川井村(読み)かわいむら

日本歴史地名大系 「川井村」の解説

川井村
かわいむら

[現在地名]木屋平村 大北おおきた・川井・櫟木ちちのき麻衣あさぎぬ竹尾たけお

三ッ木みつぎ村の南、穴吹あなぶき川の上流域山間を占める。近世には麻植おえ郡に属し、南は同郡木屋平村、東は名西みようざい上山かみやま上分かみぶん(現神山町)。川井山ともいい(「阿波志」など)、川井は河井などとも書いた。「阿波志」は村内の名として竹尾・麻衣・川井窪かわいくぼ・大北、乳木ちちのき(櫟木)南張みなみばり・川井・くぼの八名をあげる。「改訂木屋平村史」などによると、うち竹尾・麻衣・川井窪・大北・櫟木の五名を川井五ヵ名といったという。なお現在の字川井は久保くぼ(窪)上久保うえくぼの二地区からなる。中世は種野たねの(麻植山)のうち。嘉暦二年(一三二七)三月八日の種野山在家年貢等注進状案(三木家文書)に「五宇河井」とみえ、種野山定在家七四宇のうち五宇が当地にあり、河井地頭名として御弓正月廻銭三貫文・桑代七〇〇文・絹の織賃二〇〇文・三日厨銭一二〇文の合せて公事銭四貫二〇文を負担。このほかに山畑耕作への課税とみられるハカリ物(秋麦・粟米・大豆)、三日厨白米三升五合、山野からの収穫物に対する課税である鳥菟五や葛ノセン五枝などの貢租も負担していた。

川井村
かわいむら

[現在地名]三島町川井

大登おおのぼり村の北東六町余、伊北いほう街道に沿う街村。交通の要衝で、村の東七町を隔てた駒鳴瀬こまなかせ峠を越えて滝谷たきや村に継ぎ、村の南一〇町の切伏きりぶせ峠を越えて湯八木沢ゆやぎさわ村・田代たしろ(現柳津町)に継ぐ銀山ぎんざん街道を分岐し、村の北五町の只見ただみ川を船渡しで西方にしかた街道名入ないり村に継ぎ、また村の西三町の追分道で宮下みやした村・大登村に至る道を分岐した。これらの諸街道は古代・中世の道でもあり、四道将軍、伊佐須美いさすみ明神(現会津高田町)の遷座伝説ともかかわりをもっているという。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「河井 弐百八石九斗五升 御倉入」とある。

川井村
かわいむら

[現在地名]袋井市川井

山名やまな郡に所属。袋井宿の西、東海道が通る。村名は宇刈うがり川と袋井川が合流する所であることに由来するという(掛川誌稿)。川合・河合・河会などとも記される。建武四年(一三三七)九月二六日の足利尊氏下文写(今川家古文章写)によれば、尊氏は「遠江国河会郷」ほかを今川範国に与えている。「親元日記」寛正六年(一四六五)八月二日条所収の同年七月二八日の伊勢貞藤書状に「河井」とみえ、今川治部少輔(範将か)遺領の当地ほかが幕府料所とされた。「今川記」や「今川家譜」によれば、当地や堀越ほりこしなどは今川了俊の知行地で、応永七年(一四〇〇)了俊は失脚後に息の貞臣とともに当地付近に閑居したとする。天文二三年(一五五四)五月一六日、今川義元は山名庄河井郷塔免三段ほかを赤尾山長楽ちようらく寺領として安堵している(「今川義元判物写」木原権現由来記)

川井村
かわいむら

[現在地名]川井村川井

中央部を閉伊川が東流、中川井で支流小国おぐに川が合流する。「邦内郷村志」はこのことを地名の由来としている。東は古田ふつた村、西は片巣かたす村、南は泉沢いずみざわ村、北は刈屋かりや(現新里村)。川居村とも記した。閉伊街道が通る。中川井に戦国期の川井館跡がある。慶長三年(一五九八)門馬新山かどましんざん大権現修復の祝詞(別当文書)に河井薩摩守の名がみえる。

慶長六年一〇月一四日の南部利直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、楢山帯刀佐の岩崎いわさき(現和賀郡和賀町)における合戦の報賞として当村が加増されており、全村楢山氏の知行地となった。正保国絵図では高三六石余。元禄十郡郷帳による〆高は田方六斗余・畑方一二五石余、当村に片巣村が入るとある。

