大村(読み)おおむら

精選版 日本国語大辞典 「大村」の意味・読み・例文・類語

おおむら おほむら【大村】

長崎県東部、大村湾に面する地名。平安中期以来、大村氏の城下町として発展。明治以降は軍都として知られた。昭和一七年(一九四二)市制。

おおむら おほむら【大村】

姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「大村」の意味・読み・例文・類語

おおむら【大村】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「大村」姓の人物
大村智おおむらさとし
大村純忠おおむらすみただ
大村益次郎おおむらますじろう

おおむら【大村】[地名]

長崎県、大村湾東岸にある市。大村氏の城下町で、大村純忠おおむらすみただのときに、ポルトガルとの交易で繁栄。大村入国管理センター・旧円融寺庭園や、島に長崎空港がある。人口9.1万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「大村」の解説

大村
おおむら

[現在地名]大村市東三城町ひがしさんじようちよう西三城町にしさんじようちよう三城町さんじようちよう久原くばら玖島くしま須田すだ木町きまち赤佐古町あかさこまち武部町たけべまち水計町みずはかりまち荒平町あらひらまち杭出津くいでつ水田町みずたまち古町ふるまち松並まつなみ協和町きようわまち松山町まつやままち森園町もりぞのまち箕島町みしままち乾馬場町いぬいばばまち西乾馬場町にしいぬいばばまち西大村本町にしおおむらほんまち諏訪すわ上諏訪町かみすわまち池田新町いけだしんまち池田いけだますら原町はらまち東大村ひがしおおむら植松うえまつ桜馬場さくらばば古賀島町こがしままち徳泉川内町とくせんがわちまち木場こば向木場町むかいこばまち

現市域の中央部やや南側に位置し、北から大上戸だいじようご川・内田うちだ川・鈴田すずた川などが南西流し、内海に注ぐ。古代に彼杵そのき郡大村郷があり、中央部の三城地区では古代の条里遺構がみられる。中世は彼杵庄のうち。北部の松並に文明一三年(一四八一)大村純伊が家臣の一瀬栄竜に命じて、原口の聖宝はらぐちのしようほう寺より銭壺ぜんつぼの近くまで松並木を植えさせたといわれ、並松なみまつ百本松ひやつぽんまつ・植松などの地名が残る。大上戸川沿いの乾馬場の大村館をはじめ、中世寺院の円長えんちよう寺・阿弥陀寺・浄土寺・千乗せんじよう院・円福えんぷく寺などがあり、この一帯に限って本堂ほんどう川とも称した。天文二二年(一五五三)の大村館の焼失、天正二年(一五七四)キリシタンの社寺焼打ちでこれらの堂舎は灰燼に帰したといわれ、千乗院跡には万治三年(一六六〇)天満宮が建立された。永禄七年(一五六四)大村純忠が三城城を築き、城下町が建設されたという。水田の御園みそのに伊勢御師が投宿する神主屋敷が置かれていたと思われる。江戸時代は大村藩領で、地方じかた地区に属する。村内は南部の久原分および北部の池田分からなり、これらは南部の玖島に築かれた大村城(玖島城)とその城下町建設に伴って城下域となるが、また田畑地も残されたまま、大村領内では独立した単位として扱われた。

慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に大村とみえ、高三千一四四石余で、田一九七町三反余・畠一〇〇町七反余、物成一千七二九石余。同一七年の総検地では高二千七九八石余を打出すが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は三千一四四石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)慶長国絵図でも大村として高三千一四四石余。

大村
おおむら

中世よりみえる地名。はじめ彼杵そのき庄のうちとしてみえ、キリシタン大名大村純忠をはじめ大村氏の拠点として知られる。

〔彼杵庄大村〕

元応二年(一三二〇)某月二七日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録案(東福寺文書)に「当庄大村」とみえ、彼杵庄の雑掌は年貢未進を行うようになった一分領主を鎮西探題に訴え、同元年一〇月に裁許を得ているが、当地の一分領主として十郎入道・孫九郎盛純・日宇小次郎入道や武松七郎入道が記されている。この盛純は大村盛純で、すでに大村氏の勢力下にあったことが知られる。また十郎入道も大村氏と考えられるほか、大村一分領主として今富秋次九郎次郎入道がおり(嘉暦四年七月三日「東福寺領肥前国彼杵庄文書目録」正慶乱離志裏文書)、当地はこれら領主により分割されていたことが知られる。嘉元四年(一三〇六)四月大村太郎は多久氏とともに、五島の青方高家が放火狼藉に関する陳状を提出すべきことを催促するように命じられ(同月一一日「肥前国守護代平岡為政書下案」青方文書)、同月これを受けて高家に提出を促しているが、署名に平家直と記している(同月一六日「大村家直書下案」同文書)。またこの相論の使節の一人として大村太郎家直とみえており(年月日欠「青方覚念陳状案」同文書)、多久太郎とともに使節となった家直は、その当時の拠点は未詳ながら、太郎とあることから大村氏の惣領家筋であったと考えられる。

