小川町(読み)おがわまち

精選版 日本国語大辞典 「小川町」の意味・読み・例文・類語

おがわ‐まち をがは‥【小川町】

東京都千代田区北部の旧地名。現在の神田小川町、神田錦町、神田神保町、一ツ橋、西神田、三崎町にあたる。江戸時代は屋敷町で、元鷹匠町ともいった。

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日本歴史地名大系 「小川町」の解説

小川町
おがわまち

面積:六〇・四一平方キロ

東松山市によって東西に分けられた比企郡の西部のうちの西端にあり、外秩父そとちちぶ山地の北東縁を占める。東は嵐山らんざん町、南は玉川たまがわ村・都幾川ときがわ村、西は秩父郡東秩父村、北は大里郡寄居よりい町に接する。南方にかさ(八三七メートル)堂平どうだいら(八七六メートル)がそびえ、堂平山から北東に延びる尾根は仙元せんげん(二九八・九メートル)へと続く。西にかんくら(三四四メートル)、北には富士ふじ(一八三メートル)金勝きんしよう(二六三・九メートル)など標高二〇〇メートル前後の山稜が連なる。南西部山地を水源とするつき川は北西部の山地から発するかぶと川を小川地区で合せる。合流点付近の平坦地は小川盆地とよばれ、町の中心部で市街地が形成される。また、北東境を流れる市野いちの川に沿っては低地・丘陵が展開する。東武鉄道東上線・JR八高線が中央部を走り、関越自動車道が北東端をかすめている。いずれも市街部を通る国道二五四号、主要地方道熊谷―小川―秩父線、同飯能―寄居線などが町域の主要道路網を形成し、主要地方道深谷―嵐山線が北部を東西に走っている。

原始・古代の遺跡は、槻川流域と市野川流域の丘陵上に多く分布している。槻川の左岸丘陵上には、発掘調査された平松台ひらまつだい遺跡をはじめ、中の台なかのだい遺跡・日向ひなた遺跡・八幡台はちまんだい遺跡などの縄文時代前期・中期の集落跡が存在する。また古墳時代の集落跡は、小川盆地内に所在するものと考えられるが、現在市街地となっており確認することが困難である。

小川町
おがわまち

面積:四二・四三平方キロ

郡の中央西部に位置し、東は南流する那珂川を境に馬頭ばとう町、北は大田原市および那珂川支流ほうき川を境に湯津上ゆづかみ村、南は烏山からすやま町・南那須町、西は塩谷郡喜連川きつれがわ町、北東で一部黒羽くろばね町と接し、那須扇状地の南部にあたる。那珂川支流権津ごんづ川が中央部を南東流し、塩那えんな丘陵東端にあたる西部を除き比較的平坦で、南那須地方の穀倉地帯をなす。町域を東西に走る国道二九三号と那珂川沿いに縦断する同二九四号がほぼ中央部で交わる。

町域の那珂川右岸段丘上には注目される遺跡が集中する。浄法寺じようほうじ浄法寺遺跡は縄文時代から奈良・平安期、三輪の仲町みわのなかまち遺跡は縄文時代から中世に至るそれぞれ複合集落遺跡であり、小川の駒形大塚こまがたおおつか古墳(国指定史跡)吉田の那須八幡塚よしだのなすはちまんづか古墳(県指定史跡)、次いで吉田の温泉神社ゆぜんじんじや古墳と造営された前方後方墳は県下で最も早期の古墳に属する。

小川町
おがわまち

[現在地名]小川町小川

東と北に北小川村があり、南はすな川の対岸に八代郡吉本よしもと(現竜北町)がある。東西に細長く、面積は狭い。古くは小河と表記。「国誌」に「小川 砂川也」とあるように、南北に走る薩摩街道が山間部の海東かいとうから西流する砂川と交差する地点の東方に位置し、今日の小川町の中心市街一帯である。「郡村誌」では、上苅宣かみかるかや・下苅宣の二字地からなる。

