木崎村(読み)きざきむら

日本歴史地名大系 「木崎村」の解説

木崎村
きざきむら

[現在地名]新田町木崎

南境を石田いしだ川が東流し、北は反町そりまち村・赤堀あかぼり村、西は中江田なかえだ村、南は粕川かすかわ(現尾島町)、東は上田島かみたじま(現太田市)。村域は木崎台地の東半を占める。村央を東西に日光例幣使街道、南北に元禄期(一六八八―一七〇四)以降の銅山あかがね街道が走り、その交点にあたる。木崎宿・木崎町ともいわれた(元文五年「村号石高覚」太田宿本陣史料など)。中世は新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「きさき」とみえ(→木崎郷。なお愛媛県東予とうよ市の栴檀せんだん寺蔵の位牌には興国四年(一三四三)に木崎八郎なる者がいたことがみえ、あるいは南北朝期に伊予で活躍した岩松頼宥に従った者とも推定される。なお前出新田義重置文に空閑一九ヵ郷の一として「丁ふくし」がみえ、義重の庶子らいわう(義季)の母に譲られている。

木崎村
こざきむら

[現在地名]関町木崎町

西は新所しんじよ村に接し、東海道に沿い、東端から伊勢別街道が分岐する。政所賦銘引付(広島市立中央図書館浅野文庫蔵)文明六年(一四七四)一一月三日条に「飯尾三郎左衛門尉為修知行懸勢州木崎庄半分、借物卅貫文三文子、有之」とあり、飯尾為修は比叡山の宝住永秀から三〇貫文を月三分で借り、その返済のために木崎庄の半分の代官職をあてることとした。永秀は代官として入部するため、幕府奉行人奉書の発行を申請、奉書が出された。文亀三年(一五〇三)の万松山永明禅寺懺法僧衆帳(瑞光寺蔵)や、室町末期のものと推定され、足子商人について記した「得珍保之海草勿塩百十色馬足子下」(今堀日吉神社文書)に「木崎」や「小さき」を冠した人名がみえる。

木崎村
きさきむら

[現在地名]茂原市木崎・東郷とうごう

町保まちぼ新田の東の平坦地に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に木崎村とみえ、高二四七石。寛永二年(一六二五)旗本伊沢政信に木崎村二四七石余が宛行われた(知行宛行状)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳でも村高は同じで、旗本伊沢領、家数五七。伊沢領は幕末まで続いたとみられ、旧高旧領取調帳では高二九八石余。木崎字寺内てらうちの真言宗豊山派東泉とうせん寺は元和元年(一六一五)鑁元によって開山されたという。

〔三貫野開発〕

慶長一五年(一六一〇)岩室伊右衛門は幕府に鐚八貫文を納めるという契約で、時の代官頭伊奈忠次から当村付近一帯の開発権を得た。

木崎村
きざきむら

[現在地名]敦賀市木崎

櫛川くしかわ村の南に位置し、くち川が貫流、集落は西方の山側にある。延文二年(一三五七)五月八日付の某長丸名名主職安堵状(西福寺文書)に「木崎郷」とみえ、中世は野坂のざか庄に属した。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では阿曾布野あぞの(莇生野)村二千一九石余に含まれ、正保郷帳では一村として高付され、田方八二七石余・畠方一七石余。天和二年(一六八二)の鞠山藩創設の際、二石余を小浜本藩領に残して八四二石余が鞠山藩に属し、庄屋は兼任であった。

享保一二年(一七二七)には庄屋彦左衛門(持高七二石余)、入木銀四二匁余、牛馬銀二二匁余、雉札銀一匁、夫役六分余、夫米五俵二斗余、馬足二五疋、牝馬三、家数五六、うち高持二六・無高二九・寺一、人数二九三(敦賀郷方覚書)

