新田町(読み)につたまち

日本歴史地名大系 「新田町」の解説

新田町
につたまち

面積:三八・二五平方キロ

新田郡のほぼ中央にあり、北は藪塚本やぶづかほん町、南は尾島おじま町、東は太田市、西は佐波さわさかい町・あずま村。渡良瀬川により形成された大間々おおまま扇状地の扇端部とその南に続く低い沖積台地で、南東は木崎きざき台地とよばれる。西境をはや川、中央部を石田いしだ川、東方をおお川がいずれも南流する。扇端部は湧水地帯で、ここを水源とする用水の確保は中・近世を通じ重要な問題であった。寛文年間(一六六一―七三)には北方の乏水地域に笠懸野かさかけの開発により新田村が成立したが、岡登おかのぼり用水の中絶のためいずれも畑方のみであった。元禄年間(一六八八―一七〇四)頃より銅山あかがね街道が南北を通るようになり、南を東西に走る日光例幣使街道と木崎宿内で交差した。

新田町
しんでんまち

[現在地名]盛岡市夕顔瀬町ゆうがおせちよう・新田町・城西町じようせいちよう

夕顔瀬橋西詰から南西に延びる四町半ほどの同心組町(内史略本「盛岡砂子」など)。北上川対岸はかや町に接し、南西端の枡形の先の三ッ家みっや町を経て雫石しずくいし川に至る。寛永城下図にはみえず、その後に新しくできた町のため、新出しんで町とも記す。元文城下図に御同心丁とみえ、夕顔瀬橋際から南西に向かって「□□与兵衛組」・八木橋某組・出石源兵衛組・柴内利兵衛組の足軽四組が両側町を形成。

新田町
しんでんちよう

[現在地名]宇都宮市清住きよずみ一―二丁目・小幡おばた一丁目

日光街道筋の町人町で、南は本郷ほんごう町に続き、東と北は戸祭とまつり村、西は西原にしはら村。江戸時代初期に西原本郷の新田を町とし、新田町としたという。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえる。年貢地で、延宝七年(一六七九)に検地を受けたという。享保四年(一七一九)の宇都宮大明神祭礼図(高橋節子蔵)によれば、三八番山車で、七郷花幟一本を飾る。

新田町
しんでんまち

[現在地名]高崎市新田町

みなみ町の北に続く中山道の両側町で、遠堀外にあった。町の長さ一町一九間五尺(高崎寿奈子)。「高崎志」に「慶長十一年丙午、城主酒井家次新後閑村ノ民家ヲ此ニ移シ、新タニ町トセラレシ故、新田町ト名ヅケシト也」とある。同書によると赤坂あかさか村の田地であったことから町地となっても田租を納めていたが、安藤氏の寛文四年(一六六四)検地から地子を出すようになった。

新田町
しんでんまち

[現在地名]糸魚川市清崎きよさきよこ町二丁目・新鉄しんてつ一―二丁目・上刈うえかり二丁目

七間しちけん町と横町の境をなす四つ角から信州街道が分岐し、ひめ川に沿って南へ向かう。その信州街道に沿い、コの字形に曲って南は鉄砲てつぽう町へ続く。天和三年郷帳に新田町村とあり、高三一石一斗余である。享保一五年(一七三〇)の根知谷新田町明細検分帳(早稲田大学図書館蔵)によれば、高一一石一斗余、家数一〇二(本百姓八六・町名子一六)、男二八二・出家一八・山伏五・女二九六で、渡世の内訳は越中信州商人二七・浦方二六・田畑請作二五・酒屋一・信州問屋一・医師二・山伏三・紺屋一・大工一〇・桶屋二・木挽一・ひ物屋一・めし屋一・壁塗一とある。

新田町
しんでんまち

[現在地名]上越市北本きたほん町三丁目

陀羅尼だらに町の北に位置する北陸街道沿いの町。町西側の北端に番所があり陀羅尼町番所とよんだ(→陀羅尼町。松平光長時代の後期に陀羅尼町域に新しく成立した町で、天和期(一六八一―八四)には陀羅尼新田町といった。

新田町
しんでまち

[現在地名]玉城町佐田さた 新田町

田丸たまる城下の東、熊野街道に沿う。地形的には洪積台地上で湯田野ゆたのの西端をなす。集落の東端に外城田ときだ川の旧河道があって地域を区分している。現在の外城田川が新田町と田丸城下を画するように北流しているのは、天正三年(一五七五)織田信雄が外堀にするために掘ったものである。本来佐田地籍の土地で熊野街道沿いに集落が発達し、田丸城下に連なる町並となったので新町とよばれ、天保(一八三〇―四四)頃から新田町と称されたらしい。

新田町
しんでんまち

[現在地名]川越市新富町しんとみちよう

脇田わきた村の地に成立した武士屋敷町。猪鼻いのはな町の南方武蔵野に続く通りで、通組とおりくみ町の西側の南北の通り。元禄七年(一六九四)の川越城図には大久保おおくぼ町とみえる。同一五年の河越御領分明細記でも大久保町とみえ、町の長さ二二八間三尺、屋敷二一軒。

新田町
しんでんまち

[現在地名]鹿角市花輪 新田町一―三区

花輪はなわの町並の南端部に位置し、寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「廿軒新田町」とみえる。鹿角街道沿いに形成され、北の六日むいか町との境を西へ下ると舟場に達し、その道を舟場道とよぶ(陸中国鹿角郡花輪通花輪村画図面)

新田町
しんでんまち

[現在地名]松任市新田町

八ッ矢やつや町の北方二町余に位置。天明五年(一七八五)町絵図(松任市立博物館蔵)では該当の地域に数軒の百姓家が描かれ、「出作百姓」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報