正慶二年(一三三三)彼杵庄内の江串えのくし(現東彼杵町)の江串三郎入道が後醍醐天皇の一宮尊良親王を奉じて挙兵し、宮方に付くよう今富いまとみや大村などに触れ回っているが、この一味のうち刑部房は大村山で大村永岡三郎入道に討たれている(「楠木合戦注文・博多日記」同年三月一七日条・同月二四日条)。これら大村の地を名字とする勢力が早くからいたことが知られ、正応二年(一二八九)三月一二日モンゴル襲来の恩賞として肥前国神崎かんざき庄内の田地を与えられた大村家信は(年月日欠「蒙古合戦勲功賞配分状写」東妙寺文書)、鎌倉御家人であった可能性があり、鎌倉末期には彼杵庄内に少なくとも大村を称する五つの家があったことが確認できる。建武元年(一三三四)彼杵庄南方地頭肥後光景の代官の賢法の訴えで肥前守護大友貞載が守護代の斎藤正遍に対して深堀明意(時通)父子らの放火・刃傷などの狼藉を止めるために「彼杵大村太郎」「大村三郎入道」らに出兵させるよう命じている(同年一〇月一七日「大友貞載書下案」深堀文書)


おおつちむら

[現在地名]大槌町大槌・新町しんちよう大町おおまち末広町すえひろちよう須賀町すかまち安渡あんど一―三丁目・港町みなとまち新港町しんみなとまち

大槌川の下流域を占め、東は大槌湊、西は金沢かねざわ村、南は小槌こづち村、南東は吉里吉里きりきり村。大鎚村・大土村とも記した。中世以来小槌村・金沢村などとともに大槌氏の支配下にあったと伝えるが(阿曾沼興廃記)、大槌氏滅亡後は全村盛岡藩の蔵入地となる。元和二年(一六一六)の南部利直請取状(盛岡浜田文書)によると、慶長一九年(一六一四)大槌御蔵納米として二ツ八分半にあたる一〇六駄九升を納めており、高二二三石余であったことが知られる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高二〇二石余とあり、七ヵ年平均の免は一ツ四分六毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方三六石余・畑方一六三石余。「邦内郷村志」では蔵分一四四石余・給分七石余、家数三〇二、馬二二三。享和三年(一八〇三)の仮名付帳によれば家数三一〇、うち本村一三九、枝村の安渡三七・向川原むかいかわら四五・鳶沢とびざわ三八・上京かみよう五一。

大村
おおむら

[現在地名]人吉市願成寺がんじようじ町・南泉田みなみいずみだ町・北泉田きたいずみだ町・鬼木おにぎ町・鶴田つるだ町・駒井田こまいだ町・上青井かみあおい町・中青井なかあおい町・下青井しもあおい町・城本しろもと町・瓦屋かわらや町・ごうはら町・くち

人吉城の球磨川対岸に位置する城下町を北・東・西の三方から半円形に囲む村で、ほぼ中央部を山田やまだ川が南流する。北は山田村(現球磨郡山江村)原田はらだ村、東は梁瀬やなせ(同相良村)、西ははやし村・薩摩瀬さつまぜ村、南は城下町と接する。寛元二年(一二四四)五月一五日の人吉庄起請田以下中分注進状(相良家文書)木落きおちあいだ・泉田・青井がみえ、人吉庄に属した。

慶長五年(一六〇〇)二月一〇日の相良頼房判物写(願成寺文書)に大村とある。慶長国絵図では一千一〇九石六斗余とある。寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では本田高一千二一五石六斗余、新田畠高一千七一五石余で、同一八年の検地帳による田畑構成は上田五一町九反六畝・中田一一一町五反六畝余・下田三一町三反五畝余、上畑三六町五反二畝余・中畑四七町四反余・下畑一三町九畝余・野畑八反七畝余・山畑なし、屋敷一一町二反六畝余、合計三〇四町五畝余、分米高二千九二九石三斗余。

