日本大百科全書(ニッポニカ) 「旧石器時代」の意味・わかりやすい解説
旧石器時代
きゅうせっきじだい
石器時代を石器の製作法のいかんによって、旧石器時代、中石器時代、新石器時代に三分した場合の最古の時代をいう。old stone ageあるいはpaleolithic ageの訳語。石器時代とは、器具の材料に主として石が使用された時代という意味ではなく、冶金(やきん)術が発明・採用される以前の時代のことである。したがって、ある文化において、おもに木器ないし骨角器が製作・使用されていても、冶金術が知られていない以上、それはやはり石器文化であって、木器文化ないし骨角器文化ではない。旧石器時代とは、石器の製作に喙敲(かいこう)法または磨研法が知られず、もっぱら敲打(こうだ)法によって石器がつくられていた時代をさしている。ただし、石器の製作法に関しては、次の中石器時代のそれとは基本的な相違が認められないため、学者によっては、中石器時代を旧石器時代の末期、すなわち晩期旧石器時代とみなし、独立した時代として中石器時代の存在を認めない場合も少なくない。
旧石器文化が行われたのは、おもに地史上の更新世(洪積世)であるが、更新世というのは、旧石器時代を規定するうえで絶対的な条件とはならない。なぜならば、周辺的な諸地方では、旧石器文化は停滞し、完新世(沖積世)に入ったのちも行われていたからである。旧石器時代人は、今日では絶滅してしまった哺乳(ほにゅう)類動物(マンモス、毛犀(もうさい)のような)と共存することが多かったけれども、これまた旧石器時代を規定するうえで必須(ひっす)の条件とはなっていない。
[角田文衛]
研究史
旧石器時代の遺物の存在は、ヨーロッパでは早くから識者の注意に上っていたが、『旧約聖書』に呪縛(じゅばく)されていたため、学界においても正式にこれが取り上げられることはなかった。1838年に至ってフランスのブーシェ・ドゥ・ペルトBoucher de Perthes(1788―1868)は、ソンム川の河岸段丘で絶滅種のゾウやサイの遺骨とともに多数のフリント製の石器類を発見し、人類が更新世に生息していた事実を証明した。その時分から旧石器の発見は各地で報じられ、学界もようやくこの事実を認めるようになった。この機運に乗じてイギリスのラボックは、石器の製法に基づいて石器時代を二分し、古いほうを旧石器時代、新しいほうを新石器時代と名づけた(1865)。その後、旧石器時代の研究調査は、フランスを中心にラルテ、ド・モルティエらによって急速に推進されたが、後者が西ヨーロッパを主として樹立した編年(時期区分)――いわゆるモルティエ編年――は、もっとも権威あるものとして、1930年代に至るまで学界に通用していた。
20世紀に入ると、フランスやスペイン北部では旧石器時代後期の洞窟(どうくつ)絵画の発見が相次いだし、西ヨーロッパや北アフリカばかりでなく、ヨーロッパの中部、南部、東部、さらには北部、またオリエント、アフリカ各地、インド、シベリア、中央アジア、中国、インドネシア、アメリカ大陸の各地において旧石器時代の遺物・遺跡が続々と発見された。これに並行して猿人、原人、旧人、新人の遺骨も各地で検出され、これらを通じて旧石器文化の様相はとみに判明してきた。なかでも中国の周口店(しゅうこうてん/チョウコウティエン)における北京(ペキン)原人の遺骨や彼らが使用した石器の発見は、東アジアにおける旧石器文化の研究の端緒となった。日本でも、1949年(昭和24)群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡において旧石器文化の存在が確認されて以来、全国にわたって旧石器時代各期の遺跡がおびただしく発見され、研究は爆発的に進捗(しんちょく)した。朝鮮半島でも、1950年代から旧石器時代の遺跡が検出され始め、研究調査は活発に進められている。
[角田文衛]
研究法
旧石器文化は主として更新世に行われたもので、その年代的範囲は200万年以上にわたっている。したがって旧石器時代の研究調査は、考古学を主役としながらも、自然科学系の諸学、すなわち地質・地史学、雪氷学、岩石学、土壌学、古生物学、古地理学、古人類学などとの協力が絶対に必要である。また遺跡の年代決定に関しては、さまざまな物理学的方法が採用されている。さらに遺跡の年代や古景観を明らかにするためには、花粉や火山灰の分析、土壌の粒度分析などが行われている。石器の用途の研究には、顕微鏡による使用痕(しようこん)の検査が不可欠である。さらに古生物学による当時の動物相や植物相の究明は、旧石器文化の生態学的研究に基本的な役割を担っている。
