長楽寺文書(読み)ちようらくじもんじよ

日本歴史地名大系 「長楽寺文書」の解説

長楽寺文書
ちようらくじもんじよ

解説 新田郡尾島町世良田の天台宗長楽寺の文書。承久三年に新田義重の子義季が栄朝を招いて禅密兼修の寺院として建立した。当時の世良田は富豪の集住する地方都市で、長楽寺もしだいに鎌倉北条氏の保護を受ける官寺(のち十刹寺院)、北関東の宋朝禅根本道場として発展していった。正和年中の出火再建のための土地寄進関係文書から戦国時代の宛行状に至る一一三点の文書を伝え、宝蔵文書として新井白石の手によって文書形式ごとに五巻の巻子に整理されている。このなかには本寺の文書と別に、普光庵・正伝庵・大通庵など同寺塔頭に伝わった文書も残る。五巻本とは別に、徳川吉宗が寄進した空閑郷開発を伝える史料として仁安三年六月二〇日の新田義重譲状(二通)など八点や、印信・聖教類多数がある。

活字本群馬県史」資料編五・六

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長楽寺文書の言及

【長楽寺】より

…しかし近世初頭には寺勢が衰え,1640年(寛永17)南光坊天海の入寺によって天台宗に改宗され現在に至っている。長楽寺文書として著名な中世文書をはじめ,頂相(ちんぞう),肖像,彫刻等多数を蔵し,中世史研究に貴重な史料を提供している。【山本 世紀】。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」