大村
おおむら

[現在地名]富山市海岸通かいがんどおり永久町とわまち

富山湾に面し、西は東岩瀬ひがしいわせ村、南は田畑たばた村、東は日方江ひかたえ村。もとは長榎ながえのき村と称する大村であったが、日方江・針木はりき・田畑・中田なかだの四村が村立てされ、それらの親村の意で大村と改名したと伝える(越中志徴)。浜往来とも称する加賀藩主往還路(北陸街道)が通る。延徳三年(一四九一)三月冷泉為広は岩瀬渡を経て「ナカエノ木里」に至り、観音寺という寺で昼休をとって日方江へ向かった(越後下向日記)。天正一一年(一五八三)二月二八日上杉景勝は佐々成政との合戦に功のあった大関親憲に「ひかたへなかえの木一円」など寺嶋民部左衛門の旧領を与えている(「上杉景勝契約状」東京大学史料編纂所蔵杉原謙文書)。正保郷帳では高一千二五九石余、田方八一町六反余・畑方二町三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一千四二六石、免四ツ七歩、小物成は網役六八匁(三箇国高物成帳)

大村
おおむら

[現在地名]色麻町だい

加美郡南東端にあり、馬洗まあらい川が南東流する。南は金洗かなあらい(焼切川)で黒川郡大瓜おおり(現大衡村)、東は同郡駒場こまば(現同上)、西は王城寺おうじようじ村、北は四竈しかま村に接する。村名は相模国から大村某が住民とともに移住開拓したことによるという。「伊達正統世次考」によれば、伊達稙宗は大瓜城主黒川氏の家臣福田若狭に手紙を出し、大崎氏が大村の境を侵そうとしていると告げている。年月日未詳の伊達領内領知日記(伊達家文書)に「大崎かんの郡内」として「一大村之内 たいしんいん分」の二貫文がある。正保郷帳に田一一貫七四四文・畑二貫六三文とあり、ほかに同所新田四貫八五三文がある。金洗堰(黒川堰)は正保三年(一六四六)当村、大瓜・大衡おおひら奥田おくだ(現大衡村)蒜袋ひるぶくろ(現志田郡三本木町)などの村々への用水として、藩直営工事で普請本締前田喜左衛門が五年を費やして開削した入会堰である(金洗堰記録由来記「色麻町史」所収、「大衡村誌」など)


おわいむら

東西の大饗村と菩提ぼだい村の総称で、江戸時代初期にはすでに三村に分立していたと思われるが、水利関係などでは一括して大饗村として扱われた。明治六年(一八七三)の地引絵図(檀野家文書)には三村の村領が各集落周辺部を除いて錯綜して描かれる。

「続日本紀」天平神護元年(七六五)一〇月二八日条に、称徳天皇が紀伊国行幸の帰途河内丹比たじひ郡に至ったとの記事があるが、このとき当地が饗宴の場所になったので地名が生じたという伝えがある。当地は古代丹比郡に属したが、平安時代後期以降は同郡から分立した八上やかみ郡に所属。弘安九年(一二八六)七月日付の金剛こんごう(現河内長野市)の一切経田に関する里坪付注進案(金剛寺文書)に「田井御庄大饗郷」とみえる。

大村
おおむら

[現在地名]白河市だい

白河城下の東方、阿武隈川両岸に位置する。四箇しか村ともよばれ、本村の久保くぼ、端村の搦目からめ鹿島かしま桜岡さくらおかの四つの集落からなる。東は久田野くだの村・双石くらべいし村。「和名抄」所載の白河郡大村郷の遺称地とされる。本村の久保は北東に山を背負い、西に水田が広がる。搦目は結城白川氏の本城である搦目城の搦手に位置し、地名もこれに由来するといわれる。鹿島には鹿島神社があり、同社の馬場の両側に家居が連なる。桜岡は久保の北西部にあり、三方を山に囲まれている。建武元年(一三三四)頃と推定される結城宗広知行所領注文案(伊勢結城文書)に、結城上野入道道忠(宗広)の所領として「大村郷・下大村郷」などがみえる。

