杉山村(読み)すぎやまむら

日本歴史地名大系 「杉山村」の解説

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]新城市杉山

新城町の西北部、石田いしだ村の北部を占める。村域南部を伊那街道が通り、この周辺は町並を形成したので、石田村の北部と合わせて寛文三年(一六六三)間之町あいのまち村として分村。また村内を北西へ作手つくで(現南設楽郡作手村)に至る道が通ずる。慶長九年(一六〇四)検地帳では、田三〇町二反・三七三石余、畑・屋敷(四五筆)二二町五反余・二六五石余のほかに荒田畑一一町一反余に及ぶ大村であるが、後に東西に分れた。近世を通じて新城藩領。元禄八年(一六九五)の書上(杉山区有)では東杉山村は田一六町四反余・畑一八町五反余、高四〇一石で、戸数四六、人口二一一、牛馬四六匹。西杉山村は、田一五町七反余・畑一五町六反余、高三七一石、戸数三六、人口一五九、牛馬三六匹であった。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]豊橋市杉山町

大津おおつ村の西に続き、元来三河湾内の田原たはら湾に面する村であった。しかし慶長(一五九六―一六一五)天津あまづ新田が開発されたのをはじめ、万治三年(一六六〇)森崎もりさき新田、寛文六年(一六六六)石塚いしづか新田、延宝(一六七三―八一)以降神吉かみよし新田などが開発されて、内陸部の村に変貌した。「神鳳鈔」に内宮領としてみえる杉山御園、皇太神宮年中行事(神宮文庫蔵)建久三年(一一九二)七月四日の項にみえる杉山御厨の地に比定されている。

永徳四年(一三八四)の道賢譲状(米良文書)によると、寛宝坊分の檀那として「三河大原一族野依一門同杉山一門」とあり、熊野那智大社の檀那の存在が知られる。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]西会津町奥川おくがわ元島もとしま

滝坂たきざか村の北西方、阿賀川右岸に位置し、耶麻郡吉田組に属した。椙山とも記す。東は杉木すぎのき峠を越えて向原むかいはら村、西は楢木ならのき峠を越えて越後国蒲原かんばら馬取まどり(現新潟県鹿瀬町)、阿賀川を挟んで南西は河沼郡徳沢とくさわ村。蒲原郡鹿瀬かのせ(現鹿瀬町)から阿賀川右岸を東進し、馬取村―楢木峠―当村―向原村と経由して山三郷やまさんごうを横断、会津北方きたかた方面に向かう越後街道の脇道の一、奥川通が東西に通る。本村集落は奥川通に沿う山間に形成され、本村の南方の阿賀川沿い、奥川合流地点に川口かわぐち集落がある。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]下部町杉山

大炊平おいだいら村・岩欠いわかけ村の東、毛無けなし山地の北麓山地に立地し、集落は栃代とじろ川最上流部の河岸段丘上と山腹斜面に分れて散在する。慶長古高帳に杉山とみえ高一二石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高六〇石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数三七・人数一六八、馬四。本村は家数六、ほかに枝郷の和那場わなば(和名場)と本村を隔てること五〇町の栃代があった。和那場の池はかつてはあまごい淵と称し、広大な池で罠を掛けて水鳥をとったという。文化頃まで村民の飲料水であった(甲斐国志)

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]市貝町杉山

田野辺たのべ村の北西に位置し、村内で小貝こかい川と続谷つづきや川が合流する。南は文谷ふみや村。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に杉山之内四五一石六斗とあるのは当地か。元和六年(一六二〇)の紀州高野山清浄院宛の那須藩主那須資重書状(那須譜見聞録)に村名がみえることから、同藩領であったと思われる。慶安郷帳では田四四一石余・畑三〇〇石余(ただし都合高は七七一石余)、幕府領。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]嵐山町杉山