旧石器時代の遺跡は、第一次遺跡と第二次遺跡とに大別される。第一次遺跡とは、人間が生活した「原位置」に存在、または堆積(たいせき)した遺跡を称し、これには住居址(し)、製作址、洞窟、岩陰、埋葬址などの種別がある。洞窟には石灰洞窟が圧倒的に多いが、このうち奥行の深い、トンネル状のものを洞穴といい、奥行の短いものを岩窟とよんでいる。これらに対して庇(ひさし)状の、ときとして岩壁の裾(すそ)に営まれた住居址は、岩陰と称される。洞窟や岩陰には、しばしば明確な層位をなして堆積した包含層がみられ、それらは研究上、役だつことが多い。
第二次遺跡とは、第一次遺跡から押し流された石器類が、動物の遺骨などとともに当時の河床や湖底に堆積した砂礫(されき)または粘土の中に包含されている遺跡のことである。河床は時とともに深く削られていくから、第二次遺跡は河岸段丘にみられることが多い。アシュール文化の名祖となったフランス北部のサン・タシュール遺跡などは、河岸段丘の遺跡の好例である。この種の河岸段丘遺跡の年代決定には、地形学の協力を欠くことができない。
遺跡から発見される遺物の多くは、石製の器具、すなわち石器であるが、そのほか骨角器、木製品(希少)、石・骨角・粘土などでつくられた彫像、同じく石・骨角・貝などを用いた各種の装身具などもみられる。粘土で造形し火で焼いた土偶や動物像は、旧石器時代後期の特別な遺跡から出土するが、土器、すなわち窯(かま)で焼成した粘土製の容器は、まだつくられなかった。石器の研究には、石質の検討、原石の産地の究明、出土した層位と関連しての型式学的考察と分類、製作法や用途の考究、統計学的な処理などのように多角的な検討が要請される。埋葬や祭祀址(さいしあと)は、住居址に関連して発見されるのが常である。アルタミラ、ラスコー、フォン・ド・ゴームなどの洞穴にみられる壁画は、洞内の祭祀所の側壁や天井に描かれたものであるが、その年代がきわめて古きにさかのぼることは、壁面を覆った石灰質の皮膜からも想察される。
[角田文衛]
生活と文化
旧石器時代の大きな特色は、人々が獲得経済で生きていたことである。すなわち、彼らの生業は、自然物の採集と狩猟であり、後期に入ってから漁労が一般化したが、後期には植物栽培も行われたようである。彼らの社会の単位は群herdであったと推定される。後代に比べると人々の定住性はまだ弱かったが、彼らはあてどもなく漂浪していたのではなく、一定の領域をもち、その領域の適宜な場所に定住するか、季節によって領域内で移動するといった生活形態がとられていたらしい。彼らにとってもっとも重要な生産手段である猟場、漁場などは、群共同体の共有であり、その点では彼らの社会は原始共産社会であった。またそれは、前階級社会でもあったが、年齢による階層の別は厳存していたようである。
旧石器時代に関しては、世界各地におびただしい数に上る「文化」が設定されている。ここでいう「文化」とは、一定の地域における一定の期間の諸遺物(とくに石器)の特殊な組合せのことである。これら多数の文化を年代的に系列化し、また空間的に配列することによって、旧石器時代文化の様相、動向、相互関係などが追究されるが、主として石器を資料としており、その石器類が変化に富んでいるため、そうした体系的、総合的研究は、すこぶる困難である。しかし数多い諸文化を巨視的に眺めると、旧石器文化の動向は、3期に分けて理解することができる。
前期は、東アフリカのオルドワイ文化、西ヨーロッパのバロネ文化、アブビル文化などを代表とするもっとも原初的な文化の時期であって、きわめて悠遠な年月、すなわち、ヨーロッパでいえば、それはギュンツ氷期からミンデル氷期の前半に及んでいる。石器は、礫(れき)の一端に撃打を加えてつくった打器、礫の両面に粗い剥離(はくり)を加えた祖形握槌(にぎりつち)、粗大かつ不整形の剥片石器などである。知られている遺跡の大部分は第二次的なもので、住居址はわずかしか検出されていない。
中期は、ヨーロッパのムスティエ文化、ミコック文化などによって代表される時期である。中期には、火の使用も知られたし、岩窟住居も始められた。石器としては、両面に加工した握槌、二等辺三角形の尖頭(せんとう)器、半月状の掻(そう)器、あらかじめ石核の打面を調整したうえで剥取された剥片石器が特徴的である。中期には、大形哺乳(ほにゅう)類動物を対象とする狩猟が盛んとなった。中期の文化を担ったのは旧人――ネアンデルタール人のような――であった。