大村
おおむら

[現在地名]犀川町大村

大坂おおさか村の東、いま川の西岸、飯岳いいだけ山の東麓に位置する。天生田あもうだ(現行橋市)から秋月(現甘木市)に至る南北道が通る。今川対岸は山鹿やまが村。元和八年人畜改帳によると給人一人分の高二七石余、給人四人分と御蔵納越米ともの高三八五石余の二筆に分けて記され、家数六四・人数一〇八(うち惣庄屋一・百姓一三・名子など二九・鍛冶一)、牛一七・馬九。寛永九年(一六三二)の高四二三石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。郷村高帳では高四六九石余、うち新田高四六石余。旧高旧領取調帳では高四八二石余。定免制施行後の年貢率は四八パーセント(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)

大村
おおむら

[現在地名]古川町上野かみの中野なかの下野しもの

みや川左岸、古川盆地の西部を構成し、東方に田園が広がる。南は高野たかの村。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳の小鷹利こたかり本郷ほんごう村は当村より下流数ヵ村を含むと思われる。同一八年の郷帳では高四三〇石。寛文九年(一六六九)の田畑人々納帳(国府町立郷土館蔵)によれば高二三五石余、田一五町三反余・畑九町余と、永井掃部改め次郎兵衛が開発した田畑二九町七反余・高二六七石余があり、高は計五〇二石余となる。元禄検地反歩帳では高二八八石余、田三三町一反余・畑三三町一反余とあり、面積に対し高が低すぎるので、この高は取高(本途)の書違いではないかと考えられる。


おおそねむら

[現在地名]南国市大

香長かちよう平野の中部、野田のだ村の南西にある肥沃な農村。「土佐州郡志」は大郷と記し、「東限立田村上田村、西限介良村篠原村、南限片山村、北限野田村、東西二十四町許南北十九町許」と記す。全体的に平坦であるが、吾岡ごうか船岡ふなおかの二つの小山が平野の中に孤立し、南に標高一一〇メートル余の向山が横たわる。村の中央部を南北に蚊居田かいだ村から豊永とよなが(現長岡郡大豊町)へ行く道、村の南部を高知城下から赤岡あかおか(現香美郡赤岡町)に行く道が通る。

大村
おおむら

[現在地名]白山町二本木にほんぎ

雲出くもず川中流域左岸、支流大村川の流域にひらける河谷平野にある。北は大岨おおぞわを経てみつ村、西はおか村。東はかめひろの原野を経て大仰おおのき(現一志町)。南は雲出川を隔てて川口かわぐち村。村内を東西に初瀬はせ表街道が通じ、大村の中心二本木にほんぎは宿場として栄えた。中世は小倭おやまと郷に属する。明応三年(一四九四)九月一五日の小倭百姓衆起請文(成願寺文書)には大村衆二七名の農民の名がみえる。

大村
だいむら

[現在地名]安心院町大

もり村の南西、深見ふかみ川中流域左岸にあり、南は矢上やがみ村。「おおむら」ともいう。当地には深見氏の居城があったという。深見盛時の代の大永三年(一五二三)大友氏に攻められて一族は滅んだといい、内城うちしろ外城そとしろが城跡という。内城に河内守廟所の碑がある。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二五八石余、人数五四、百姓八(うち庄屋一)・名子四・牛七・馬三。元禄一三年(一七〇〇)当村仁兵衛は一五石の造酒免許を受けている(「四日市陣屋酒造免許廻文」四日市村年代記)。元禄豊前国高帳では高一千一七〇石余とある。ただし享保二年(一七一七)の中津藩郷村高帳などによるとこの高一千一七〇石余は周辺の上之畑うえのはた衲屋敷のとやしき西光寺さいこうじ広連ひろつれ矢上やがみの各村の高を含んでいた。

大村
おおむら

[現在地名]大垣市大村町・大村

東を揖斐いび川が南流し、古宮ふるみや輪中の北部に位置する。北は三本木さんぼんぎ村。大額おおひたい大利おおとしとも記したが、正保三年(一六四六)大額村を大村と改称(座右秘鑑)、「新撰美濃志」は大額村を大利村と改称したとする。室町末期に枝郷三本木を分村したという。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に「大ひたひ村」とみえ、村高二五六石余。正保郷帳には大額村と記し、田高一二八石余・畑高一三二石余。

大村
おおむら

[現在地名]豊橋市大村町

豊川の右岸にある。左岸の下条げじようと対する。古来豊川右岸の穀倉地帯として知られるとともに、豊川の氾濫地域で、よろい堤、一名かすみ堤による遊水池としていたので、年間一、二回は全村水びたしとなった。昭和四〇年(一九六五)豊川放水路の完成によって水害の愁いが除かれた。また当村から牛久保うしくぼ(現豊川市)にかけて広地域に条里制遺構がみられたが、今は耕地整理で破壊された。

