山名持豊(読み)ヤマナモチトヨ

デジタル大辞泉 「山名持豊」の意味・読み・例文・類語

やまな‐もちとよ【山名持豊】

[1404~1473]室町中期の武将。法名、宗全。但馬たじま備後びんごなどの守護職嘉吉の乱赤松満祐を討った功により播磨はりま守護職も得た。のち、細川勝元対立して応仁の乱を起こしたが、乱の半ばに病没。

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精選版 日本国語大辞典 「山名持豊」の意味・読み・例文・類語

やまな‐もちとよ【山名持豊】

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改訂新版 世界大百科事典 「山名持豊」の意味・わかりやすい解説

山名持豊 (やまなもちとよ)
生没年:1404-73(応永11-文明5)

室町時代の武将。時煕(ときひろ)(常煕(じようき))の子。法名宗全。将軍足利義持の偏諱(へんき)を与えられる。長兄満時は侍所頭人(とうにん)も務めたが若くして没し,次兄持煕も将軍義教に疎まれたため,嫡子となり,1433年(永享5)但馬,備後,安芸,伊賀の守護職を譲られ,37年持煕を討って惣領権を確立する。40年には,1402年(応永9)に寺納年貢1000石で守護請した高野山領備後大田荘の年々の未進累積額が2万0600石余に達したことを理由に,代官犬橋氏を改替するよう高野山側から訴えられている。嘉吉の乱では,赤松満祐が将軍義教を弑逆(しいぎやく)して播磨に帰国すると,討伐軍の主力となって但馬口から攻め込み,城(木)山城を攻略して滅亡させる。乱後に播磨守護職を与えられ,備前,美作も一族の教之,教清が得た。43年(嘉吉3)には嘉吉の乱で赤松邸で将軍義教とともに横死した前石見守護山名煕貴(教清の養子)の娘を猶子として大内持世の養嗣子教弘に嫁せしめ,大内氏との提携を深め,幕閣における地位と権勢をいっそう高めた。50年(宝徳2)家督を教豊に譲るが,宗全と号し,なお権勢を保持した。こうしたなかで細川氏との対立が進行し,各守護大名家内部の抗争に将軍義政の後継者と定められた義視(よしみ)を庇護する細川勝元と,義政夫人日野富子から義尚(よしひさ)を託された宗全の抗争が複雑に絡み合って,応仁・文明の乱が始まる。細川氏と敵対関係にあり,山名氏とは姻戚関係にあった大内氏は大軍を上洛させて宗全を援助した。次子是豊が東軍細川氏方に属していたため,分国備後などでは戦乱が続き動揺したが,山内氏らの活躍によってしだいに安定した。1445年(文安2)南禅寺に真乗院,またのち同院内に遠碧軒を建立して外護した。西陣の邸内に没した宗全は,大蔭西堂によって荼毘(だび)に付され,遠碧軒に埋葬された。諡号(しごう)は遠碧院殿最高崇峰。
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朝日日本歴史人物事典 「山名持豊」の解説

山名持豊

没年:文明5.3.18(1473.4.15)
生年:応永11(1404)
室町時代の武将。時煕の次子,持煕の弟。左衛門佐,弾正少弼,右衛門督。のち出家して法名宗峰,宗全。兄持煕は永享3(1431)年5月,室町幕府将軍足利義教に疎んぜられ廃嫡,翌々年8月父時煕から家督を譲られ,但馬,備後,安芸,伊賀4カ国の守護に就任した。同12年6月以前に侍所頭人と山城守護を兼任,幕閣では細川・畠山両氏に次ぐ地位を占めるに至った。嘉吉1(1441)年6月,赤松満祐が将軍義教を弑殺し(嘉吉の変)播磨に籠城すると討手の総大将に指名されたが,部下の洛中掠奪を「家人疲労」と称して黙認し,管領の譴責を受けた。同年9月,持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし,その功により満祐の旧分国播磨,備前,美作を与えられた。ここに至り山名氏の領国は但馬,因幡,伯耆,石見,播磨,美作,備前,備後,安芸の9カ国に膨張し,細川氏の8分国を凌ぐ最大の国持ち大名となった。持豊は拡大した分国を維持するため,娘を細川勝元に嫁がせるなど慎重に保全策を巡らした。 宝徳2(1450)年,入道して宗全と号す。享徳3(1454)年赤松遺族則尚を討とうとして将軍足利義政と対立,同年11月には隠居して家督を嫡子教豊に譲ったが,翌年には則尚を備前に討ち滅ぼしている。長禄2(1458)年,赤松政則が神璽奪回の功により赦免されるや婿細川勝元との対立は決定的となり,文正の政変(1466)で伊勢貞親らが失脚すると畠山義就を召し出して勝元の支持する畠山政長を追い落とし,ここに応仁の大乱が勃発した。将軍家でも跡目足利義視を嫌う日野富子が実子足利義尚の家督を期待して持豊に款を通じた。持豊は大内政弘ら西軍諸大名を糾合して勝元に挑戦するが,禁裏と幕府を擁する東軍に対し名分上劣位にあったうえ,将軍足利義政との不和が決定的となった義視を迎えて将軍に擬するなど,精神的劣勢を余儀なくされた。また分国も赤松政則に播磨,備前,美作3国の奪回を許すありさまで,晩年は和平工作に傾いた。公家の主張する「例」に対して「時」の優位を説き,下剋上を正当化したことは『塵塚物語』にみえる有名なエピソードである。