川井村
かわいむら

[現在地名]若葉区川井町・大広町おおひろちよう

高根たかね村の南東に位置する。東金とうがね道の松並木は寛政期(一七八九―一八〇一)に六一本であった(「東金往還並木一村限帳」石原家文書)。十字路近くの竹林にある馬頭観音の道標は高根村方面のほか、佐倉成田道・東金道・千葉江戸道を示す。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に円掃部殿領分として河井とみえ、田二反、分銭五〇〇文であった。天正一九年(一五九一)七月二〇日の千葉之庄河井之郷下之郷検地帳(石原家文書)では田一二町四反余・畑七町余・下屋敷二反余。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳では高二二〇石、四〇間の道普請を負担。元和六年(一六二〇)の年貢割付状(石原家文書)によれば旗本島田領であったが、同年幕府領、寛永九年(一六三二)一四五石余で年貢は反取法、同一九年佐倉藩領、明暦三年(一六五七)から一三七石余、万治三年(一六六〇)幕府領、寛文元年(一六六一)再び佐倉藩領、元禄一二年(一六九九)旗本戸田領となり、幕末に至る(同文書など)

川井村
かわいむら

[現在地名]雄勝町あきみや 川井

役内やくない川上流に沿い、北はなか村、南は役内村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に湯曾川井村二五六石とある。近世初期、当村と役内村は肝煎が一人で村方の帳簿もいっしょであったが、慶長二〇年(一六一五)、梅津半右衛門の指示で二村に分れたという(宝暦一三年「雄勝郡役内山斧剪御訴訟奉願候ニ付入会三ケ村旧記書上帳控写」日本林制史調査資料)

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)によれば、高は本田二二九石一斗五升三合、新田一〇三石四升五合、合計三三二石一斗九升八合(当高三五三石九斗七升一合)。享保八年(一七二三)の雄勝郡郡村本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)では、当高は変わらず、家数は一七軒。

川井村
かわいむら

[現在地名]玉村町川井

西は滝川たきがわ用水を隔てて下茂木しももぎ村、北は箱石はこいし村、東は川を境に飯倉いいぐら村。南はからす川を境に武蔵国賀美かみまゆずみ村・毘沙吐びしやと(現埼玉県児玉郡上里町)。集落は烏川沿いの段丘上にあるが、村の北部を東西に通る日光例幣使街道の北側、箱石村境にも五軒新田ごけんしんでん慈恩寺橋じおんじばしの小字がある。河井・河合とも記した。烏川と神流かんな川、滝川用水の合流点に位置することから村名となったと伝える。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方八〇〇石余・畑方二一九石余。元禄郷帳では飯倉村を分村したらしく、高八二三石余と減少し、うち三〇〇石は舟引・人足引で同藩領であった。

川井村
かわいむら

[現在地名]米沢市川井

花沢はなざわ村の東に位置し、羽黒はぐろ川西岸の平地に立地。河井とも書かれる。中世には屋代やしろ庄のうち。延文二年(一三五七)から応永五年(一三九八)頃にかけて書写されたと推定される山寺立石やまでらりつしやく(現山形市)蔵の大般若経写経奥書に「置民郡屋代荘河井郷内堂森新宮善光寺」とみえ、河井郷は屋代やしろ庄のうちで、当時堂森どうもり村を含む一帯であった。永正一二年(一五一五)一一月一六日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、山路筑前よりの買地である屋代河井郷のうち助三郎在家一宇を山路藤七に安堵している。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば、屋代庄のうち「川ゐ」の段銭は三四貫四〇〇文、うち「かぬや」より六貫文を納めている。同一三年閏一一月二九日の伊達晴宗安堵状(宇和野文書)によると、屋代庄河井郷のうち、大明神の神領で本年貢二貫文の地を上野与四郎に安堵している。

天文二二年の晴宗公采地下賜録によれば、屋代庄川井のうちを、小簗川大炊助が「松のき在け」、竹田彦七が佐藤大炊助より買地の「ひの口」三〇〇刈、「かうや」一千刈、「田の下」切田四〇〇刈、「かうつた在家」のうち「ほんかうのいとしり」と切田五〇〇刈を安堵された。

川井村
かわいむら

[現在地名]小千谷市川井・川井新田

信濃川と魚野うおの川の合流地点を占める。南は岩沢いわさわ村。集落は信濃川右岸に沿って下流からうちまき川端かわばた五苗ごみよう屋敷やしき・川井新田・真皿まさら、支流十八沢じゆうはちざわ川に沿った山地に冬井ふゆい戸屋とやがある。川井新田は信濃川沿いの新開地で、承応年中(一六五二―五五)分村したが、元禄・天保の郷帳などには川井村に包含されている。中世は上川かみかわ郷に属し、下川しもかわとも呼称された(北魚沼郡志)。村内の川井神社、一名明口あけぐち神社に奉納されている応永一一年(一四〇四)六月日銘の鰐口に「越後国魚沼郡下河河井村 明口大明神」とある。

