清元節(読み)きよもとぶし

精選版 日本国語大辞典 「清元節」の意味・読み・例文・類語

きよもと‐ぶし【清元節】

〘名〙 江戸浄瑠璃の一つ。文化一一年(一八一四清元延寿太夫富本節から独立、創始。諸浄瑠璃の中で最も新しい。清艷で繊巧な曲節を特色とし、多く歌舞伎、舞踊などに用いられ、今日に至る。大正一一年(一九二二)、三世梅吉が分かれ、延寿、梅吉の二派になる。清元。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕

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デジタル大辞泉 「清元節」の意味・読み・例文・類語

きよもと‐ぶし【清元節】

江戸浄瑠璃の一派。文化11年(1814)清元延寿太夫富本節から独立して創始。大正11年(1922)3世梅吉が分かれ、延寿・梅吉の二派になったが、後に合同した。軽妙洒脱で粋な曲調を特色とし、歌舞伎・舞踊などの地によく用いられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清元節」の意味・わかりやすい解説

清元節
きよもとぶし

邦楽の種目で、豊後(ぶんご)系浄瑠璃(じょうるり)の流派名。豊後三流(常磐津(ときわず)、富本(とみもと)、清元)とよばれるなかでも、最後に生まれた新しい浄瑠璃であり、清元延寿太夫(えんじゅだゆう)を始祖とする。1748年(寛延1)に富本節一流をたてた富本豊前掾(ぶぜんのじょう)の高弟、初世富本斎宮(いつき)太夫(後の清水延寿)の弟子となった岡村吉五郎が、2世斎宮太夫を継いだ。吉五郎は師の没後(1802)家元の2世豊前太夫と不和になり、一時は芸界から身を引いていたところ、1812年(文化9)3世中村歌右衛門(うたえもん)から中村座の興行に迎えられ、豊後路清海(ぶんごじきよみ)太夫を名のって長唄(ながうた)との掛合い『再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)』に再勤し、14年市村座の『御攝花吉野拾遺(めぐみのはなよしのしゅうい)』の浄瑠璃で清元延寿太夫と称し、ここに清元節一流が誕生した。初世は天性の美音家であり、清沢万吉(後に清元斎兵衛と改名)を立(たて)三味線に据え、『保名(やすな)』『鳥羽絵(とばえ)』『累(かさね)(かさね)』『傀儡師(かいらいし)』など、名曲を次々と創作して新興流派としての基盤を着実に固めた。24年(文政7)剃髪(ていはつ)し、延寿斎と改めたが、翌年刺客の凶刃に倒れた。

 2世を継いだ実子巳三治郎(みさじろう)(前名栄寿太夫)は、初世をしのぐ美声を存分に生かして、独吟、二吟という形式によって、初世の化政(かせい)期(1804~30)の庶民性を反映した粋(いき)の精神をよりいっそう強調した語り口へと発展させた。これに加えて、当時流行の俗謡を積極的に曲中に取り入れるなど、時代の要望する嗜好(しこう)に迎合した曲風を練成することによって独流の体勢固めに徹して、他の2流を圧するまでに至った。天保(てんぽう)年間(1830~44)後半の一時期には、劇場音楽を離れた座敷浄瑠璃としての清元節にも心を尽くした。1845年(弘化2)太兵衛を名のってからは、流派の地位をさらに確固不動のものにした。2世の娘お葉の婿養子に迎えられた斎藤源之助、後の4世は、2世河竹新七(黙阿弥(もくあみ))に技量を認められ、その知遇に報いて深く信頼したことから、提携して『梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)』に、ついで『由縁色萩紫(ゆかりのいろはぎのむらさき)』へ出演、これが大好評で、以来、4世延寿太夫の清元が黙阿弥劇で用いられた総数は約100曲の多きにのぼった。それにまた、付近の家とか別の部屋で語る浄瑠璃にあわせて俳優が仕種(しぐさ)をする「余所事(よそごと)浄瑠璃」の趣向が図にあたり、『夕立』『雁金(かりがね)』『筆幸(ふでこう)』などの傑出した代表曲が生まれた。しかし、清元節は創成期以来、庶民階級の通俗と意気を眼目に置いて受け継がれ、語られてきた結果、格調において欠ける点が多かった。

 4世の養子となった5世延寿太夫は、この時代の推移を敏感に察知し、上品繊細な奏法に改め、流派の社会的地位の向上確保に率先垂範し、愛好者の層の転換を図り、目的を達成した。だが1922年(大正11)2世梅吉ともども5世の相三味線を勤めた3世梅吉がたもとを分かち、清元流を創設するに及んで、高輪(たかなわ)派(延寿派)と赤坂派(梅吉派)の2派に分裂した。そして5世延寿太夫の没後、孫の清道が48年(昭和23)に6世を継ぎ、55年3世梅吉は2世寿兵衛を継承、孫の清之介が4世梅吉を襲名した。64年になってようやく清元協会設立の話がまとまり、6世延寿太夫が会長、2世寿兵衛が名誉会長に就任し、寿兵衛逝去のひと月後の66年7月、両派融和を図る合同演奏会が開催されたが、その後、赤坂派は清元協会を脱会、ふたたび分裂した。

