柏木村(読み)かしわぎむら

日本歴史地名大系 「柏木村」の解説

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]小諸市柏木

浅間山(二五四二メートル)南麓斜面にあり、小諸城下加増かます村・平原ひらはら村・八満はちまん村・塩野しおの(現北佐久郡御代田町塩野)の村々に接する。本郷のほか、北国脇往還に面した四ッ谷よつや蛇堀じやぼり川沿いの石峠いしとうげ及び藤塚ふじづかの枝郷があり、両枝郷北方のみなみはら一帯は近世近隣二〇ヵ村の入会地で、浅間山の外輪山たる剣峰けんがみね(二二八八メートル)前掛まえかけ(二四九三メートル)に続く。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]酒々井町柏木

上岩橋かみいわはし村の西、印旛沼東岸に位置。沼を望む中央台地上を中川なかがわ村で成田道から分岐した通称宗吾そうご道が通り、沼沿いにも道がある。江戸時代には沼の水運を利用した柏木河岸も設けられた。「寛文朱印留」に栢木村とみえ、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領であったが、上知村高書抜(堀田家文書)によれば、天保一四年(一八四三)に印旛沼の干拓と幕府の上知令により数ヵ月間幕府領となった。元禄郷帳では高一二二石余。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]万場町柏木

東御荷鉾ひがしみかぼ(一二四六メートル)の南、村央を神流かんな川が東流し、東は坂原さかはら村・緑野みどの三波川さんばがわ(現鬼石町)、北は多胡たご上日野かみひの(現藤岡市)、南東は武蔵国秩父ちちぶ太田部おおたぶ(現埼玉県秩父郡吉田町)と接する。神流川左岸を十石じつこく街道が通る。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高三四石余はすべて畑方。元禄七年(一六九四)に検地が行われ、高一一八石余・反別五一町八反一畝余で耕地はすべて畑方、紙舟代・絹売出しのほか漆三六〇目などを納める(「山中領村鏡帳」黒沢文書)漆年貢は天保一四年(一八四三)の年貢漆書上帳(山田文書)でも一六匁を納めている。慶応二年(一八六六)の菜種作高等書上(同文書)には菜種作高九斗・種油買入高一石三斗余・生糸出高九六〇目とある。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]八日市市柏木町

上平木かみひらぎ村の南東にある。戦国期のものと推定される馬足子交名(今堀日吉神社文書)に「かしわき」の三郎太郎らの名がみえる。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「かしわき村」三〇六石余がみえる。寛永石高帳では高三四五石余、彦根藩領。当村は蒲生がもう野上に位置するが、明治初年までにほぼ全域が水田化され、こま井の流末を農業用水としていた。東部の川口かわぐちが東方三津屋みつや村・野口のぐち村からの用水路の起点で、ここから村内各所に配水された。西海道にしかいと火打海道ひうちかいと市海道いちかいと源太郎海道げんたろうかいとなど海道の付く字が多数分布しており、これは垣内の転訛とみられる。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]板柳町柏木

東は柏木堰を境に牡丹森ぼたんもり村、西はおき(現鶴田町)、南は狐森きつねもり村、北は柏木堰を境に横萢よこやち(現鶴田町)に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に本柏木村一〇六・六七石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳は四三六・八石、同四年の検地帳は田方七五町八反八畝二六歩、畑方四〇町九反六畝一六歩、田畑屋敷合せて一一六町八反五畝一二歩、村高九三二・五八六石、百姓一一七人、漆木三本と記す。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]新宿区北新宿きたしんじゆく一―四丁目・西新宿にししんじゆく六―八丁目

角筈つのはず村・柏木淀橋かしわぎよどばし町の北に位置し、東は百人組同心給地、西は中野なかの(現中野区)。南部をほぼ東西に青梅おうめ街道が通り、西の端を神田上水が北へ流れる。青梅街道沿いには柏木成子かしわぎなるこ町・同淀橋町の町場が形成され、のち町奉行・代官両支配に移っている。北条氏所領役帳には綾部惣四郎拘として「柏木角筈共ニ」一二貫文とみえる。天正一五年(一五八七)には「柏木・角筈」の小代官・百姓中に宛てて北条氏の軍役催促がなされており(同年七月晦日「北条家朱印状写」武州文書)、当地と角筈が一帯として掌握されていたことがわかる。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]粟野町柏木

粕尾かすお川に沿い、北・東は口粟野くちあわの村、西は安蘇あそ郡下粕尾村。寛永一四年(一六三七)久野くの村から分れて成立したという(「記録」伊谷野喜久次文書)。慶安郷帳に村名がみえ、田二六石余・畑一八石余、壬生藩領。寛文二年(一六六二)には検地出目高一六石余が加わり村高六一石余となった(伊谷野喜久次文書)。元禄八年(一六九五)幕府領となり、享保二年(一七一七)旗本土岐領となり幕末に至る(「年貢割付状」神山庄司文書)。元文六年(一七四一)の高反別人別宗門五人組馬数改帳(同文書)によれば家数一〇・人数五〇。一〇軒のうち一軒が百姓で、残り九軒はすべて前地となっており、柏木の一人百姓と言い伝えられ、神山氏一人で村を構成した。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]桜川村柏木