(今谷明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山名持豊」の意味・わかりやすい解説

山名持豊
やまなもちとよ
(1404―1473)

室町中期の武将。守護大名。右衛門佐(うえもんのすけ)、弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)。法号の宗全(そうぜん)の名で知られる。時煕(ときひろ)の子。1433年(永享5)父の隠退により家督を継ぎ、但馬(たじま)、備後(びんご)、安芸(あき)、伊賀の守護を兼ね、一時侍所別当(さむらいどころべっとう)となる。41年(嘉吉1)将軍義教(よしのり)を殺した赤松満祐(みつすけ)を播磨城(木)山(はりまきのやま)城(兵庫県たつの市)に攻め滅ぼし、功により播磨守護を兼ね、一族教之(のりゆき)は備前(びぜん)、教清(のりきよ)は美作(みまさか)の各守護となる。これにより山名氏は赤松氏の分国を全部あわせて、明徳(めいとく)の乱以前の勢力を回復した。50年(宝徳2)家督を子教豊(のりとよ)に譲り、剃髪(ていはつ)して宗峰(そうほう)、ついで宗全と号した。女(むすめ)を細川勝元(ほそかわかつもと)の妻とし、勝元と組んで畠山(はたけやま)氏の内紛に介入したが、勝元が赤松氏再興を助けたのを怒って対立する。勝元が伊勢貞親(いせさだちか)と組んで畠山政長(まさなが)を支持すると宗全は同義就(よしなり)を助け、斯波(しば)家の内紛にも勝元らが斯波義敏(よしとし)を支持したのに抗して同義廉(よしかど)を助けた。さらに将軍家の継嗣(けいし)問題についても、日野富子(とみこ)の産んだ足利義尚(よしひさ)を助けて、将軍義政の弟義視(よしみ)を支持する勝元らに対抗した。その結果ついに67年(応仁1)山名・細川両将とも与党を京都に集めて戦端を開き、応仁(おうにん)の乱となった。宗全を主将とする西軍には大内政弘(おおうちまさひろ)さらに足利義視も加わったが、宗全の子の山城(やましろ)守護是豊(これとよ)は東軍に参加しており、山名一族も内紛を露呈した。この大乱のさなかに宗全は文明(ぶんめい)5年3月19日西陣の邸内で病没した。平生犬追物(いぬおうもの)を得意とし、勇猛な武将で、赤入道と綽名(あだな)された。

