楞厳寺(読み)りようごんじ

日本歴史地名大系 「楞厳寺」の解説

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]浜坂町田井

田井たい集落の北西山麓にあり、臨済宗天龍寺派。山号は仏頂山。本尊は釈迦如来。開山は南溟昌運。昌運は京都の生れ。父親は中納言平宗経か。父の死後紀州高野山で出家し、諸国修行ののち、夢窓疎石の高弟春屋妙葩の法嗣となった。延文元年(一三五六)但馬に来り、応峯楊林坊(現相応峰寺)寄宿、同三年松尾堂に移り、同五年三三歳で、当寺を開いた(正長二年二月二九日「楞厳寺開山南溟昌運年譜并鎮守由来記」楞厳寺文書、以下とくに示さない限り同文書)

貞治二年(一三六三)三月三日散位朝綱が二方ふたかた松尾まつお谷を寺敷地として寄進した(散位朝綱楞厳寺敷地寄進状)寄進状には、「西者松崎ノ山ハナヨリ賀茂山ノ峯ヲカキル、北者クレサキノ峯スチヲカキル、東者下司分堺ノ山ヨリ坂本ノ口ノ尾ヲクタリニ古屋ノ前ヲ西エ一文字ニカキル、南田ヲカキル、観音堂者寺家為進退、谷門前両村出仕候也」と寺敷地の四至が詳しく記され、またすでに観音堂もあった。次いで貞治五年の寄進状に任せて応安元年(一三六八)一一月二七日道全が久斗くと庄下司職内田畠二町を寺領として安堵(「道全安堵状写」山名家御判物之控并鏡銘之控)、永和二年(一三七六)九月二八日塔頭韜光庵に二方庄一宮分田一反が寄進され(「兵庫助実明寄進状写」同控)、同年二月二九日には円通門庵に売却された久斗庄内公文之別橋津分田畠八反が契状によって韜光庵に引渡されている(「昌懼・昌盛連署契状写」同控)

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]刈谷市天王町

天王町の南、洪積台地の縁辺に位置し、森に囲まれている。神守山と号す。曹洞宗、本尊は釈迦牟尼仏。寒巌一三派の名刹。遠州浜松普済ふさい(現浜松市)の第五世華蔵義曇の嗣子利山義聡の開創。利山は、初め応永一〇年(一四〇三)海会かいえ寺を開いたが、境内が手狭なため新たに当寺を開いた。開山は、順徳天皇の第三王子寒巌義尹法皇禅師の法孫。

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]福井市大村町

泰澄の開創と伝える文殊もんじゆ山の東麓にある山岳霊場寺院。高野山真言宗。高台山と号し、本尊文殊菩薩。寺伝によれば、足利尊氏の祈願寺となり、朝倉氏などの尊崇を受けた。盛時には一七坊を有する大寺であったが、一向一揆の際焼亡し、江戸時代には上坊宝珠ほうじゆ院と下坊成就じようじゆ院の二坊のみが残った。寺蔵の宝永六年(一七〇九)の御朱印地并村除地共ニ御改帳写によれば、慶長三年(一五九八)の検地に際して、宝珠院は寺地四反七畝二五歩・山三ヵ所、成就院は寺地二反三畝一〇歩・山二ヵ所が除地となった。

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]柿崎町芋島

芋島いものしまの集落内にある。大仏山と号し、本尊釈迦如来。文化五年(一八〇八)の村明細帳(国立史料館蔵)によれば、曹洞宗の春日山林泉りんせん(現上越市)の末寺で、宝徳二年(一四五〇)の開基。のち絶えるが永禄元年(一五五八)柿崎和泉守が再興。同帳による除地は田一反五畝歩・屋敷二反八畝歩・山一〇町四反歩で高一石四斗余。

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]岩室村和納

越後線岩室駅と西方西にし川のほぼ中ほどの町並にある。仏頂山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。永正三年(一五〇六)書写と伝える古伝(種月寺蔵)によれば、天暦九年(九五五)村上天皇の皇子桃井親王が都から和納わのうへと落延び、応和三年(九六三)に没した。

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]萩市大字山田 玉江

天狗てんぐ(三八五・五メートル)の東、坂の入口に位置する。高登山と号し臨済宗建仁寺派。本尊は聖観音

もと玉井たまい(のちの玉江浦)の水船という地にあったが慶長一二年(一六〇七)現在地に移ったという。

楞厳寺
りようごんじ

[現在地名]笠間市片庭

仏頂ぶつちよう山麓の山林の中にある。仏頂山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は大日如来。創立年代は不詳であるが、笠間時朝が火災に遭って荒廃した寺を中興し、宗派も律宗から禅宗に改め、鎌倉建長寺の大拙を招いて開基としたといわれる。以後笠間氏の菩提寺となり、七堂伽藍を備え、隆盛であった。二度火災に遭い本堂などを焼失したが、室町時代の建造といわれる茅葺の山門(国指定重要文化財)や、建長四年(一二五二)銘があり時朝寄進といわれる千手観音立像(国指定重要文化財)は焼失を免れた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「楞厳寺」の解説

楞厳寺

茨城県笠間市にある臨済宗妙心寺派の寺院。室町時代中期に建てられた山門と木造十一面千手観音像は、国の重要文化財に指定されている。

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