川井村
かわいむら

[現在地名]高郷村川井

塩坪しおつぼ村の北東、阿賀川の南岸に位置する。河井・川合・河合とも記し、村の東辺を北流する只見ただみ川が当地で阿賀川に注ぐ。河沼郡野沢組に属し、只見川を挟み東は同郡宮月みやづき(現山都町)、北は阿賀川を挟んで耶麻郡舘原たてのはら(現同上)。南部に本村(上川井)、北部に端村大田おおた(下川井)の集落がある。渡船場が二つあり、上川井と宮月村、下川井と舘原村を結んだ。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では河井とあり、稲川いながわ郡のうちで高二八二石余。

川井村
かわいむら

面積:五六三・〇四平方キロ

下閉伊郡の南西に位置し、四周とくに北・西・南は北上高地の主峰早池峰はやちね(一九一三・六メートル)をはじめ、サクドガ森(一三六〇・六メートル)青松葉あおまつば(一三六五・六メートル)岩神いわがみ(一一〇三メートル)白見しろみ(一一七二・六メートル)などの高山に囲まれる。東は新里にいさと村・上閉伊郡大槌おおつち町、西は盛岡市・稗貫ひえぬき大迫おおはさま町、南は遠野市、北は岩泉いわいずみ町に接する。

川井村
かわいむら

[現在地名]旭区都岡つおか町・川井宿かわいしゆく町・川井本かわいほん町・下川井しもかわい町・上川井かみかわい

東は白根しらね村、西は下川井村・上川井村、南は今宿いまじゆく村、北は久保くぼ(現緑区)に接する。上川井村から帷子かたびら川が流れて今宿村に至る。川に沿って八王子道が通り、村の南で中原なかはら道と交差する。

正保国絵図に「川井村」とある。田園簿では四五二石余、うち田二二四石余、畑二二八石余、幕府直轄領・旗本鈴木・倉林・駒井の四給で、直轄領は萱野役として塩六八俵を納めている。元禄郷帳では川井村・下川井村・上川井村の三ヵ村と上川井村の枝郷坂倉さかくら新田の四村に分れている。以後幕府直轄領・旗本倉林・駒井領の三給。同帳によれば分村後の川井村は一四四石余。矢倉沢やぐらさわ往還長津田ながつだ宿(現緑区)の定助郷村で、村高の約半分の高七〇石を勤めていた(横浜市史)

川井村
かわいむら

[現在地名]山形村川井

現山形村域のほぼ中央、久慈川の源流域に位置し、南をマネドコ山と明神みようじん岳を結ぶ峰が走る。北は日野沢ひのさわ村、東はつなぎ村、南は霜畑しもはた村、西は荷軽部にかるべ村。全域が丘陵地帯で、集落と耕地は沢や川に沿って点在する。河井村とも記された(奥々風土記)。正保国絵図に村名がみえ、高四八石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では高九八石余で畑方のみ。

川井村
かわいむら

[現在地名]奥多摩町川井

丹三郎たんざぶろう村の東、多摩川の北岸、大丹波おおたば川が多摩川に合流する地に位置する。甲斐国都留つる郡へ至る青梅おうめ街道が通る。田園簿に村名がみえ、高八三石余(皆畑)。元禄郷帳では高一三一石余。「風土記稿」によれば、北高南低の地形で、山林田畑相半ばする。家数五六、農間に炭焼、材木の切出し、多摩川での鮎釣などに従事し、運上金を納めていた。小名に丹縄たんなわ尾崎おさき神塚かづか沼平ぬまだいら桐窪きりくぼ高畠たかばたけ篠崎しのざき桜木さくらぎがある。沼平沢・丹縄沢の沢水はともに多摩川に流れ入る。尾崎に承平年中(九三一―九三八)平将門が設けたと伝える棚跡があったという。

川井村
かわいむら

[現在地名]千代田町川井

火神城ひのかみじよう(六〇五メートル)の南麓に位置し、村内を東流する可愛えの川の氾濫原を中心に集落が展開する。文明三年(一四七一)一一月二五日付の足利義政御判御教書案(吉川家文書)に「河合名野坂将監跡」とみえ、恩賞として吉川元経に与えられている。天文九年(一五四〇)の合戦頸注文(毛利家文書)に「山県河井」と記される。