「三河国二葉松」によると、しば(柴)住吉すみよし沖木おきぎ大礒おおいそで大村郷をなしている。

大村
おおむら

[現在地名]三木市大村

鳥町とりまち村の東に位置し、北は加東かとうかし(現小野市)。天正七年(一五七九)九月、三木城が羽柴秀吉の軍勢に包囲されたため、毛利氏・別所氏らは同城を救援すべく魚住うおずみ(現明石市)を立ち、大村付近で羽柴勢と合戦となっている(別所長治記)。山間にある金剛こんごう寺には大村由己(秀吉書記官)寄付による二十八部衆画幅がある(美嚢郡誌)

慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)

大村
おおむら

[現在地名]小笠原村父島ちちじま西町にしまち東町ひがしまち清瀬きよせ奥村おくむら三日月山みかづきやま船見山ふなみやま大根山おおねやま宮之浜みやのはま宮之浜道みやのはまみち釣浜つりはま屏風谷びようぶだに旭山あさひやま境浦さかいうら夜明山よあけやま西島にしじま兄島あにじま弟島おとうとじま西之島にしのしま聟島むこじま

父島の北部を占める。明治二四年(一八九一)本土の町村制に準じて世話掛設置概則が制定された際、それまでの大村・奥村・境浦・屏風谷・清瀬・宮ノ浜・小浜・吹破を合せて大村とし、世話掛一人を置いて大村の村役場で執務した。同二九年の設置概則改訂で、聟島列島および父島を除く父島列島の諸島も当村に付せられた。


おおぬかりむら

[現在地名]矢祭町大

上関河内かみせきごうど村の南東、小田おだ(滝川)上流域の山間に立地。大滑とも書いた(元禄郷帳・天保郷帳)。字おぼろに縄文時代の遺跡がある。小田川沿いに水戸街道が通り、村境の明神みようじん(峠)には戦国期、北進する佐竹勢に備え大関が置かれていた。

元文元年(一七三六)以前は上関河内村に含まれていたというが(「村誌」藤田家文書)、正保四年(一六四七)の大村田畑水帳(大区有文書)が残る。


おおあしむら

[現在地名]吹上町大芦

吹上村の南に位置し、大部分が元荒川と荒川に挟まれた後背低湿地。集落は旧河道の自然堤防上にある。足立郡おし領に属する(風土記稿)。南は荒川を隔てて横見よこみ上砂かみずな(現吉見町)、大里郡小八ッ林こやつばやし村・玉作たまつくり(現大里村)。慶長一二年(一六〇七)一〇月の足立郡箕田内大芦村御検地水帳(堀口家文書)が残るが、破損がはなはだしく詳細は不明。田園簿では田六三五石余・畑四六〇石余、旗本市岡・井上領の相給。

大村
おおむら

[現在地名]真玉町西真玉にしまたま 大村下おおむらしも大村上おおむらかみ

金屋かなや村の東方、真玉川左岸に立地する。地内の真玉しんぎよく寺の建つ地は中世の土豪真玉氏の居館跡とされ、内城うちじよう外城そとじよう貴戸の前きどのまえ(城戸の前)などの地名が残る。居館跡は標高一六メートルの台地上にあり、周囲を幅約一〇メートルの堀で方形に区画するが、現存するのは真玉寺周辺と、北側の一部のみ。北側溝の内側には土塁も残り、本来は堀と土塁を合せて四至を区画していたと考えられる。

大村
おおむら

[現在地名]富村大

目木めき川支流の川中流域に位置し、北は富西谷とみにしだに大倉おおくら分、南はくす村、西は大庭おおば釘貫小川くぎぬきおがわ(現真庭郡湯原町)。正保郷帳に高一一三石余、うち田方五四石・畑方五九石余とある。「作陽誌」では家数三五・人数一五七。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳の改出高三六石余、開高四石余。同年の美作国郷村帳では楠村と一緒にされて富楠大村一五四石余とある。領主の変遷は富仲間とみなかま村に同じ。「作陽誌」に村名の由来がみえ、国司藤宮王は初め中谷なかだに(現鏡野町)に住したが、ある日この地に狩猟に来てそのまま居所とした。