志賀しか村の北、市野いちの川左岸に位置し、北は越畑おつぱた村。中世には鎌倉街道上道が通り、戦国時代の杉山城跡がある。慶長二年(一五九七)の御縄打武蔵国比企郡杉山村(金子家文書)によると反別は田一七町余・畑一四町二反余、田畑を一町以上所持する者が一一名おり、彼らが全耕地を押え、他の一三名は分付百姓であった。田園簿では田高一四四石余・畑高四九石余、旗本森川領。同領のまま幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。元文五年(一七四〇)の田畑勘定帳(初雁家文書)をみると、高持百姓数は七三名と増加、所持高の飛びぬけて大きい百姓は姿を消し、中位の百姓が大部分を占める階層構成となっている。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]会津坂下町束松たばねまつ

西は束松峠になる山地に接する山間にあり、東は洲走すばしり村、北は西羽賀にしはが(現高郷村)、南は天屋てんや村。村名はかつて山崩れがあり、杉の大木が多数埋れた跡に田地を開いたので名付けたといい、「今地底に古木往々存す」と記される(新編会津風土記)。大正末期頃弁天べんてん(大沼)の中から多量の埋木を引揚げ、新潟方面に搬出したことがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一六七石余。貞享二年(一六八五)の「野沢組風俗改帳」によれば、田畑は天屋村と入組んでおり、西羽賀村・東羽賀村・田中たなか村・大原おおはら(現高郷村)窪倉くぼくら村五村が入会う山をもっている。また鎮守牛頭天王のいましめにより胡麻・牛蒡は作らないという。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]珠洲市三崎町杉山みさきまちすぎやま三崎町二本松みさきまちにほんまつ

ほん村の北西にあり、の川の上流域に立地する。「三州志」に上谷内かみやちしま小畠こばたけ野中島のなかじまの垣内があげられる。正保郷帳に村名がみえ、高二四一石余、田一五町二反余・畑七反余、新開高一一二石余(免二ツ七歩五厘)。承応三年(一六五四)の能登奥両郡収納帳では草高二八五石余、免三ツ八歩、夫銀一五一匁余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三七一石、免四ツ八歩、新開高五石余、小物成は山役四五匁、鳥役二匁(出来)であった(三箇国高物成帳)

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]舞鶴市字杉山

青葉あおば山の西麓に立地し、山腹斜面に水田が開ける。北方は峠を越えて若狭国山中やまなか(現福井県大飯郡高浜町)に至る。村内を朝来あせく谷より松尾まつのお寺への巡礼道が通り、松尾村に通ずる。

慶長検地郷村帳に高一一六・五三石「焼山村」と記載される地で、享保三年(一七一八)の領中郷村高付では「杉山村」とあり村名が変化する。土目録によれば総高一二四石、うち田方一〇九石余、畑方一四石余。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数二〇。近世初期より隣村の松尾村および若狭の山中村との間に山林の境界や入会権をめぐっての争いが度々繰り返された(杉山区有文書)

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]朝日町杉山

北流する最上川右岸にあり、北は松原まつばら村、南は置賜おきたま大瀬おおせ(現西置賜郡白鷹町)。正保郷帳に田方一六八石余・畑方六二石余とある。慶安二年(一六四九)より松山藩領。東五百川ひがしいもがわ上郷かみごう組に属し、天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(松山町教育委員会蔵)によれば高二三九石余、反別田八町余・畑五町六反余、家数二九・人数一三四、馬一〇で、松山藩領と米沢藩領の境に位置するため口留番所が置かれた。また米沢や越後への脇道にあたり、馬継場でもあった。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]落合町杉山

日名ひな村の西、東流する当摩たいま川の最上流域に位置する。標高五〇〇メートル前後の山地を縫って、西隣の月田つきだ(現勝山町)とを峠越で結ぶ同川谷沿いの道が東西に通る。正保郷帳では枝村にこう(現久世町)が載り、田高三〇石余・畑高一六石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によると村位は下、改出高四〇石余(か)・開高四〇石余。「作陽誌」では家数一九・人数一一一。津山藩森家断絶後の領主の変遷は日名村に同じ。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]神岡町杉山

