永享条約(読み)えいきょうじょうやく

精選版 日本国語大辞典 「永享条約」の意味・読み・例文・類語

えいきょう‐じょうやく エイキャウデウヤク【永享条約】

永享六年(一四三四)、室町幕府六代将軍足利義教が明の皇帝宣徳と結んだとされてい勘合貿易条約。史実に合わない架空のものとされている。

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改訂新版 世界大百科事典 「永享条約」の意味・わかりやすい解説

永享条約 (えいきょうじょうやく)

1434年(永享6)以後に,明から日本の遣明船に対して適用された通交の条件といわれるもの。この年が明の宣徳9年にあたるところから,宣徳要約ともいわれる。内容は,(1)遣明船の入貢は10年に1回とする,(2)人員は300人に限る,(3)船数は3隻とする,(4)刀剣積載量は300を限度とする,というものである。中国の《籌海図編(ちゆうかいずへん)》《吾学編》《明史》などに記されているものであるが,このような条項が1434年以後実施されたという歴史的事実はなく,後世になって誤想されたものとおもわれる。しかし,《蔭涼軒日録》によると,53年(享徳2)に入明した遣明使節団の一行が,中国で喧嘩をおこしたために,以後遣明船は3隻,人員300人をこえないように制限されたとしており,この制限はのちによく守られた。
日明貿易
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「永享条約」の意味・わかりやすい解説

永享条約
えいきょうじょうやく

1434年(永享6)に明(みん)と締結されたといわれる通交貿易条約の名。明の年号をとって宣徳要約(せんとくようやく)ともいう。足利義満(あしかがよしみつ)が始めた対明勘合(かんごう)貿易は、義持(よしもち)によって中断されたが、義教(よしのり)のときに再開され、明使雷春(らいしゅん)によって新勘合がもたらされた。本条約はこのときに締結されたといわれ、内容は、入貢は10年に一度とする、人員は300人、船は3隻以内とするというものであったとされている。これは『明史(みんし)』に載せられているが、その典拠となった鄭若曽(ていじゃくそ)編『籌海図編(ちゅうかいずへん)』は16世紀中葉の成立で、国交のなかった1426年(応永33)の入貢を伝えるなど、記事に多くの誤りを含み、史料的に確実なものはない。むしろ『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』などから考えれば、1451年(宝徳3)に出航した遣明船が、船9隻、人数1200人という膨大なもので、買上価格をめぐって紛糾した際に、明から加えられた制限と合致している。

田中博美]

『小葉田淳著『中世日支通交貿易史の研究』(1941・刀江書院)』『田中健夫著『倭寇と勘合貿易』(1961・至文堂)』

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