おおくぞむら

[現在地名]比内町大葛

北流して大館盆地に注ぐさい川上流の山間部に位置する。東は南部領鹿角かづの郡と山嶺で接する。天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に、御歩行頭として「大葛村居主 佐藤与兵衛」の名がみえる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六八石とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高一〇二・四六二石。枝郷は享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、森越もりこし一九軒、長部おさべ七軒、大渡だいわたり六軒、夏焼なつやけ五軒、森合もりあい一四軒、大屋おおや一三軒、泥繋どろつなぎ九軒、戸沢とざわ四軒、二又ふたまた一〇軒と、大葛金山の一〇ヵ村がみえる。


おおげむら

[現在地名]笠岡市大

生江浜おえはま村の西にあり、西は用之江もちのえ村。北部の標高五七メートルの丘陵台地に大橋山おおはしやま城跡がある。城主は高田河内守正重と伝え(備中誌)、「水野備中領古城記」によれば、正重は湊川みなとがわで戦死したという。高田氏はその後も当地一帯に勢力があったと思われ、天正年間(一五七三―九二)の成立と考えられる河野分限帳(愛媛県立図書館蔵)にも、伊予河野氏の水軍の一員としてその名がみえる。前掲古城記によれば、天正年中、高田則義のときに陶山氏と戦い、大橋山城は陥落、則義は備後国大門だいもん真明しんみよう(現広島県福山市)で自殺したと伝える。同城は東・北・西の三方に海をめぐらせる要害の地にあったが、近世に入り当村の東方一帯の干潟を開発した吉浜よしはま・生江浜両新涯の造成で当村の海浜はなくなった。


おびえむら

[現在地名]青垣町大稗

中央を佐治さじ川の支流である大稗川が流れ東は小稗こびえ村、西は粟鹿あわが(九六二・三メートル)を越えて朝来あさご柳瀬やなせ(現山東町)。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高二四石余・畠高一八三石余、柴山・林あり、日損・水損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、貞享三年(一六八六)旗本小田切領となる(「寛政重修諸家譜」など)。元禄六年(一六九三)紀伊和歌山藩領、同一二年幕府領となり(鶴牧藩大概帳・「寛政重修諸家譜」など)、元禄郷帳では高二七〇石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。享保一〇年(一七二五)安房北条藩(文政一〇年上総鶴牧藩)領となり、前掲大概帳によると田高三三石余・畑高二三六石余。

大村
おおむら

[現在地名]会津坂下町勝大かつおお

田沢たざわ川左岸にあり、北は大村新田村、南は勝方かちがた村。かつてはだい村と称し、いつの頃からか大村と称したという(新編会津風土記)。「異本塔寺長帳」明応元年(一四九二)条に「会津台村泉養寺建」とみえる。永正一五年(一五一八)五月一八日の蘆名盛滋諸役免許判物(境沢家文書)に「蜷川之庄之内大村并門田之庄之内境沢之村」とみえ、家臣境沢常陸介の知行する大村と境沢さかいざわ(現会津若松市)の諸公事を免除している。

大村
おおむら

[現在地名]吉井町清瀬きよせ

巨瀬こせ川中流右岸に沿い、三角みすみ村の東、末永すえなが村の南に位置する。中世の問注所氏のものとされる館跡がある(寛延記)。本高は二一六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四三〇石・役高四二五石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四二六石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では一九町八反余・開田二反余・畑田六反余・畑五町九反余・居屋敷三反余。旧高旧領取調帳によると高四七二石余。享保五年(一七二〇)耳納みのう山の大山汐では深迫ふかさこ谷が崩壊、土石流が巨瀬川を突破して当村を襲い(吉井町誌)、例年米・大豆六二二俵余を上納するのに対し、わずか九俵余しか上納できず、村中一六〇人は困窮に見舞われ、出稼勧進に出るなどしたという。

大村
おおむら

[現在地名]焼津市駅北えききた二―三丁目・大栄町だいえいちよう一―三丁目・大村一丁目・同三丁目

八楠やぐす村の南に位置し、瀬戸せと川の下流右岸に立地する。東は焼津北村、西と南は大村新田。益津ましづ郡に属する。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高四八〇石余、田中藩領。幕末まで同藩領(「寛文朱印留」、国立史料館本元禄郷帳、正徳二年土岐頼殷領知目録など)。慶安二年(一六四九)の駿河国高付(志太郡誌)では田方一〇三石余・畑方五石余、ほかに大村新田が記され、同年までに大村新田を分村したと考えられる。元禄郷帳では高一〇九石余。

