神田上水
かんだじょうすい
江戸・東京の上水道。井の頭上水(いのかしらじょうすい)ともいう。開設後、1900年(明治33)まで上水道として使われ、玉川上水(たまがわじょうすい)と並び江戸・東京の二大水道といわれた。その地の人々の都市生活を支えるのに大きな役割を果たしてきた。水源は武蔵野(むさしの)の井の頭池(東京都三鷹(みたか)市)で、途中善福寺(ぜんぷくじ)池から流れ出る善福寺川、妙正寺(みょうしょうじ)池から流れ出る妙正寺川の2流をあわせ、淀橋(よどばし)で玉川上水の助水を入れた。開設は徳川家康の命を受けた大久保藤五郎が1590年(天正18)に家康の関東入国に先だって開いたとも、また内田六次郎が慶長(けいちょう)(1596~1615)ころに開いたとも伝えられている。大久保藤五郎は上水開設後、主水の名を与えられ、江戸城御用の菓子司となったが、内田六次郎は神田上水水元役となり、この上水の経営にあたった。以後内田家は、神田上水水元役を受け継いだが、1770年(明和7)茂十郎の代に退役を命じられ、幕府が直接経営することになった。神田上水は井の頭池より目白(めじろ)下大洗堰(ぜき)まで5里(19.6キロメートル)足らず、さらに水道橋まで開渠(かいきょ)であるが、神田川を掛樋(かけひ)で渡した以遠の江戸城郭内や武家方・町方への配水は暗渠(あんきょ)になっている。水道料は水銀(みずぎん)とよばれ、武家方からは石高割(こくだかわり)で、町方からは屋敷間口(まぐち)割で徴収した。水元役内田家は、1732年(享保17)から同家で水銀を徴収していたと称しているが、同家の水元役退役後は江戸城御金蔵(おかねぐら)納めになった。明治維新以後は東京府、民部省、工部省、大蔵省と、その所管をかえたが、さらにふたたび東京府を経て東京市へ移った。近代水道の創設に伴って1901年(明治34)廃止。
[伊藤好一]
『堀越正雄著『日本の上水』(1970・新人物往来社)』
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神田上水【かんだじょうすい】
江戸開府(1590年)に際し徳川家康の命により大久保忠行が開設したとも,慶長年中(1596年―1615年)ころに内田六次郎(のちに水元役)が開いたとも伝える日本最初の上水道。井の頭池を水源とし,井の頭上水ともいう。目白台,小日向台のすそを経て,現在の水道橋付近(ここまでは開渠)で神田川を大樋(とい)で渡り,江戸城郭内に入り,以降暗渠で神田,日本橋,京橋方面に給水した。水道料は水銀と称し,武家方からは石高割,町方からは間口割で徴集した。→玉川上水
→関連項目井の頭公園|神田川|上水道
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神田上水
かんだじょうすい
徳川家康が江戸開府時飲用水を引くため開削した上水道。日本最古の上水で,天正 18 (1590) 年大久保忠行によって開設された。井の頭池,善福寺池,妙正寺池の湧水を水源とする神田川水系の水を大洗堰 (文京区関口) によりせき止め,素掘りで小石川後楽園を経てお茶の水堀の上を木樋で渡し,神田,日本橋方面へ供給。承応3 (1654) 年に玉川上水が完成するまで江戸の水道の主役であった。 1898年淀橋浄水場開設に伴い,1901年一般への給水を停止した。
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かんだ‐じょうすい ‥ジャウスイ【神田上水】
江戸の三大上水の一つ。徳川家康の命により、慶長年間(一五九六‐一六一五)に完成。井の頭池を源とし、小石川関口を経て万年樋(とい)で神田川を渡り、神田、日本橋、京橋に飲料水を給した。明治三三年(一九〇〇)廃止。関口より上流部は、現在、神田川の一部。小石川上水。
※財政経済史料‐四・土水・
治水・上水由来・承応二年(1653)四月「井の頭の池水を引は神田上水なり」
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デジタル大辞泉
「神田上水」の意味・読み・例文・類語
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かんだじょうすい【神田上水】
江戸の上水道。井の頭上水ともいった。玉川上水とともに江戸の二大水道として,江戸の武家・寺社・町方の生活を支えるのに大きな役割を果たした。水源は武蔵野の井の頭池で,途中善福寺池から流れ出る善福寺川,妙正寺池から流れ出る妙正寺川の2流を合わせ,淀橋で玉川上水の助水を入れた。井の頭池から江戸に入る目白下大洗堰まで5里足らず,さらに関口水道町,小日向水道町,金杉水道町の3町を通り水道橋に至る。ここまでが開渠で水元と呼ばれる。
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世界大百科事典内の神田上水の言及
【神田川】より
…近世には水質も良く,水量も確保できたから,現在の文京区関口1丁目あたりで取水のうえ,文京区・千代田区の一部へ配水されていた。そのため神田川は長い間,取水地点より上流部を神田上水,JR飯田橋駅付近までを江戸川,下流部を神田川として区別していた。下流部のうちJR御茶ノ水駅付近に見られる切割の河道は,江戸幕府の手による人工河川である。…
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