岩室村(読み)いわむろむら

日本歴史地名大系 「岩室村」の解説

岩室村
いわむろむら

[現在地名]甲賀町岩室

野洲やす川左岸に位置。大部分は丘陵で、西の小佐治こさじ村との境に長坂ながさか山があり、南の大原上田おおはらうえだ村から和田わた川が村域を貫流して野洲川に流れ込む。北対岸は市場いちば村・前野まえの(現土山町)、東は大沢おおざわ(現同上)。集落は野洲川沿いの段丘上に立地し、さとなか善福寺ぜんぷくじなどの垣内に分れる。村名は岩室塚穴古墳群によるという。頓宮とんぐう村・前野村・市場村・徳原とくはら村・かにさか村・南土山みなみつちやま(以上現土山町)および当村を岩室郷七ヵ村とよぶ。建武五年(一三三八)四月日の小佐治国氏軍忠状(小佐治文書)に「逆谷道岩室」とみえる。岩室区有の応永二六年(一四一九)四月日の鰐口には「近江州甲賀上郡岩室郷滝樹宮」とある。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]狭山町岩室

池尻いけじり村の南西にあり、東は狭山池に接する。狭山池北西部から西除にしよけ川が流出し、村域北東部を北西に流れる。西部を西高野街道が通り、南は丘陵地に続くがそれ以外はほぼ平坦地。西除川の流出口近くに狭山池の樋役人七人が置かれ、西新にししん町とよばれた(→新町。西に接する和泉国大鳥郡岩室村(現堺市)ともと一村であったともいう。初め岩室村と称したが万治元年(一六五八)いけはら村と改め、寛文一一年(一六七一)もとの村名に戻ったと伝え(「中林家累代日記」中林家文書)、郷村帳類に池ノ原村とも記される。文禄三年(一五九四)一二月二日豊臣秀吉が北条氏規に与えた知行目録(北条家文書)に「いわむろ村」がみえ、村内の一六〇石余が同氏領。慶長一三年(一六〇八)の狭山池改修に伴い一三〇石が土取場となり、北条領は一〇〇石余になったという(北条氏系図「狭山町史」所収ほか)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一〇一石余、狭山藩北条領、ほかに丹南藩領山年貢高二石余。

岩室村
いわむろむら

面積:三六・一五平方キロ

西蒲原郡南西部にあり、北はまき町、南は弥彦やひこ村、東は吉田よしだ町に接し、西は海に面する。西半は多宝たほう(六三三・八メートル)を中心に南の弥彦山へ連なる山脈が南北に走る。東半は川、西にし川、飛落とびち川が北流する低地からなる。矢川と西川の間には竹野町たけのまち用水路が北へ流れている。集落は山脈西側の海に面する間瀬まぜのほかは東半に散在する。信濃川分流などの河川でつくられる低湿地帯であるので「古事記」垂仁天皇条にみえる「和那美の水門」を上和納かみわのうにあてる説もとなえられている。古代・中世には当村一帯が弥彦神領に含まれていたとも伝えられ、石瀬の天神山いしぜのてんじんさん城は蒲原西方の軍事上の要地となっていた。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]玖珠町岩室

帆足ほあし村の東方にあり、府内・日田往還が通る。たから山の北西麓に集落が点在、岩室本村は玖珠川右岸に営まれる。枝郷の相迫あいのさこ青谷あおや(青屋)高橋たかはし仲田ちゆうだ(中田)は、大岩扇おおがんせん山・小岩扇こがんせん山を隔てて散在し、同じく田代たしろは宝山を隔てた遠距離にある。ほかに枝郷の宮下みやのした村・山口やまのくち村・平谷ひらだに村・車谷くるまだに村がある。中世は帆足郷の内としてみえる。慶長七年(一六〇二)の日田郡・玖珠郡預米帳(佐伯藩政史料)に帆足郷岩室村とあり、百姓二介がみえる。正保郷帳に村名がみえ、田高六一六石余・畑高三五一石余で、帆足郷に属し、柴山有・茅山有と記す。元禄郷帳では高七九六石余。同じく宮下村は正保郷帳では田高三一石余・畑高一四石余、茅山有・日損所とあり、元禄郷帳では高一一石余。山口村は正保郷帳では田高一二石余・畑高四石余、柴山有・茅山有とあり、元禄郷帳では高一一石余。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]浦川原村岩室