大村
おおむら

[現在地名]松本市大村

浅間あさま温泉の南、女鳥羽めとば川の左岸(東方)の平坦な耕地と東には本郷山続きの山地をもっている。

大村の記録上の初見は嘉暦四年(一三二九)の諏訪大社上社文書で「大村郷」とある。天正検地の時は大村節中せつしよう三六三石六斗七升と高付けされている。節中は現在雪中せつしようと書かれるが、中世末の大村郷からの分村である。「信府統記」によると「大村 御朱印高三百六拾三石六斗七升」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は四八九石七斗五升五合。寛文年間(一六六一―七三)の田は一九町二段七畝一二歩、畑地は一七町三段七畝三歩である。

大村
おおむら

[現在地名]新田町大

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の南西部寄りに位置し、東は嘉祢かね村、南は大根おおね村、西は溜池ためいけ村。村央を東西に足利街道が、北部から北西に向けて観音街道(旧東山道か)が走る。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発の際に大根村から分村した。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)に大根村新田場としてみえ三万五千八〇三坪。元禄郷帳では幕府領、江戸後期の御改革組合村高帳では幕府領と旗本長山領の二給、旧高旧領取調帳では幕府領と前橋藩領。明和二年(一七六五)徳川家康百五十回忌の際には太田宿の加助郷を命ぜられ(「太田宿加助郷村々連印帳」太田宿本陣史料)、翌三年の木崎宿助郷帳(中島文書)では助郷高一一九石六斗。

大村
おおむら

[現在地名]豊前市大村

八屋はちや村の南西に位置し、西境を鈴子すずこ川が北流する。中津街道(宇佐勅使街道・上往還)沿いに集落がある。天正年間(一五七三―九二)山田親実の拠ったとされる大村城跡がある。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ御姫様分と給人分、家数三〇・人数五六(うち百姓一二・名子四・鍛冶一)、牛一〇・馬二。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では高八九五石余、免四ツ一分三厘、春免四分引、竈数七四、家数九五・人数四三〇、牛三七・馬八。

大村
おおむら

[現在地名]緒方町上畑うわはた 大村

栗林くりばやし村の南、奥岳おくだけ川西岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高一石余・畑高三一石余、奥嶽おくだけ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高六一石余。安永七年(一七七八)には奥岳組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。寛政一一年(一七九九)には大村井手開削が竣工した(地方温故集)


おおみすむら

[現在地名]和知町字大簾

広野ひろの村の西南にあり、周囲を山に囲まれた谷に位置する。東西・南北ともに長さが一里もない方形の村で、東・北の村境は標高三〇〇―四〇〇メートル、南・西は五〇〇メートルほどの連山で囲まれる。北東部から南西にかけて対角線状に谷があり、大簾川が流れ耕地と人家が点在する。この川に沿い田辺―京街道が通り、草尾くさお峠に向かう。南は質志しつし(現瑞穂町)、西は戸津川とつがわ(現瑞穂町)

大村
おおむら

[現在地名]八代市大村町

北は海士江あまがえ村に接し、西は水無みずなし川を隔て古閑こが村・田中たなか村と境する村。貞和三年(一三四七)九月一二日の少弐頼尚預ケ状(相良家文書)によると、萩原はぎわら城料所として相良定頼に預け置かれた地に八代庄三ヶ村郷「大村内田地拾参町壱段」とみえる。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方四四四石六斗余・畠方一三三石七斗余。慶安二年(一六四九)の八代知行分高并人畜ノ書付(松井家文書)に現高八六二石四斗余、門数三一・家数一二一・人数一五九、馬二二とある。

大村
おおむら

[現在地名]桜村大

桜川沿いの水田地帯にあり、北は横町よこまち村・松塚まつつか村。古代は「和名抄」記載の大村郷の本郷の地に比定されている。中世には村内に高岡たかおか(現新治村)法雲ほううん寺の復庵宗己が開山した崇源すうげん寺があり、「紹融崇源寺開山復菴宗己入牌法語」(法雲寺文書)に「開山祖師入牌」のこととして「常州大村崇源禅寺開山大光禅師入牌本寺祖堂」とある。


おおつじむら

[現在地名]砺波市大辻・広上町ひろかみちよう

深江ふかえ村の南東にある。もとは中村なかむら川の川跡であった。正保郷帳では高三五石余、田方二町一反余・畑方一反余。慶安二年(一六四九)杉木新すぎのきしん町の町立てに際し同町居屋敷分に当てられる一〇〇石の地の替地として、当村内を開発することとされ(「杉木新町町立願書」杉木新町文書)、同三年に二石が開かれた(明暦元年「杉木新町居屋敷高并替地開高帳」高畠家文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七八石、ほかに同六年の新田高一石があり、免はともに三ツ八歩。