 清元節の特色として、発声および節回しには他流に比べて装飾技巧が多い。「カエシ」(節を下げておとす旋律型)、語り出しにかぶって高い音程から出てなだらかに低い音程へ移行する技法、「振り出し」や声帯を振動させころがすといった語呂(ごろ)をきかす技法、節尻(ふしじり)の押しなど、多彩で華麗である。三味線は中棹(ちゅうざお)で、豊かで潤いのある柔らかい音を身上とする。また音色に緩急強弱の表情が多く、浄瑠璃を生かすときには撥(ばち)数も少なく控え目で、間拍子(まびょうし)も独特のはずし方で効果を高める奏法がとられたりする場合もある。上調子(うわぢょうし)は、舞踊の伴奏の場合を除き、語物の色濃いものにはとくに障らないように留意してつきあっている。

[林喜代弘・守谷幸則]

『忍頂寺務著『清元研究』(1930・春陽堂)』『町田佳聲・植田隆之助著『現代・邦楽名鑑清元編』(1967・邦楽と舞踊出版部)』『岩沙慎一著『江戸豊後浄瑠璃史』(1968・くろしお出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「清元節」の意味・わかりやすい解説

清元節 (きよもとぶし)

三味線音楽の一種目。豊後三流の一つ。江戸時代にできた浄瑠璃の中ではもっとも新しい。流祖の初世清元延寿太夫は,富本の基礎を固めた清水延寿斎の弟子。1802年(享和2)に師が没してのち家元の富本豊前太夫と不和になり,11年(文化8)に富本を脱退独立し,14年清元延寿太夫と名のり一派を樹立した。その実子の2世延寿太夫は,美声に加えて時流の好みに敏感で,曲の中に当時流行の端唄を取り入れたり,語り口をくふうして清新な曲調を作り上げ,世に迎えられた。作曲者として初世清元斎兵衛,後援者として松平治郷(はるさと)(不昧公)の協力も忘れられない。3世は芸才乏しかったが,4世延寿太夫は狂言作者河竹黙阿弥と結び,幕末から明治中期にかけて多くの名作を語り,清元節隆盛を招いた。作曲者として2世清元梅吉,4世清元斎兵衛,妻の清元お葉が協力,他所事(よそごと)浄瑠璃(歌舞伎などで,近くから浄瑠璃を演奏しているのが聞こえるという設定で場面効果を上げる演出)などに新境地を開拓した。5世延寿太夫は,時代の流れに従って語り口を品よく統一し,さらに社会的地位の向上につとめた。3世梅吉とのコンビは人気を博したが,1922年に不和となり,梅吉は独立して清元流(梅吉派)を樹立,以後梅吉派と延寿太夫派(高輪派)に分裂して今日にいたっている。

 清元節の歴史は新しいが,その曲風の変遷は激しく,あらゆる面をそなえているといえる。本質的には軽妙洒脱で,江戸の粋な雰囲気をはでに語っているが,舞踊曲,素浄瑠璃,時代狂言浄瑠璃,他所事浄瑠璃などを含んでいる。語り口は唄に近く,発声法では鼻の使い方に特色がある。ことばのはじめに〈ン〉を加えて発音を柔らかくし,またかん高い声を効果的に使う。また節尻を短く投げるように切ったり,あるいは長く大きくゆり動かして聞かせる。概して各フレーズの初めと終りにその特色が強くあらわれている。三味線は中棹(ちゆうざお)を用い,澄んだ柔らかい音色を基本とする。伴奏としては控えめである。原則として2挺3枚(三味線2人,太夫3人)で演奏するが,三味線が3挺となることもある。

 2世延寿時代に当時流行の端唄を積極的に取り入れたことから,清元の作曲家が余技としてはじめた小唄は,その後に発展して江戸小唄となり,一つのジャンルを作った。小唄の曲節には,清元のそれを基本としたものが多く,発声法などに大きな影響がみられる。また大倉喜七郎から発した〈大和楽(やまとがく)〉も清元を母体としており,清元栄寿郎が力を注いだこともあって,その影響が強く感じられる。

5世延寿太夫時代までの代表曲はおよそ60曲,ほかに富本節からの移行曲が15曲ほどある。ごく大まかに分類すると,歳旦物,祝儀物として《北州》《梅の春》《卯の花》《双六》《名寄せ》《花がたみ》《柏若葉》《青海波》《舌出三番叟》など。道行物として《権八》《保名》《お半》《落人》《お染》《幻椀久》など。変化舞踊物として《女太夫》《鳥羽絵》《玉兎》《文売》《子守》《山帰り》《傀儡師》《船頭》《喜撰》《玉屋》《流星》など。狂言浄瑠璃として《須磨》《累》《明烏》《山姥》《吉原雀》《十六夜》《夕立》など。祭礼物として《神田祭》《三社祭》《申酉》など。他所事浄瑠璃として《三千歳》《雁金》《筆幸》など。富本節からの移行曲として《長生》《鞍馬獅子》《浅間》《十二段》《虫売》《夕霧》《吉野山》などがあげられる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清元節」の意味・わかりやすい解説