保倉ほくら川の南、標高約二〇〇メートルの丘陵上に立地する。北は長走ながはしり村、東は熊沢くまざわ村、南は法定寺ほうじようじ村、西は払沢はらいざわ(現中頸城郡三和村)。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「岩もろじ分岩室村 下」とあり、本納一斗六升六合・縄高六石六斗三升九合、家九軒・二七人。当村から山高津やまたかつ村・神田かんだ(現三和村)と続く道が描かれる。「岩もろじ分」は岩室寺分の意で、当村は本来岩室寺村とでもよぶべき寺領村であった。天正一四年(一五八六)一一月三日の樋口元兼安堵状(鞍馬寺文書)に「五十公郷保倉保岩室寺領之事」とみえ、同寺は当村域で栄えたが、越後一揆のときに破却を受け往年の面影を失ったと伝える。慶長三年(一五九八)の堀氏による検地帳(同文書)が残り、「家数之事」として「壱間 岩室寺 壱間 合屋甚六、桜井坊 壱間 合屋道明、岩本坊 壱間 合屋彦兵衛、寿光坊 壱間 合屋三郎左衛門、蓮寿坊 壱間 七郎四郎 合六間、右ノ内五間ハ寺也 男頭五人」とあり、五ヵ寺と五人の百姓で岩室村の基層を構成していたと考えられる。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]岩室村岩室

まつたけの東麓にあり、東を川が北へ流れる。北は樋曾ひそ村、東は橋本はしもと村に接する。北国街道浜通が南北に通る。慶長三年(一五九八)の堀氏による検地帳(高島家文書)によれば田高一三九石余・一〇町六反大二五歩余、畑屋敷高二七石四斗余・四町七反一一四歩。計一六六石四斗余のうち五一石一斗余が荒地で矢川沿いの低地に集中している。屋敷は三三軒で敷地は細長いものが多い。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]鳥取市岩吉いわよし五反田町ごたんだちよう

安長やすなが村の西方平野部にある。安政四年(一八五七)から安長・湖山こやま賀露かろ南隈みなみがくま四ヵ村により開作されたという(藩史)。同五年の村々生高竈数取調帳に村名がみえ、竈数一七とあるが生高の記載はない。本免は五ツ八分。旧高旧領取調帳では高二八三石余。文久三年(一八六三)の組合帳(県立博物館蔵)では家数一九。村名は集落東端に鎮座する吉山よしやま村・足山たりやま村の産土神岩室大明神(現伊和神社)にちなむ。明和六年(一七六九)の高草郡神社改帳(同館蔵)では岩室大明神は吉山村に所在とあるから、少なくとも集落周辺はもと吉山村地内であったと考えられる。明治一四年(一八八一)吉山村と合併、岩吉村となった。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]豊岡村岩室

敷地しきじ川中流左岸の山稜上に位置し、南は家田いえた村、大久保おおくぼ(現森町)。もと敷地村の枝郷で、慶長九年(一六〇四)に検地が行われたとされる(寛文八年「山論訴状」佐野家文書)。正保郷帳によると田方三二石余・畑方五石余、観音領二石。元禄郷帳では高五一石余。江戸時代の領主の変遷は家田村に同じ。天保七年(一八三六)の家数一二(「永安寺賄帳」浅岡家文書)。寛文八年(一六六八)一宮(現森町小国神社)領の大久保村ほか三ヵ村との間に境論が起こり、幕府評定所から裁許が出された(「岩室村訴状」佐野家文書など)。「遠淡海地志」は産物として岩しば・岩千鳥・岩多葉粉・岩ひも・松葉蘭・風蘭・せっこくをあげる。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]白沢村岩室

尾合おあい村の東、片品かたしな川右岸の河岸段丘上に立地。片品川対岸は勢多せた輪組わくみ(現利根村)。東方は山で限られていたため交通不便で、根利ねり(現同上)方面へは輪組村から青木あおき(現同上)を経ての道であった。寛文郷帳によると田方一石余・畑方八一石余。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高三七五石余。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控では高一一八石余。宝永二年(一七〇五)および享保四年(一七一九)の年貢割付状(「白沢村誌」所収)によると「当猪喰引」がある。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]天理市岩室町

稲葉いなば村東方、なかツ道西の平地集落。永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録に「一段 岩(室)字シハモリ 本地子七斗 在大和国山辺郡十条三里十八坪 自東六段目」とあるのは当村に該当。「国民郷士記」に「岩室河田太左衛門」の名がみえる。

文禄四年(一五九五)の検地による村高七〇四・九八石。近世初期から旗本山口氏(直友系)領二五〇・四五石と山口勘兵衛組領四五四・五三石の相給。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]堺市岩室・三原台みはらだい三―四丁・晴美台はるみだい一―四丁・槙塚台まきづかだい二―四丁

きた村の南に続く村で、東の河泉国境を挟んで河内国丹南郡岩室村(現南河内郡狭山町)と接する。大鳥郡に属し、陶器とうき庄一〇ヵ村の一。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図にはみえず、寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると高二二石余。元文年中改和泉国四郡郷村高帳で六一石余。旧高旧領取調帳では七八石余。領主の変遷は北村に同じ。

岩室村
いわむろむら

[現在地名]大宇陀町大字岩室

宇陀川西方、小付こうづけ村南方に所在。宝徳四年(一四五二)の宥覚写「遍口鈔」巻一跋に「本云 永享六年甲寅八月六日於和州宇陀郡岩室宗福寺南坊伝受 同八日之写 律師厳海」とある。中世、興福寺大乗院関係の岩室庄(三箇院家抄)の所在地と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報