信楽町(読み)しがらきちよう

日本歴史地名大系 「信楽町」の解説

信楽町
しがらきちよう

面積:一六四・二一平方キロ

県の最南端に位置し、北は甲南こうなん町・水口みなくち町・甲西こうせい町と栗太くりた栗東りつとう町、西は大津市、東から南は三重県との県境をなし、上野市、阿山あやま郡阿山町・しまはら村、南から西にかけては京都府と境し、相楽そうらく南山城みなみやましろ村・和束わづか町、綴喜つづき宇治田原うじたわら町と接する。町の大部分を高原状の信楽山地が占め、三重県側は急崖となって木津きづ川の断層に臨む。町内を貫流する大戸だいど川・信楽川とその支流に沿って集落が形成される。当地域は甲賀郡の他地域と隔絶し信楽谷と称されるが、大戸・信楽二河川の流域に分けられる。当地は南山城・伊賀・大和に隣接し、古くから交通の要衝であった。中世の石造品や民俗などからもその文化的影響がうかがえる。考古遺跡として大戸川左岸に勅旨ちよくし古墳群がある。聖武天皇の造営になる紫香楽宮しがらきのみや跡が著名である。天平一四年(七四二)八月に宮の造営を開始、翌一五年には大仏建立の詔が発せられたが、同一七年五月に廃された。通称内裏野だいりのが宮跡とされてきたが、近年北方の宮町みやまちで同時期の官衙遺構が発掘され、その性格が注目される。飯道はんどう山上の飯道神社および飯道寺(現廃寺)は、山岳信仰の拠点として栄えた。

中世には信楽庄が成立。同庄は摂関家領で、近衛家に伝領した。応仁二年(一四六八)には近衛政家が小川大光おがわだいこう寺に下向している。当地の土豪多羅尾氏は同庄の庄官で、やがて一帯を支配するに至った。当地の特産物に信楽焼があり、古窯跡は町の全域にわたって存在する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報