[小川 信]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山名持豊」の意味・わかりやすい解説

山名持豊
やまなもちとよ

[生]応永11(1404).5.19.
[没]文明5(1473).3.18. 京都
室町時代中期の武将。時煕の嫡子。母は山名師義の娘。幼名,小次郎。法名は宗全,また宗峯。号は遠碧院。弾正少弼,右衛門佐,右衛門督などを歴任。応永 20 (1413) 年正月元服し,将軍足利義持から偏諱を与えられ持豊と改名。永享5 (33) 年父の跡を継いで但馬,備後,安芸,因幡の守護となり,嘉吉1 (41) 年の嘉吉の乱には,幕府軍の中心として播磨に攻め入り,9月赤松満祐,義雅を自殺させ,播磨守護を兼帯した。文安1 (44) ~2年赤松満政を討伐し,宝徳2 (50) 年4月南禅寺に塔頭 (たっちゅう) 真乗院を創建した。康正1 (55) 年5月赤松則尚を播磨に討ち,応仁1 (67) 年斯波,畠山の内訌が激化すると畠山義就,斯波義廉に味方して,畠山政長,斯波義敏を応援した細川勝元と対立し,同年1月諸将を集めて足利義政に迫り,勝元の政長支援をやめさせ,また勝元が足利義視を奉じて挙兵するのを恐れて義視を京都に移すなど策略をめぐらした。しかし同年5月持豊,勝元はそれぞれの与党を招集し,持豊は西軍の,勝元は東軍の総帥となって戦い,応仁,文明の大乱へと突入していった。文明1 (69) 年義政と義視とが不和になり,義視を迎えたが,持豊は同5年陣中で没した。 (→応仁の乱 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山名持豊」の解説

山名持豊 やまな-もちとよ

1404-1473 室町時代の武将。
応永11年生まれ。山名時煕(ときひろ)の子。永享5年家督,7年惣領職をつぐ。嘉吉(かきつ)の乱で播磨(はりま)(兵庫県)白旗城に赤松満祐(みつすけ)を討ち,明徳の乱でうしなった領地を回復し,一族で9ヵ国を領する。管領(かんれい)斯波(しば)・畠山家の相続問題に介入。足利将軍家後継問題では義政(よしまさ)の妻日野富子にたよられ義尚(よしひさ)を擁立,義視(よしみ)を支持する細川勝元と対立して応仁の乱となり,西軍の陣中で文明5年3月18日死去。70歳。法名は宗全。
【格言など】例という文字をば,向後は時という文字にかえて御心えあるべし(「塵塚物語」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山名持豊」の解説

山名持豊
やまなもちとよ

1404~73.3.18

室町時代の武将。但馬・備後などを領有する有力守護大名。入道して宗全。応仁・文明の乱の西軍の主将。1441年(嘉吉元)嘉吉の乱では赤松氏討伐の主力となり,乱後播磨など赤松氏旧領を獲得。このため山名氏は最有力の守護大名細川氏に匹敵する勢力となった。以後赤松氏の再興を警戒したが,58年(長禄2)細川勝元は同氏を再興させて,持豊に敵対する姿勢を示した。両者の対立に斯波氏・畠山氏などの内紛がからみ,持豊・勝元をそれぞれの主将とする二大勢力が成立,67年(応仁元)応仁・文明の乱が始まった。73年(文明5)大乱の終結をみることなく京都の陣中で死没。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山名持豊」の解説

山名持豊
やまなもちとよ

1404〜73
室町中期の武将
法名宗全。但馬・備後・因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) の守護。1441年嘉吉の乱で赤松氏を討ち,その功で播磨・石見 (いわみ) を合わせ,一族の教清は美作 (みまさか) ,教之は備前を得て,明徳の乱(1391)で失った勢威を再興した。赤松氏再興のことで細川勝元と対立し,'67年応仁の乱には足利義尚 (よしひさ) を擁立,西軍の総帥となったが,'73年陣中に没した。

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百科事典マイペディア 「山名持豊」の意味・わかりやすい解説

山名持豊【やまなもちとよ】

山名宗全

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367日誕生日大事典 「山名持豊」の解説

山名持豊 (やまなもちとよ)

生年月日:1404年5月29日
室町時代の武将
1473年没

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世界大百科事典(旧版)内の山名持豊の言及

【応仁・文明の乱】より

…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】

[家督争い]
 乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…

【和田山[町]】より

…円山(まるやま)川上流に位置し,周囲は山に囲まれているが,山陰道と生野街道の分岐点として早くから開け,城ノ山古墳や池田古墳(前方後円墳)などがある。15世紀半ばには山名持豊(宗全)が,南部の竹田にある古城山(354m)に竹田城(虎臥城)を築いた。竹田城は1577年豊臣秀吉に攻められて落城したが,中世の代表的な山城といわれ,遺構は国の史跡に指定されている。…

※「山名持豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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