木崎村
きさきむら

[現在地名]大網白里町木崎

北飯塚きたいいづか村の東に位置し、土気とけ往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一七五石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では上谷組に属し、旗本高木領一〇七石・同服部領六三石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一八一石余、家数二九、幕府領・服部領・与力給知。領主は幕末まで同じ(旧高旧領取調帳)。元和九年(一六二三)の名寄帳写(富塚家文書)では高一五五石余、名請人は百姓一七と正国しようこく(日蓮宗)、うち最大の所持高は一六石余で反別一町五反余。寛永一〇年(一六三三)地方直しによる分郷で、百姓引分(一二人と九人)と田畑引分(いずれも七七石余)が実施されたが、一人の百姓が二給にまたがって登録されていたらしく、宝暦二年(一七五二)相給の役人間で争論となった(同文書)

木崎村
きざきむら

[現在地名]千代田町木崎

東および南は萱野かやの村、西は鍋谷なべや村、北は鍋谷村野辺のべ(現館林市)小泉こいずみ(現大泉町)の冨岡氏の所領を示す天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)に「館林領之内」として木崎がある。近世は初め館林藩領。一時幕府領となるが、再び館林藩領となる。寛文郷帳に田方九五石二斗余・畑方七一石四斗余とあり、田方に「水損」と注記される。

木崎村
きざきむら

[現在地名]小浜市木崎

和久里わくり村の南に位置し、南西は生守いごもり村。南の山裾に沿って丹後街道が東西に通る。中世には今富いまとみ名・富田とみた郷に属して推移。建久六年(一一九五)一二月四日付太政官苻(吉川半七氏旧蔵文書)に「木前」の地名がみえ、当地と考えられるが確定しがたい。鎌倉時代には和久里村と同じく和久利氏の支配下にあったと考えられる。永正七年(一五一〇)一二月五日付虎松丸等連署田地売券(西福家文書)には木崎郷の称もみえる。

木崎村
きざきむら

[現在地名]益城町赤井あかい

北は赤井村、西は砥川とがわ村と接し、船野ふなの(三〇七・八メートル)北麓にある。正和五年(一三一六)五月一二日の関東下知状案(詫摩文書)によれば「砥河・木崎・上安永・鯰郷」は六箇ろつか庄の新補地頭の支配下におかれた地である。また文亀三年(一五〇三)一二月一九日の菊池氏老中連署状(阿蘇家文書)によれば「木崎郷四十五町、(川脱カ)郷四十五町、都合九十町」が竹崎惟満・村山惟貞の支配下におかれている。

木崎村
きざきむら

[現在地名]大町市大字たいら 木崎

現大町市の北部、松本盆地の北端に位置し、北は現もり集落と接する。村の西に鹿島かしま川扇状地が迫り、その扇端部にあるため冷水ながらも水に恵まれ、水田も開けている。木崎の地名は、古代の柵の先きのさきに由来すると推定され、木崎村の北隣の森村にある森城の前との意味であろう。

木崎の名は、文禄年間(一五九二―九六)の成立とみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に、「九拾五石六斗九升三合 木崎村」とみえるのを初見とする。

木崎村
きさきむら

[現在地名]庄和町木崎

西宝珠花にしほうしゆばな村の西に位置する。寛永(一六二四―四四)頃に開かれ、慶安三年(一六五〇)に木崎新田、延宝元年(一六七三)木崎村と称したという(郡村誌)元禄郷帳に村名がみえ、高四〇九石余。享保一一年(一七二六)の江戸川通川除出入裁許請書(土生津家文書)によれば、旗本滝川・山高・酒井三氏の相給。江戸川筋の川除普請をめぐって旧来の免除分などを訴える村々があって出入となっており、当村など八ヵ村は悪水落堀六ヵ所などの人足を出し、早く堀浚えや藻払いを進めることを約束している。

木崎村
きざきむら

[現在地名]神栖町木崎

東は溝口みぞぐち村、南は田幡たばた村。天正一九年(一五九一)東義久知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「弐百仁石七斗 木崎」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高一五〇石余で、旗本溝口・大久保両氏が支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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