川戸村(読み)かわどむら

日本歴史地名大系 「川戸村」の解説

川戸村
かわどむら

[現在地名]吾妻町川戸

金井かない村の西にあり、南方榛名はるな山系に水源をもつ深沢ふかざわ川が北流して北村境の吾妻川に合流する。深沢川と並行して榛名道が通り、三国街道脇往還と吾妻川岸で合流する。同川を挟んで北西ははら町。康永三年(一三四四)四月在銘の宗本そうほん(現中之条町)宝篋印塔銘文に「吾妻庄河戸村内山田住人」とみえる。「山田」は原町西北隣の山田やまだ(現同上)にあたる。原町善導ぜんどう寺の「善導寺代々記」によると、岩櫃いわびつ城主斎藤氏の家老川戸城主秋間泰則が開基となり、貞治四年(一三六五)川戸村田辺たんべに同寺を創建したという。なお天正一〇年(一五八二)一月二八日には「川戸村」のうち一三貫文が善導寺に寄進された(武田家朱印状写「加沢記」所収)。万治二年(一六五九)沼田藩領分書上写によると高三三九石余。寛文郷帳では田方一二二石余・畑方二一七石余。寛文三年(一六六三)沼田藩領新検地控によると一千五二二石余、うち一一九石余が河合求馬、一一六石余が朝比奈治部右衛門、三〇三石余が春原庄兵衛、一五一石が真田七兵衛の給分。

川戸村
かわどむら

[現在地名]千代田町川戸

中山なかやま村の東に位置し、東に大塩おおしお山、北東に鷹巣たかのす山、北に文蔵ぶんぞう山がそびえ、村内の南西部可愛えの川が曲流しながら南東に流れる。村名は、嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(新出厳島文書)に、壬生みぶ庄四至の北限としてみえ、また示の一処として「艮方猪子坂峯并川戸村西堺」と記される。永禄四年(一五六一)と推定される欠年三月一一日付の吉川元春自筆書状(吉川家文書)に「大朝新庄河戸之衆」とあって、大朝新おおあさしん庄に属していたことが知れる。

川戸村
かわどむら

[現在地名]桜江町川戸

現桜江町の西部、八戸やと川が蛇行しながら北流し江川左岸へ合流する地点に位置し、八戸川の造成した氾濫原に立地する。水害常襲地帯のため主要集落は自然堤防上に石垣を築き上げ河畔に接している。北は江川を隔てて谷住郷たにじゆうごう村に相対し、渡船で連絡する。中世、鏑越かぶらごえ城に拠った土屋氏は江川舟運を利用し、大陸と通商したとみられる。江戸初期に市山いちやま村から分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳に村名がみえる。

川戸村
かわとむら

[現在地名]山崎町川戸

揖保いぼ川の中流左岸に位置し、対岸は下比地しもひじ村など。「播磨国風土記」宍禾郡比治ひじ里の条によると、天日槍命川音かわと村に宿り、川の音がはなはだ高いと言ったのでこの村名が付いたという。現在の川戸が川音村の遺称地とされる。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳に河戸村とみえ、田方六〇三石余・畠方九五石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高一千四八三石余、田三六町四反余・畑一八町三反余、小物成銀六五匁(栗役三〇匁余・山畑役二〇匁余・楮役七匁余・茶役七匁余)・桑役(真綿)四七〇匁、家数一〇五・人数六五九、馬一・牛一二一。

川戸村
かわどむら

[現在地名]中央区川戸町

仁戸名にへな村の東に位置し、みやこ川が流れる。天正一九年(一五九一)から元禄一一年(一六九八)まで旗本遠山領、年貢は定納で二〇三俵を納めた(延享三年「村明細帳」鈴木家文書)。元禄一一年から佐倉藩領で幕末に至る。同一三年頃の下総国各村級分では高一七五石余。嘉永三年(一八五〇)の千葉筋成箇取付帳によると年貢は免取法で、同年から三ヵ年定免、年貢合計は米八五石余・永七三二文余・鐚一貫二二三文余。年貢米寒川さんが蔵納め文政一〇年(一八二七)星久喜ほしごき村用水の分水を命ぜられ、大橋戸おおはしどに堰を設けて坂尾さんご村・長峯ながみね(現若葉区)用水として五分、当村三分・星久喜村二分とし、横六尺・長さ一〇八間の用水堀を作ったが、のち堰の溢水で当村の稲が腐り被害が出るので埋めたいと主張、旱損になる星久喜村と対立した(鈴木家文書)

川戸村
かわどむら

[現在地名]大豊町川戸

北東に流れる吉野川に南小川みなみこがわが合流する付近、吉野川左岸に位置する日当りのよい山村。北東は連火つれび村。「土佐州郡志」は「東西二十三町南北十町余」と記す。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳には「豊永土居分川渡村」とみえ、一説に長宗我部氏以前の小領主小笠原氏の主家分の地かともいわれる。検地面積四町四反四代、うち田分四反一二代三歩、畠分一町四反八代、屋敷数一七で二町五反三三代三歩ほか。

川戸村
かわどむら

[現在地名]邑智町上川戸かみかわど

西流する沢谷さわだに川が江川に合流する地域にあり、北西は浜原はまはら村。河戸とも記す。銀山街道筋にあたる。沢谷川上流に枝郷の乙原おつばら久西くにしがある。銀山御囲村に指定されている。江戸期は川戸村と称したが、明治一四年(一八八一)江川下流の川戸村(現桜江町)との混同を避けるため上川戸村と改称正保国絵図に村名がみえ、高二五一石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方一七六石余・畑方七四石余、年貢高は米八〇石余・銀五七五匁余、小物成は紙船役六匁・山手役一五匁など、家数は本家五一・門屋一三、人数三一二、真宗大光だいこう(現浄土真宗本願寺派)がある。

川戸村
かわとむら

[現在地名]千倉町川戸

瀬戸せと村の西、瀬戸川右岸に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高三七三石余、うち田方二三九石余。里見氏給人領。正保郷帳では田高二八〇石余・畑高一三一石余、旗本大久保教勝領(寛永一〇年から)。以後同家筋に伝えられたが(元文村高帳など)、天保一三年(一八四二)武蔵忍藩領となり(同一四年忍藩領郷村高帳)、以後は川合かわい村と同様の変遷をたどる。

川戸村
かわどむら

[現在地名]小川町川戸

鎌田かまた川が貫流し、西南は小川村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「川戸村」とみえ、元禄郷帳に「古ハ川戸、成山二ケ村」と注記される。石川家文書に寛永一八年の川戸村御検地水帳と成山村御検地水帳があり、分れていたことがわかる。「水府志料」には「成山村 先年別村なり。元禄十一年、川戸中に并せて一村となる」とある。

川戸村
かわとむら

[現在地名]大原町川戸

吉野よしの川右岸、壬生みぶ村の対岸西に位置する。北は野時のとき村。壬生村から分村したという(東作誌)。正保郷帳では同村の内で、寛政四年(一七九二)美作国中領地分に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報