南の銀山茂住ぎんざんもずみと茂住谷を隔て、高原たかはら川下流東岸、平地は少なく傾斜地が多い。民家は本村とその北東、茂住谷源流部の枝村とに分れ、ここより越中国長棟ながと(現富山県上新川郡大山町)へ出る峠道がある。北の横山よこやま村との間にはさいの神・ひつかすみとよばれる保木道・桟があった。長棟山は金沢藩領の鉛鉱山で、飛越国境であったため、杉山村・茂住村と長棟村住民の往来も多かった。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では「舟津町村所々十村分」に含まれ、同一八年の郷帳では高原郷に属し、西山中にしさんちゆう村に含まれる。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]富士町大字杉山

現富士町の西、東松浦郡七山ななやま村と接する。古湯ふるゆ滝川たきがわ(七山村)を結ぶ道路などがある。標高五五〇メートル台の山地で小盆地を形成する。篠の内・平村・谷村の地を含む(文化一四年の郷村帳)小城おぎ山内さんない郷に属し、慶長絵図に「杉山 高百七十三石余」と記される。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]信楽町杉山

柞原中野ほそはらなかの村の南に位置し、村内を大戸だいど川支流が流れる。南は山城との国境をなし、山中の間道をもって、湯船ゆぶね(現京都府相楽郡和束町)へ抜ける。柞原よりの出郷で、土豪杉山氏の名字の地という。江戸時代は柞原三村に属し柞原上之ほそはらかみの村とも称した。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]本庄市杉山など

利根川南岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、点在する一一ヵ所の土地(小字数一三)から構成される村。東はほぼ都島みやこじま村で、当村の中心部は下野堂しものどう村の飛地にあり、かつては同村を含んでいたとされる。小島おじま村にも飛地がある。正保二年(一六四五)の本庄町外石高等領知図(中原家蔵)では高一六〇石、家数九。なお天正(一五七三―九二)末年の高八四石余、田畑屋敷一二町三反余という(享保一二年「庄田三郎兵衛覚書」庄田家文書)

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]石下町杉山

岡田おかだ新田の東に所在。「結城郡郷土大観」によれば寛文一一年(一六七一)向石下むこういしげ村を三分して向石下村・杉山村・篠山しのやま村とした。杉山村は元禄郷帳にはみえないが、大字向石下の香取神社の元禄九年(一六九六)二月銘の石造鳥居に杉山村の大類勘兵衛・斎藤小右衛門らの名がみえ、天保郷帳には「向石下村之内」の注がある。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]清水市杉山

吉原よしわら村の南東、山切やまきり川上流域に位置する。寛永一〇年(一六三三)旗本長崎領となる。長崎氏は元禄一三年(一七〇〇)長崎元仲の代に弟元資に高三〇〇石を分知し、このとき当村でも一部が元資領となった。以後幕末まで長崎氏二家の相給地として続いた(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]安岐町糸永いとなが

南流する両子ふたご川の右岸山麓に集落があり、東は山嶺を境に油留木ゆるぎ村、北は糸永村、西は弁分べんぶ村、南は掛樋かけひ村。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三九石余、家数四、うち百姓二、庭屋・牛屋二、人数八、うち百姓二、牛一。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]勝山市北谷きただに町杉山

杉山川の中流、谷間の村。北は中野俣なかのまた村、南は中尾なかお村。正保郷帳に村名がみえ、田方一〇二石余・畠方四六石余。慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)以降幕府直轄領となった。

杉山村
すぎやまむら

[現在地名]一宮市杉山

しま村の西北にあり、東と南は大毛おおけ村に接する。天保村絵図によれば概高一五六石二斗余のすべては藩士三人の入会給知、蔵入は見取場一町七畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報