「和名抄」に八代郡小河郷とあるが、広域的地名で、当地がその中核であったか否か定かでない。建久六年(一一九五)三月日の甲佐社領立券解案(阿蘇家文書)の「八代北郷(中略)北小河」の四至のなかに「南限八代庄堺并小河堺」とある。周辺に守山もりやま・八代・北小河・南小河などの荘郷が存在し、小河が一個の独立した地域として扱われていたことがわかる。正平一六年(一三六一)には、当地の安堵をめぐって阿蘇大宮司家に打渡そうとする守護菊池武光の代官と、「構要害、申異議」名和顕興の代官との間に激しい攻防があった(同年一一月一四日「菊池武光注進状写」同文書)

小川町
おがわまち

[現在地名]長崎市金屋町かなやまち恵美須町えびすまち上町うわまち桜町さくらまち

内中うちなか町の北、岩原いわはら川の下流にある長崎うち町の一ヵ町で、船手に属した。町並は東西に形成され、東は八百屋やおや町。天正一六年(一五八八)豊臣秀吉の直轄領となり、地子銀が免除された。慶長五年(一六〇〇)当町から船津ふなつ町まで堀が開削されたと伝える(華蛮交易明細記)。一六一四年頃、イエズス会の行列が豊後ぶんご町より小川町Congaua machiに入っており(アビラ・ヒロン「日本王国記」)、もとは「こがわ」とも称した。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「小川町」の「ろひいな」「寿庵」「へいとろ」が署名している。

小川町
おがわまち

[現在地名]千代田区神田小川町かんだおがわまち一丁目

明治五年(一八七二)に起立。表神保おもてじんぼう町・神田錦かんだにしき町一丁目・同二丁目の北に位置する町。江戸時代はおおむね武家地。往古は三崎みさき村の田畑で江戸開府により幕臣の屋敷地となった。当初は鷹匠が多く居住していたが、その後旗本の屋敷地となったため元鷹匠町と呼称され、元禄六年(一六九三)九月一一日小川町と改称した(御府内備考)。寛永江戸図では東部は陸奥弘前藩津軽越中守、西部は大和郡山藩松平下総守が屋敷を構えている。

小川町
おがわまち

面積:四一・三六平方キロ

下益城郡の最南端に位置する。北東から南にかけて豊野とよの村・中央ちゆうおう町・八代郡いずみ村・同郡東陽とうよう村と接し、南西は八代郡竜北りゆうほく町、北は松橋まつばせ町と隣接する。町域は東西に長く広がり、おもに東部は山間地域で、西部は平野地域である。すな川は山間地域に源を発し、河岸の平野を潤しながら、八代海へと注ぐ。河口近くには干拓によって開かれた土地が多い。幕末から明治初期にかけて正式に立村した住吉すみよし川尻かわじり新田出しんでんでといった村々がこれにあたる。町の中央部にある八幡はちまん(日岳、二四三メートル)の西方の平地を旧薩摩街道が、現在はこれに一部重なりつつ国道三号が、さらに鹿児島本線が走っている。

小川町
おがわまち

面積:六四・三九平方キロ

東茨城郡の最南部に位置し、北東はともえ川を隔てて茨城町と鹿島郡鉾田ほこた町に、西南は園部そのべ川を隔てて新治にいはり玉里たまり村に接する。両河川の流域は肥沃な水田として開け、中央部は平坦な台地をなす畑作地帯で、山林も点在する。集落は西南部の旧小川町付近に最も発達し、ここが町の中心をなす。また町内には西北から東南に流れる鎌田かまた川と梶無かじなし川の二つの小流がある。気候は温暖で農業が主たる産業。昭和一二年(一九三七)町の東部に筑波海軍航空隊百里原分遣隊が設置され、太平洋戦争が始まると百里原海軍航空隊となり、小川は軍隊の町となる。

