赤井村(読み)あかいむら

日本歴史地名大系 「赤井村」の解説

赤井村
あかいむら

[現在地名]会津若松市湊町赤井みなとまちあかい

猪苗代湖の北西岸、赤井川左岸に位置する。東は湖岸にある篠山ささやま村、西は背炙せあぶり山に接する。白河街道に沿い、北ははら新田村、南は下馬渡しもまわたり村に続く。本村の南東二二町に小名下窪新田しもくぼしんでん、本村の北西一〇町一〇間余に小名廻戸新田まわとしんでん、本村の南東一〇町一〇間余に端村桂沢新田かつらざわしんでんがある。古くはなか村といったという(会津鑑)。寛文六年(一六六六)の「滝沢組村々由来堤山名帳」によると、「此村ヨリ乾ノ方ニ当テ壱里ニ井水有リ、此水色赤ク御座候ニ付赤井村名付由申伝候、是ハ四拾九年以前元和四午ノ年方々ヨリ此所ヘ在所ヲ移シ罷有候」とある。

赤井村
あかいむら

[現在地名]矢本町赤井

蛇行南流するじよう川の左岸に位置し、南は大曲おおまがり村、東は須江すえ(現河南町)、北は広淵ひろぶち(現同上)。広淵、石巻いしのまきに至る道が通る。「安永風土記」によれば、村名の由来は地字上馬うわめの八幡社の東に水の色が赤い大井戸があったことによると伝える。現在も鉄分の多い赤水が多い。前掲風土記によれば、寛永五年(一六二八)片倉備中守重長が当地二七貫七一四文の地を与えられたという。正保郷帳に村名がみえ、田三六貫八六二文・畑五貫八六三文で旱損と注され、ほかに新田四三貫二四六文。「安永風土記」では田三〇二貫七四二文・畑三五貫一七三文、うち茶畑一六文で、蔵入一九九貫三八一文、ほかは給所。

赤井村
あかいむら

[現在地名]いわき市平赤井たいらあかい赤井比良あかいひら好間工業団地よしまこうぎようだんち

閼伽井あかい(赤井岳)東麓、夏井なつい川右岸にあり、東対岸は中平窪なかひらくぼ村、北は西小川にしおがわ村、南東下流は愛谷あいや村。村名は竜灯伝説で知られる閼伽井岳によるという。永和四年(一三七八)小春日の忠教寺鐘銘に「奥州岩城郡赤井郷 浅口東禅寺大鐘者 本石森之鐘也」とみえ、永和二年に石森の忠教いしもりのちゆうきよう寺から買取ったものである。宝徳三年(一四五一)六月一日の好島隆衡去状(遠藤白川文書)に「奥州岩城之郡之内長井之村并、赤井之郷於白河殿江去渡申所也、彼赤井之郷二に御わけ、小峰殿与、可有御知行候」とあり、赤井郷は白河殿と小峰殿に譲られている。

赤井村
あかいむら

[現在地名]中央区赤井町・大巌寺町だいがんじちよう

小花輪こばなわ村の南に位置し、村の東部を土気とけ往還が通る。「あけ」とも読む。寛永一〇年(一六三三)旗本佐々領となり、知行高六〇石余(大塚家文書など)。万治二年(一六五九)の小倉村万帳(平川家文書)では小倉おぐら(現若葉区)の領主赤井弥兵衛が当村をも支配していたと記す。寛文元年(一六六一)から一部が佐倉藩領で、同四年の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。同二年同藩領内の総検地が行われた(大塚家文書)。元禄一一年(一六九八)同藩領が旗本遠山・鈴木両氏の知行所となり、以後幕末まで佐々氏を含めた三給支配。

