久居城下(読み)ひさいじようか

日本歴史地名大系 「久居城下」の解説

久居城下
ひさいじようか

[現在地名]久居市東鷹跡ひがしたかと町・西鷹跡にしたかと町・ほん町・ノ町・旅籠はたご町・てら町・さや町・よろず

雲出くもず川右岸の河岸段丘上に、東西約一・二キロ、南北約〇・五キロのほぼ矩形の家中屋敷地を設定し、その東側に二筋、北側に一筋の町家を配した久居藩五万三千石の本拠地。

久居藩がここに置かれることになったのは、津藩主第二代の藤堂高次が致仕するにあたり、原封三二万三千余石のうち、家督を継ぐ長子高久には二七万余石を、次子高通には五万石を、三子高堅には三千石をそれぞれ分知配当することとし、これを幕府に奏請して寛文九年(一六六九)九月二九日に許された(徳川実紀)ことに始まる。これによって高通は野辺のんべ村に館を構え、ここを「久居」とよんで、津藩の支藩となったが、高通の子高敏は宗家津藩の後継となったので、高通の弟高堅が久居藩を継承した。このため高堅に分知されていた三千石も久居藩に繰入れられ、知行高五万三千石となって、明治の廃藩置県に及んでいる。

城下となる以前のこの地の状況については、ここに城下町としての縄張りをした際の絵図面が「藤影記」に収められていて知ることができるが、大部分は「芝野」または「小松野」と注記された原野で、南部にわずかに耕地がみられるにすぎない。そしてこの耕地は寛文一〇年四月吉日付久居御敷地新畠高帳(信藤謙蔵氏蔵)によると、畠地合計四町八反七畝二八歩、その分米三四・二八八石で、城下町全体の面積約九〇ヘクタールの約五パーセントにすぎず、城下町が耕地の損亡を極力低く押えながら形成された状況が知られる。敷地の南側は断崖になっていて、その崖下に沿って慶安元年(一六四八)西島八兵衛開削の雲出井が流れ、その南に水田が広がって雲出川河岸に達しているが、その景観は今も変わっていない。藩主藤堂高通がこの地を選定した理由について「藤影記」は、もう一つの候補地小森こもり(現津市高茶屋小森町)も有力であったが、「雲出川流域の沃野を下瞰する形勝地は、野辺野高台の一角に如くはない」として、久居に決定した旨を記している。町づくりにあたって藩主高通は、倹約に重点を置いた四三項目にわたる覚書を作って、関係家臣に示した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の久居城下の言及

【久居[市]】より

…近鉄名古屋線が通じる。【成田 孝三】
[久居城下]
 伊勢国の城下町。1669年(寛文9)津藩主藤堂高次の次男高通が宗家領のうち5万石を分領されて久居藩を創設,翌年一志郡に築塁を命じられ,雲出川を望む懸崖の地,野辺の高台の一角に居館を設計し,侍屋敷を配置,町割りを進めた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」