清元節
きよもとぶし

三味線音楽の一流派。一般には単に「清元」と呼ぶ。富本節から派生した浄瑠璃。広義の豊後節の一派。浄瑠璃の流派としては最後に生れたもの。文化 11 (1814) 年1世清元延寿太夫によって開流。以来,代々の家元は延寿太夫の名を継ぎ,現在7世にいたる。5世延寿太夫の時代の 1922年,三味線方の名手3世清元梅吉が延寿太夫と不和を生じ,分派独立して清元流家元と称したため,以来,延寿太夫の派 (延寿派,高輪派) と梅吉の派 (梅吉派,赤坂派) とが併立しているが,芸の内容上では大きな相違はない。流派発生が新しいので,伝統にこだわるところは少く,各代の家元が時流に応じて工夫を加えたため,曲風の変遷が著しく,それだけ幅広い芸風をもつ。全体として歌詞にも曲調にも破格な新しさがあり,幕末の退廃的な雰囲気を含むが,現在の語り口は,5世延寿太夫が明治以後の上流貴紳の好みに合うように工夫統一した上品なもの。発声法に特色があり,非常に技巧的かつ人為的で,甲高い裏声を使い,常に鼻の共鳴を利用して柔らかみを出し,声をのどで転がすようにして大まかな特徴的なユリを聞かせる。字句の発音も柔らかみを出すよう工夫している。三味線は中棹の細めのものを用い,澄んだ柔らかい音色をよしとし,伴奏のつけ方は諸浄瑠璃中最も控え目で,声楽の邪魔になるのを嫌う。幕末から明治にかけて清元節作曲家の余技として始った小唄は,当然のことながら,清元節の曲調や発声法の影響を大きく受けている。清元節の演奏家の芸名の姓はすべて清元である。代表曲『梅の春』『北州』『青海波』『山姥』『吉原雀』『隅田川』『権八』『累』『明烏』『三千歳』『落人』『お染』『夕立』『雁金』『保名』『文屋』『喜撰』『神田祭』『流星』『鞍馬獅子』『忠信』など。

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百科事典マイペディア 「清元節」の意味・わかりやすい解説

清元節【きよもとぶし】

浄瑠璃の流派名。1748年に常磐津節から富本節が分派したが,2世富本斎宮(いつき)太夫が家元と不和になり,独立して一派を興し,1814年清元延寿太夫と名乗って創始したもの。常磐津節と同様に歌舞伎と結んでその舞踊音楽を受け持ったが,浄瑠璃の中で最も新しい流派であるところから,作曲・演奏の面で時の流れがよくとらえられ,化政期〜幕末にかけての退廃的な世相をよく反映している。また清元節には歌舞伎を離れた素浄瑠璃として作曲された曲も多く,明治以後はその芸風が次第に上品になった。発声法は人為的・技巧的な面が強く,甲高い声を裏声で効果的に聞かせる。三味線は中棹(ちゅうざお)を用いるが常磐津節のものよりやや細い。
→関連項目浮世節小唄

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清元節」の解説

清元節
きよもとぶし

清元延寿(えんじゅ)太夫が創始した浄瑠璃。豊後節の系統をひき,常磐津節・富本節とともに豊後三流といわれる。豊後節の禁圧後,江戸に残った高弟のうち宮古路文字太夫が,1747年(延享4)改姓し常磐津節を創始。翌年に常磐津小文字太夫が常磐津からわかれ,富本節を創始した。2世富本斎宮(いつき)太夫は,富本節の家元豊前太夫と不和となり,1814年(文化11)清元延寿太夫と改姓し,富本から独立した。初世延寿太夫は25年(文政8)に刺殺され,疑いが富本にかかり,富本節衰退の一因となった。清元節は江戸町人文化の爛熟した文化・文政期に成立し,粋で艶のあるところが特色とされる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清元節」の解説

清元節
きよもとぶし

江戸後期におこった浄瑠璃の一派
1814年ころ富本節の2代目富本豊太夫が家元と衝突し,清元延寿太夫(初代,1777〜1825)と改名して創始した。歌舞伎の舞踊音楽として富本節より派手で軽快。洒落と粋をもって,語り方を大衆の好みに合わせたので,幕末から明治期にかけて隆盛した。

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世界大百科事典(旧版)内の清元節の言及

【浄瑠璃】より

… また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。これを豊後三流という。…

【富本】より

…拍子のはっきりした舞踊向きの部分は常磐津節が受け継ぎ,イキとかツヤは富本が拡大したものであろう。しかし,この面は2世豊前のような美声の持主にしてはじめて可能だったらしく,結局それはさらに拡大した清元節に取って代わられた。そして富本初期の名作のほとんどが清元節にとり込まれてしまった。…

【日本音楽】より

…なかでも浄瑠璃は江戸時代の初期に,人形と結びついた人形浄瑠璃の音楽と,歌舞伎と結びついた歌舞伎の音楽とに分かれて発展した。前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。…

※「清元節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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