赤井村
あかいむら

[現在地名]根上町赤井町

手取川河口南方、中庄なかのしよう村の北、西任田にしとうだ村の北西に位置。「天文日記」天文六年(一五三七)四月九日条に摂津石山本願寺の御堂当番として上番した赤井称名しようみよう寺がみえ、天文年間末頃と推定される超勝寺下分并本覚寺下分書上(本願寺文書)によれば称名寺は当時能美郡粟津あわづ(現小松市)にあった超勝ちようしよう寺の末寺であった。「天文日記」にはほかに同二二年三月一六日条まで数回の本願寺当番の記事があり、うち天文一三年と同二二年は代僧が上番している。

赤井村
あかいむら

[現在地名]川口市赤井一―四丁目・赤井・東本郷ひがしほんごう二丁目・江戸えど一―二丁目

慈林じりん村・安行あんぎよう吉岡組よしおかぐみの南に位置し、東流する見沼代用水(東縁)が台地と低地を画する。村名は当地の円通えんつう寺境内に閼伽井の星あかいのほしの井とよぶ井戸があったことに由来するという(風土記稿)。田園簿では田二八二石余・畑一一一石余。江戸時代を通じて幕府領であった(田園簿、「会田落穂集」会田家文書、「風土記稿」など)

赤井村
あかいむら

[現在地名]大島町赤井

新開発しんかいほつ村の西、神楽かぐら川左岸に位置し、村の北部を東西に北陸街道が通るが、おもな集落は街道から外れている。慶長一五年(一六一〇)九月の遷宮祭礼勤仕神主連判状(越中古文書)に村名がみえ、土佐が署判している。正保郷帳によると高六五八石余、田方四三町余・畑方九反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六三〇石、免四ツ(三箇国高物成帳)

赤井村
あかいむら

[現在地名]金沢区釜利谷かまりや

東は谷津やつ村と金沢入江の泥亀新田でいきしんでん村、北は谷津村能見のうけん堂から中里なかざと村・氷取沢ひとりざわ(現磯子区)の山丘に連なり、西南は宿しゆく村・坂本さかもと村に接する。村内赤井山正法しようほう院境内に赤井と称する金沢七井の一つがあり、村名の起源と伝える。古くは釜利谷郷のうち。

元禄一二年(一六九九)六浦藩領。同一六年の村明細帳(横浜市史)によれば、村高三六〇石余で、反別は田二〇町六反余、畑三四町八反余。

赤井村
あかいむら

[現在地名]大東市赤井一―三丁目・はま町・太子田たしでん一丁目・同三丁目・氷野ひの一―四丁目・大東町・南郷なんごう

氷野村の南にあり、新開しんかい(現東大阪市)深野ふこの池干拓以前は、両池を結ぶ吉田よした(深野川)の北岸にあたり、東は深野池に接していた。干拓後は寝屋川の北岸となる。「河内志」は「井旧作江」と記し、「類聚国史」御厨の項に、天長八年(八三一)五月一一日に停止したとある「河内国供御、堤外赤江、堤内赤江」の所在地に比定される。江戸時代の初めは氷野村の内にあり、明暦四年(一六五八)分離独立したという。「寛文朱印留」に淀藩永井尚征の弟尚庸領として赤井村がみえるが、延宝年間(一六七三―八一)の河内国高帳では氷野村に含まれている。

赤井村
あかいむら

[現在地名]益城町赤井

東は福原ふくわら村、西は砥川とがわ村に接する。村の北側を赤井川が流れる。慶長国絵図に村名がみえ、近世は鯰手永に属した。正保郷帳では田二五〇石五斗余・畑五三石六斗余。文政二年(一八一九)の鯰手永略手鑑では高四二八石四斗余。明治九年(一八七六)木崎きざき村を合併。合併後の同一五年の戸数一六一、男四一六・女三九二、牛馬一九〇、荷船一一・漁船一、水車三、同一四年の民業戸数は農業一四七、大工職四、水車職三、石工職二、染物職・左官職・畳刺職・下駄職・紙漉職各一で、物産に畳・下駄・塵紙などがある(郡村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報