの様式が20世紀初頭永田錦心によって確立され錦心流と称したので,従来のものは正派と呼ぶようになった。さらに新しく錦心流の中から水藤錦穣(すいとうきんじよう)が錦(にしき)琵琶を,鶴田錦史(1911‐95)が鶴田派の新様式をつくり出した。…

※「永田錦心」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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