小川町
おがわまち

[現在地名]篠山市小川町

篠山城の南東方、上立かみたつ町の北に位置する。北西から南西にかけて黒岡くろおか川を挟んで武家地が割られる。篠山城下一一ヵ町の一つで、かつては河原かわら町と同じく大川(篠山川)の川筋で、元和六年(一六二〇)の町立てとも(「篠山城記」渋谷家文書)、寛永元年(一六二四)に埋立がなったともいう。ただし正保笹山城絵図(内閣文庫蔵)では町名がみえない。

小川町
おがわちよう

上京区小川通一条下ル

南北に通る小川通の両側町。北は一条いちじよう(旧一条大路)

平安京の条坊では左京北辺二坊北東の地で、平安中期以降は一条大路西洞院にしのとういん大路西の地。

平安前期は官衙町の「縫殿町」にあたる(拾芥抄)。中世、応永三二年(一四二五)一一月一〇日の酒屋交名(北野天満宮史料)によれば、この辺りに酒屋があった。

寛永一八年以前平安城町並図に「小川頭」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「小川殿町」とあり、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図に「小川丁」と出る。

小川町
こがわちよう

[現在地名]大津市長等ながら一―二丁目

石川いしかわ町に連なる北国海道の両側町。当町より西方の寺内へ出る観念寺辻かんねんじづしがある。元禄八年町絵図に町名がみえ、家数一八。同絵図にみえる間口四五間余・奥行三二間余の佐治右衛門家に役家三軒分と記され、大津町の役家負担は家持町人の屋敷の大きさを基準にし、一軒で数軒分の負担をする場合のあったことが知られる。

小川町
こがわまち

[現在地名]むつ市小川町一―二丁目の一部

田名部たなぶ川の下流右岸に位置する。東に小川を隔ててほん町、北に城内じようないがある。藩政初期の頃からみえる田名部五町の一。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に小川町とあり、家数二八。小川の角に舟番所があり、橋前はしまえ役所とよばれた(田名部町誌)。明治初年の「新撰陸奥国誌」では小川町とともに北小川きたこがわ町がみえる。

小川町
おがわちよう

[現在地名]奈良市小川町

本子守ほんこもり町の南に所在。北端をいさ川が西流。「奈良曝」に「青屋が辻子と一ツニ合。町役廿八軒。此町の前西の方の川、むかしより率川とて名所なり。本子守町の南町。歌ニ、風そよくならの小川の夕くれハ御禊そなつのしるしなりける」とある。

小川町
こがわまち

[現在地名]七戸町 七戸

通称小川町。七戸村の町方の南東に位置する。奥州街道に沿い、南を七戸川が流れる。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)に「小川原町」とあり、街道沿いに北にした町、東に下川原しもかわら町、西にやなぎ町が延びる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には小川町とあり、家数五〇。

小川町
おがわまち

[現在地名]中区大須一丁目・松原一丁目辺り

旅籠はたご町の北、ほり川より東への横筋。明和二年(一七六五)町屋となる。この地に小川某の宅地があったことから町名が付いた(尾張志)。当町の東、白山神社の南の辺りを鶯谷うぐいすだにとよぶ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小川町」の意味・わかりやすい解説

小川〔町〕
おがわ

埼玉県中部,関東山地の山麓線上に発達した町。1889年町制。1955年八和田村,竹沢村,大河村の 3村と合体。中心地区の小川は槻川の谷口集落で,秩父路と八王子―上州路が交差する宿場町として発達。古くから和紙の産地として有名で,東秩父村と小川町で保存伝承される伝統的な手すき製法による細川紙は国の重要無形文化財に指定され,2014年には世界無形遺産に登録された。その他木工・酒造業がある。周辺では野菜栽培が行なわれるが,近年は宅地化が進み,東京都への通勤者も多い。南西端の堂平山一帯は長瀞玉淀県立自然公園に属し,ハイキングの好適地。JR八高線と東武鉄道東上線が交差する。面積 60.36km2。人口 2万8524(2020)。

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