大村
おおむら

[現在地名]園部町城南町じようなんまち

上横田かみよこた村・下横田村・南横田村の南東に位置し、東は園部村と小山おやま村、西と南は東半田ひがしはんだ村。南部は山地で溜池が多く、北部に集落と耕地が展開する。西から北にかけて半田川が流れる。

大村は室町時代、北野きたの社領船井庄の一村であった。「北野社家日記」長享三年(一四八九)五月二六日条に載る舟井庄十一村闕所分目録のなかに「大村内五郎左衛門」とみえる。

大村
おおむら

[現在地名]日置川町大

北は玉伝たまで村、南は小川こがわ村、東は市鹿野いちかの村、西は宇津木うつぎ村と境し、集落は村の中央を湾流する日置川に沿う山麓に散在する。古くは「大宗村」と称し(続風土記)、慶長検地高目録によると「大宗村」は高五七石余、小物成一・二九石。

大村
おおむら

[現在地名]福井市大村町

西袋にしぶくろ村の北にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では徳光とくみつ保に含まれる。正保郷帳には大宅おおや村と記され、貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」以降、大村となる。

大村
おおむら

[現在地名]加西市大村町

岸呂きしろ村の東に位置し、万願寺まんがんじ川支流下里しもさと川中流域の沖積平野に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は西南にしなん村と同じ。


おおつじむら

[現在地名]砥用町大井早おおいそう 大辻

東は越早おつそう村、西は勢井ぜい村、南は緑川中央を境として下福良しもふくら村と接する小村。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一〇六石余、うち田方一三石九斗余・畠方九二石一斗余。


おおつじむら

[現在地名]加古川市野口町野口のぐちちようのぐち

寺家じけ村の北に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方六六石余・畑方四〇石余。天保郷帳では高一四二石余。文久元年(一八六一)の大野組人別書上帳(荒木本家文書)では人数五五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「大村」の意味・わかりやすい解説

大村[市] (おおむら)

長崎県東部,大村湾東岸にある市。1942年市制。人口9万0517(2010)。鎌倉時代から大村氏が支配し,江戸時代は大村藩の城下町として栄えた。藩主の居城玖島(くしま)城は文禄・慶長の役後,湾に突き出た多良岳のすそ野につくられた。明治以後は歩兵46連隊,海軍航空隊などがおかれて軍都として栄え,現在も陸上ならびに海上自衛隊が駐屯している。市域にはJR大村線,国道34号線,九州を横断する長崎自動車道が南北に貫通,一方大村湾に浮かぶ箕(み)島には75年日本最初の海上空港の長崎空港が開港し,西九州の空の玄関口として重要な役割を果たす。かかる高速輸送施設の整備が進むにしたがい,先端技術産業を核とした大村ハイテクパークの工業団地や大村オフィスパークが建設され,さらに航空貨物や宅配便基地など物流拠点も成長している。多良岳に源を発する郡(こおり)川が形成した扇状地には畑が広く残され,ニンジン,イチゴなどの栽培が盛んである。また旧海軍航空厰の跡地には1950年に設立された法務省所管の大村入国管理センター(旧大村収容所)がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大村の言及

【小笠原諸島】より

…伊豆諸島の南方,太平洋上にある聟島列島父島列島母島列島硫黄列島(火山列島),西之島南鳥島沖ノ鳥島の小島を含む島嶼(とうしよ)群。全域が東京都小笠原支庁小笠原村に属し,行政中心は父島の大村で,東京都小笠原支庁がおかれ,母島に出張所がある。面積106.1km2。…

【父島列島】より

…父島と兄島の間の狭い海峡(兄島瀬戸)は小笠原で最もサンゴ礁の発達した地域であるが,そのほか兄島西岸や父島の海岸線のところどころにも造礁サンゴの現生大群落をみることができる。 第2次大戦前には父島の大村と扇浦には集落があり,標高100~200mの山腹緩斜面にはサトウキビ畑などの農地跡,八瀬川下流の谷床面には水田跡がみられる。戦後はアメリカ軍の施政下におかれたが,1968年に返還され,旧島民の復帰も相次いだ。…

※「大村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android