幸町(読み)さいわいまち

日本歴史地名大系 「幸町」の解説

幸町
さいわいまち

[現在地名]平戸市築地町つきじちよう

平戸城の西にあり、かがみ川河口部の右岸に位置する。北側に幸橋が架けられる。本町ほんちよう通の東手にあたる。平戸城の西部の湾の奥部を干拓して成立した町で、幸町と称したが、江戸末期より別に築地町とも通称。寛永年間(一六二四―四四)平戸に幽閉されていたオランダ人のF・コルナドフス(台湾長官ヌイツか)が貿易により富裕になったとして、埋立てて町屋を造成することを出願したが、藩主松浦隆信は許可しなかったという(壺陽録)

幸町
さいわいちよう

道頓堀どうとんぼり川南岸の町。東は道頓堀湊どうとんぼりみなと町に接し、西は木津きづ川河岸までの東西に長い町で、南北の幅は四〇間。一丁目から五丁目まである。もと南北四〇間のうち、道頓堀川から南へ二〇間は安井九兵衛・平野次郎兵衛両名の請所で材木置場、その南二〇間は下難波しもなんば村・上難波村の農地であった。元禄一一年(一六九八)開発に着手、この四〇間の用地の北および南側に大道が付けられ、さらに南側に下難波村の用水のため三間の井路が掘られた。

幸町
さいわいちよう

大正一一年(一九二二)四月に成立した現在の室蘭市の町名。絵鞆えとも半島中央部に位置し、西は内浦湾電信でんしん浜の一部。もとは室蘭区大字本町ほんちようのうちで、大正一一年四月の大字廃止および町名番地改称で幸町・本町・さかえ町・舟見ふなみ町・開運かいうん町の五町が成立、町名の由来は「簡明にして佳名を選ぶ」ことによる(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市幸町となった。昭和四一年(一九六六)住居表示を実施し、丁目は設定せず、清水しみず町の一部を編入(第四次住居表示新旧対照表)。昭和六年一一月に公園こうえん仏坂ほとけさか(現在のNHK室蘭放送局付近)に木造二階建の市役所庁舎を新築したが、同一六年二月一五日の火災で全焼。

幸町
さいわいちよう

[現在地名]水戸市備前びぜん町・梅香ばいこう二丁目・いずみ町一丁目・みなみ町三丁目

すず坂の下り口から紀州きしゆう堀に沿って北に進み、泉町片いずみちようかた町の南端に至る町。「新編常陸国誌」幸町の項には「一名餌指町えさしまちと云フ」と記し、「水府地名考」ではこの町の鈴坂寄りを幸町、泉町寄りを餌指町とし、幸町の項に「寛文以前ノ古図には餌指町の内とあり」と記す。餌指・鷹匠・同心などの居住地域で、諸士の屋敷は「僅に三軒」(水府地名考)であった。

幸町
さやまち

[現在地名]久居市幸町

旅籠はたご町から西に続く町並である。この町名は藩士屋敷割図(杉山家蔵)にみられるが、町の由来・性格も明らかでない。町の中ほどで家中屋敷との境界付近に子午ときの鐘が設置されている。この鐘は元文元年(一七三六)に鋳造されたもので、「天長地久、国家安泰、勢州久居子午之鐘、元文元竜集丙辰吉月良辰、冶工同国津住、辻越後藤原種茂造焉」との陰刻銘があって、今も高さ二メートルの土壇上の鐘楼に懸かっている。最初の鐘は元禄八年(一六九五)辻越後守政種の作で、場所も家中屋敷のほぼ中央に位置していた。