後期の文化は、約3万年前から1万2000年ほど前に行われたが、それはヨーロッパではもっとも厳しい氷期であるビュルム氷期にあたっていた。世界のどの地域でも、後期の文化を担ったのは、新人であるホモ・サピエンスであった。当期の石器は、主として縦長の石刃(せきじん)を用いて製作されたが、その特徴は、形が小さくなり、先端が鋭くつくられたことと、用途に応じて形が分化したことである。ことに彫器は変化に富んでいる。小さい尖頭器の存在は、弓矢の発明と個人狩猟の開始を示している。骨角器の製作・使用も盛んであり、指揮杖(づえ)、銛(もり)、針、鉤針(かぎばり)などがみられた。西ヨーロッパでは、みごとな洞窟絵画が多数描かれたが、それらの時期区分には困難な問題がある。また石や骨を用いた彫像、石・骨・牙(きば)を材料とした刻画の類も多数みいだされている。これらの美術作品や埋葬によって当時の美術や宗教もかなり明らかにされている。集落の規模も大きくなり(とくにプシェッドモスト文化)、また岩窟や岩陰に加えて洞穴も居住に用いられた。これは、石製のランプの発明と関連していた。ただし、洞穴の場合、人々が居住したのは入口と前庭(テラス)であって、奥のほうは祭祀や貯蔵のみに使用されていた。
高い水準にまで達した旧石器時代後期の文化も、氷河時代の終末に伴う自然環境の激変によって下降し、やがてそれは、中石器文化へと移行した。しかし周辺諸地域では、なお長く旧石器時代的な文化が遺存した。この傾向は、北部を除くアフリカにおいて顕著であった。極北旧石器文化なども、ユーラシア北部のツンドラ地帯に停滞していた旧石器文化であった。
アメリカ大陸は、長い間無人の境であったが、後期に至ってシベリア方面から人間の渡来がみられた。アメリカ大陸では投げ槍(やり)による大形の哺乳類動物を対象とする狩猟が活発に行われ、フォルサム文化のそれにみるとおり、中形で鋭い両面加工の尖頭器(石槍)が盛んに使用された。「新大陸」では、適当な猟獣や食用の植物に恵まれていたためもあって、「旧大陸」に比べて、その文化はより長く旧石器時代にとどまっていた。
[角田文衛]
日本
日本旧石器時代の発見
1911年(明治44)イギリス人医師N・G・マンローは、神奈川県酒匂(さかわ)川や早川の段丘礫層(れきそう)を発掘して得たという旧石器類似資料をその著書のなかに発表した。また直良信夫(なおらのぶお)は、31年(昭和6)兵庫県明石(あかし)市の海岸に露出している更新世(洪積世)の砂礫層中から掘り出した資料を、旧石器時代の石器として学術雑誌に発表し、さらに崖(がけ)下の崩土中から人類の腰骨化石をも発見した。のちに「明石原人」として問題になった人骨である。しかし、日本の考古学者や人類学者の大部分はこれらの発表を認めようとはせず、更新世の日本は無人の地であったと考え続けてきた。ところが49年(昭和24)になって、群馬県桐生(きりゅう)市の南西約4キロメートルにある新田(にった)郡笠懸(かさかけ)町岩宿(いわじゅく)(現在みどり市)の切り通し道で、赤土の中から一部をのぞかせている黒曜石製の石槍(いしやり)を相沢忠洋(ただひろ)が発見したことから、旧石器問題は意外な展開を示すことになった。赤土というのは、1万年以上前の更新世に火山の爆発によって空に噴き上げられた火山灰がふたたび地上に降り積もってできた地層のことであり、地質学者によって関東ローム層と名づけられている。関東ローム層が一面に降り積もった時代の関東地方はおそらく死の火山灰地であり、そこには木も草もなく、人間の生活など考えることもできない、というのがそれまでの地質学者の考え方であった。ところが、そのような地層の中から、疑いのない石器が発見されたのである。同年10月、明治大学考古学研究室は岩宿遺跡の第1回目の調査を行い、関東ローム層中に含まれる上下2枚の旧石器文化層を確認することができた。上層の石器は黒曜石、瑪瑙(めのう)などを材料としてつくられており、概して小形で、切出形石器、周辺加工の尖頭器(せんとうき)、スクレーパーなどであった。これに対して、下層の石器は硬質頁岩(けつがん)をもってつくられ、比較的大形品を主とした楕円(だえん)形石器、スクレーパー、縦長剥片(はくへん)などがみられた。後者は岩宿Ⅰ文化、前者は岩宿Ⅱ文化としてそれぞれ区別された。
[芹沢長介]
岩宿発見後の旧石器時代遺跡