柏木古渡かしわぎふつと村の東南に位置し、台地上にある。江戸時代は天領で(各村旧高簿)、宝暦二年(一七五二)三月の相渡申一札之事(永長家文書)に家数八九とある。同年一二月に古渡村と溜池をめぐる争いがあり、柏木村古渡村溜池再論済口為取替証文之事(同文書)によれば「柏木村之者共申候悪水溝新規ニ水門立候者柏木村田地水腐仕候由申之古渡村之者共申候用水溝猥ニ切明候者古渡村溜下田地旱損仕候由申之出入ニ罷成柏木村より御公訴御願申上候ニ付立会絵図仕立可罷出御差紙被仰付双方立会絵図出来仕御評定所可罷出処取扱之趣左ニ書出申候」と、内済している。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]かつらぎ町柏木

大藪おおやぶ村の北、葛城(和泉)山脈の南斜面に位置する。永仁五年(一二九七)五月一四日の僧空房処分状(又続宝簡集)に「柏木四郎行事垣内」とみえ、高野山領官省符かんしようふ庄下方に属した。室町時代初期頃の高野政所下方田畠在家帳目録(同集)には「東中西柏木」とあって、この頃三村に分れていたことがわかる。同じ頃の官省符下方畠在家帳目安(同集)によると、東柏木ひがしかしわぎ村は畠一丁四反三三〇歩(分麦二・一八七三石)、在家一二宇(下地一丁一反三一〇歩)、田一反一五〇歩で、中柏木村は畠二丁一四五歩(分麦二・六三二三石)、在家一四宇(下地一丁三反二九〇歩)、田八〇歩であった。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]川上村大字柏木

吉野川左岸、上多古こうだこ村上流に位置する。山上ヶ岳や大普賢だいふげん岳への登山口にあたる。川上郷のうち。慶長郷帳では村高五〇・二四石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は七七・六七五石となった。「吉野郡川上郷旧記」(井光の伊藤家文書)に「柏木村ハ宇多天皇法王となり給ひ、諸国御廻章之節、此処へ参り御所建立被成候ニ付、東西十二間、南北廿四間之屋敷ヲ築、かたわら大御堂ヲ建、既二十二薬師降り給ふて此神ヲ鎮守あらせられ、八年(を)過て、今三ノ公と云山へ登られ、此処ニ旧跡あり。又薬師如来、茶之実落とされて、いつれ之地にても茶山ニ開き置バ、おのづからハ茶山ニなると云ふ也、大(御)堂ニハ釈迦也」と現地の伝承を記す。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]能都町柏木

太田原おおだわら村の南、柏木川水源の小盆地に位置する。同川は下代げしろ村で山田やまだ川に合流(能登志徴)正保郷帳に村名がみえ高一七一石余、田方七町三反余・畑方四町一反余、新田高三九石余。承応三年(一六五四)の村御印の高二一〇石余、免三ツ一歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二一九石、免三ツ七歩、小物成は山役九〇匁・炭竈役三九匁(三箇国高物成帳)

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]奈良市柏木町

秋篠あきしの川と佐保川の中間、五条ごじよう村東方にある。「多聞院日記」慶長四年(一五九九)九月七日条に「大安寺・柏木ヘ毛見ニ参候」とあり、「惣国風土記」(寛文一〇年書写本)に「柏木郷 土地中上肥民用繁多松柏多時々出白木柴胡等郷西有杜、号柏木杜也」と記す。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]浜益郡浜益村大字柏木村

明治一五年(一八八二)から同三五年までの浜益郡の村。明治一五年柏木村と清水しみず村が合併して成立(「事業報告」第一編)。成立以降漁場雇い夫の中から永住して農業に従事する者が現れ、同一九年の植民地の貸付以来土地の貸下げをうけて定住する農民が増えてきた(状況報文)。同二〇年の現住人員は五四〇人(道戸口表)

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]雄物川町柏木

北流する雄物川東岸、平鹿の平野部を横断して由利に抜ける街道の南に位置する。「雪の出羽路」に「柏木の多かりし処なりしにや」とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二二五石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」によれば、元和二年(一六一六)沼館ぬまだて村の四郎右衛門が開田したという。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高三八二石余で、うち蔵分一一九石余、給分二六二石余。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]大和郡山市柏木町

佐保川西方、額田部ぬかたべ村東方に位置。環濠集落。治承元年(一一七七)一〇月五日の大中臣仲子田地売券(額田宗次氏文書)端裏書に「カシハキノ券」とあり、文書本文に「合弐段者 在平群郡額田東郷玖条参里肆坪内」とある。「和州旧跡幽考」は「柏木杜かしわぎのもりは額安寺の坤十町ばかり」と記す。

柏木村
かしわぎむら

[現在地名]浜益郡浜益村大字柏木

明治初年(明治二年八月―同六年)から明治一五年(一八八二)までの浜益郡の村。川下かわしも村の東にあたり、浜益川にまたがって郡内で一番平地が多かった(状況報文)。「石狩国地誌提要」によると戸数一四(士一・庶一三、すべて永住)・人口三六(士男二・庶男一六、士女二・庶女一六)、畑一〇町四反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報