幸町
さいわいちよう

[現在地名]函館市弁天町べんてんちよう

西浜にしはま町地先の海面埋立地に付けられた町名で、明治八年(一八七五)一一月に町名の新称を承認されている(開拓使日誌)。この埋立は箱館戦争の兵火で衰微した弁天町の復興を願う住民が、当時の函館を代表する商人の一人であった杉浦嘉七(福島屋)に依頼して実現したもので、約三千坪の土地が誕生した。町名は杉浦嘉七の発案で、将来の多幸を祈って付けられた(「幸町埋立工事関係文書」福島屋杉浦家文書)。明治九年の「函館支庁管内村町別戸口表」ではまだ戸数・人口ともに記載はない。同二〇年には戸数三〇・人口三一八、同三〇年には戸数七一・人口二七九(伊藤鋳之助文書)

幸町
さいまち

[現在地名]能代市よろず

能代町の北端、東に上川反かみかわばた町、西にあら町があり、北は米代川の渡船場

寛保元年(一七四一)の「代邑聞見録」に「幸町 元禄年中建」とあるが、同書の享保六年(一七二一)までの五町組にみえず、同年以降の五町組にもみえない。同書の宝永元年(一七〇四)の地震記事には「荒町新小路より東中町、初立町、御足軽町、上川反町、幸町両側御材木場迄 出火有之焼失」とある。享保七年の能代町絵図(能代市役所蔵)には「木売小路」とあり、享保一五年の「六郡郡邑記」には「元禄年中町始り十二軒」とある。

幸町
さいわいちよう

昭和二七年(一九五二)に設定された。北は中央ちゆうおう町・北斗ほくと町、東は北七条西きたななじようにし二丁目・北八条西きたはちじようにし一丁目など、南は山下やました町、西は美芳みよし町。北境は夕陽ヶ丘ゆうひがおか(北二線)と中央大通、東境は学園がくえん(西一号)、西境は緑園りよくえん(西二号)

幸町
さいわいちよう

昭和三年(一九二八)一月に成立した現在の苫小牧市の町名。東はほん町。町名は幸せの多い町であることを願って命名。同年に苫小牧町大字幸町が誕生、現在の本幸ほんこう町の一部を含む(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)、同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町幸町となった(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)。同二三年市制施行により苫小牧市幸町となり、同四五年の住居表示実施で一―二丁目を設定し、一部を本幸町二丁目に移す(住居表示新旧対照表)。大正一〇年(一九二一)のコイノボリ大火前まで遊廓があったが、大火後は繁華街の中心が新川しんかわ(大町・本町)に移り、遊廓もはま町に移って静かな住宅地となった。

幸町
さいわいちよう

ほん町の南にある。昭和二四年(一九四九)大字留萌村の一部を区画して成立。大字留萌村の留萌通・瀬越通せごしどおり瀬越山の上せごしやまのうえ南大通みなみおおどおり南山手通みなみやまてどおり市街しがいの一部で、一丁目から四丁目まで設置。同二五年の戸数三三七戸・一千五八三人(留萌市統計書)。同三七年一丁目に市庁舎が新築移転。

幸町
さいわいちよう

[現在地名]中央区八丁堀はつちようぼり三丁目

長沢ながさわ町の東、本八丁堀ほんはつちようぼり四丁目の北にある。東は日比谷ひびや町、北は永島ながしま町。寛永江戸図によるとこの辺りは寺地で、寛文新板江戸絵図では今村伝三郎の屋敷。元禄三年(一六九〇)には今村氏屋敷は収公され(京橋区史)、同四年にもと幸橋外にあった幸町(現港区)がこの地に移された(沿革図書など)

幸町
さいわいちよう

[現在地名]小樽市幸一―四丁目・長橋ながはし三丁目・オタモイ一丁目

大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い手宮裏てみやうら町より分立、幸町が成立。松山まつやま町の北東にある。大正一五年の最新小樽市街図に伝染病院陸軍省用地・北海道庁苗圃が記される。苗圃は明治二六年(一八九三)に造られた陸軍省の土地で、道庁が植林の必要からこれを借用、のち譲り受けたという。

幸町
さいわいちよう

[現在地名]釧路市幸町

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと寿ことぶき町・浪花なにわ町の各一部、釧路村の一部(西幣舞)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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