岩宿遺跡の発掘結果は、各地の若い研究者に刺激を与え、数年もたたないうちに、日本全国から同じような土器を伴わない石器の発見が相次いで報告され始めた。1951年7月には東京都板橋区茂呂(もろ)遺跡、1952年11月には長野県諏訪(すわ)市茶臼山(ちゃうすやま)遺跡、1953年には同県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻(のじり)湖底杉久保遺跡、同県南佐久(みなみさく)郡川上村馬場平遺跡、さらに瀬戸内海に臨む岡山県倉敷市鷲羽山(わしゅうざん)遺跡、北海道紋別郡遠軽町白滝遺跡など、各地からの発見が積み重ねられていった。新しく注目されだした縄文時代以前の石器について、最初のころはかなり露骨な反対意見を表する研究者も少なくなかったが、このような研究が全国的な規模で行われ始めるようになると、反対者はしだいに沈黙してしまった。岩宿発見以来急速に研究が進展し日本全国から発見された旧石器時代遺跡の数は5000か所以上に達しており、発掘された石器は数えきれぬほどの膨大な量に上っている。
[芹沢長介]
関東ローム層の年代
考古学者によって関東ローム層の中に石器が包含されているという事実が知られてから、地質学者も新しい目で関東ローム層を見直し、再検討しようという機運が高まった。関東ローム層団体研究会が1954年(昭和29)に発足し、日曜日ごとに各地の巡検が繰り返された。その結果として、関東ローム層として従来漠然とよばれていた地層は、古いほうからいって多摩ローム、下末吉(しもすえよし)ローム、武蔵野(むさしの)ローム、立川ロームという4枚の地層が積み重なっている層群であって、それぞれのロームは多摩段丘、下末吉段丘、武蔵野段丘、立川段丘の上に堆積(たいせき)したものであることも知られた。その後、放射性炭素法(炭素14法)やフィッショントラック法などの、放射能による年代測定が関東ローム層に対して実施され、立川ロームは約1万年前から3万年前まで、武蔵野ロームは約3万年前から5万年前まで、下末吉ロームは約6万年前から13万年前まで、多摩ロームは13万年以上前、というような年代が測定されるようになった。したがって、石器の包含されているロームが何であるかがわかれば、その石器の古さもほぼ見当がつくまでになっている。
[芹沢長介]
旧石器時代の時期区分
今日まで日本から発見された旧石器の大部分は、立川ロームもしくはそれと同時期の地層に包含されているので、実年代からいうと約3万年前から1万年前までの間に含まれてしまうことになる。そして約2万5000年前から1万5000年前までは石刃、ナイフ、彫刻刀などが多くつくられ、約1万5000年前から1万2000年前までは細石刃が栄え、約1万2000年前から1万年前になると有舌(ゆうぜつ)尖頭器や片刃石斧(せきふ)のような新しい要素が加わり、北九州では土器製作が開始されたということがほぼわかってきた。ユーラシア大陸では、約3万年前から1万年前までを後期旧石器時代としており、日本の立川ローム期の石器はちょうどそれに相当することになる。それでは大陸の中期もしくは前期旧石器時代、すなわち3万年以上前の時代の日本には、人類が住んでいなかったのかという疑問に対して解答を与える資料の一つは、1964年(昭和39)に発掘された大分県速見郡早水台(そうずだい)遺跡最下層の石器である。早水台遺跡は下末吉段丘と同時期の河岸段丘上にあり、問題の石器は基盤直上の角礫(かくれき)層中から出土した。石器の原料は石英脈岩、石英粗面岩などであり、石器の種類には片刃および両刃の礫器(れっき)(チョッパー、チョッピング・ツール)、祖型握槌(にぎりつち)、尖頭石器、祖型彫刻刀、祖型楕円(だえん)形石器、鶴嘴(つるはし)形石器、剥片(はくへん)、石核などがある。さらに、65年以来5回にわたって栃木市星野遺跡が発掘され、星野第5文化層から第13文化層までは武蔵野ロームおよび下末吉ロームに包含されており、3万年前から約8万年前までの堆積である事実が判明した。また70、71年の2か年にわたって、群馬県岩宿遺跡の再調査が行われた結果、岩宿Ⅰ文化層の下位から、少なくとも5万年以上の古さをもつ石器群が大量に出土し、岩宿ゼロ文化と命名された。
これらの遺跡は、石器の材料、形態、組成、製作手法、出土層準などから判断して、大陸の中部、下部旧石器に対比されるものであり、3万年以上前の日本にも、旧人もしくは原人の仲間が住んでいたということがしだいに明らかになりつつある。
[芹沢長介]
『F・ボルド著、芹沢長介他訳『旧石器時代』(1971・平凡社)』▽『P・アッコー他著、岡本重温訳『旧石器時代の洞窟美術』(1971・平凡社)』▽『ジョン・ワイマー著、河合信和訳『世界旧石器時代概説』(1989・雄山閣出版)』▽『春成秀爾編、岡村道雄他著『検証日本の前期旧石器』(2001・学生社)』▽『白石浩之著『旧石器時代の社会と文化』(2002・山川出版社)』▽『藤本強著『石器時代の世界』(教育社歴史新書)』▽『芹沢長介著『日本旧石器時代』(岩波新書)』