慶長六年(一六〇一)の検地により高四〇九・六六石となる。

川井村
かわいむら

[現在地名]岩倉市川井町

北は大地だいち村、東は大山寺たいさんじ村、南はおさな(五条川)を隔てて春日井郡徳重とくしげ(現西春日井郡西春町)、西は伝法寺でんぽうじ(現一宮市)に接する。織田信雄分限帳に「一、四百三拾貫文 河井・小森両郷 竹股和泉」とあるのが初見。

小牧代官所支配下村。高八九九石余のうち八一一石余は藩士一八人の給知。田は三四町五反四畝余、畑は三四町四反三畝余。その他新田高請二三石余がある。寛文一一年(一六七一)の戸数一〇五・人数五〇五。「徇行記」は「田面ハ幼川ノ水潦泛溢スル事アリテ田畝敗傷シ、又旱リニハ用水乏シク水旱ノ害アリテ貧村ナリ、サレハ細民ハカリニテ村立アシヽ、農業ノミヲ以テ生産トス」と記す。

川井村
かわいむら

[現在地名]合川町川井

北流する阿仁あに川下流右岸、小阿仁こあに川合流点に近く、現在大野台おおのだいとよばれる台地の西麓に位置する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一六四石とみえる。集落東部の墓地に延慶二年(一三〇九)の板碑が現存。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」に「西南の間に古館あり。誰居ると云を知らず。松石殿館と云」とある。

江戸時代初期は独立村であったが、「延宝四辰年増沢村加郷被仰付、品々迷惑ニ付元禄六酉年元形一村立奉願上候」とあり、元禄八年(一六九五)「下杉村枝郷」とみえながら(桜庭文書)、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」や寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では独立村と記載され、寄郷・枝郷を繰り返した模様である。

川井村
かわいむら

[現在地名]砥部町川井

河井村とも書く(大洲秘録)。砥部川の左岸、支流むら川の谷沿いの村。北は麻生あそう村、東は宮内みやうち村、南は七折ななおれ村、西は山境に現伊予市に接する。

寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「御替地おかえち」に属し、江戸時代を通じ大洲藩領で、浮穴うけな郡砥部郷一九村の一である。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「川井村 小松林少有、茅山有」、高一〇八石二斗五升七合、うち田九六石一斗八升七合、畠一二石七升と記す。

川井村
かわいむら

[現在地名]柿崎町川井

柿崎川の右岸に位置し、西は対岸の馬正面ばしようめん村と接する。乾元二年(一三〇三)六月二九日の大見頼資所領配分目録(大見安田氏文書)によれば「佐味庄下条河井村内高寺田在家并かやは分限載譲状」を頼資は次女の如意王に譲っている。永禄元年(一五五八)上杉景虎は翌年の上洛のために段銭を賦課し、一〇月晦日山田帯刀左衛門尉は「頸城郡夷守郷之内、河井村阿弥陀瀬益田分」七反の段銭を納入している(「庄田定賢等連署段銭請取状」歴代古案)。天正一四年(一五八六)から同二〇年の間の正月二八日の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)に「カハイ村」とみえ、本願寺へ五〇疋(五〇〇文)を懇志として送っている。

川井村
かわいむら

[現在地名]大豊町川井

南小川みなみこがわの北岸で、中内なかうち村の西、大滝おおだき村の南東に位置する山村。「土佐州郡志」は「東西五町南北二十六町」と記す。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「南地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「川井名」とみえ、検地面積四町一反九代一歩、うち田分六反三四代四歩、畠分一町九反二九代五歩、屋敷一四で一町四反四四代四歩、観音堂一。長宗我部氏家臣豊永源三郎の給地となっている。

延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高一二〇石余、うち本田高四一石余、新田高七九石余。

川井村
かわいむら

[現在地名]大東町川井

おか村の南東、あか川の支流阿用川と支流吉床よしとこ川・大内谷おおうちたに川が合流する付近に位置する。正保国絵図には「東阿用内川井村」とみえる。「雲陽大数録」には川井村とみえ、高一九〇石。「郡村誌」によると戸数八四(うち社二)・人数三五七、民業は農業六九戸・工業七戸・商業二戸・雑業四戸、物産は桐油実三〇石・薪一万二千貫目。

川井村
かわいむら

[現在地名]檮原町檮原東ゆすはらひがし

川口かわぐち村の南にあり、西は伊予国。天正一六年(一五八八)の津野檮原村地検帳に川井名がみえ、地積二町二反余、ヤシキ一一筆。すべて津野氏の直轄地で、一筆を除いて中越神助の扣。川井村はこの川井名を中心に成立したと考えられ、元禄郷帳には檮原村枝郷とあり、本田高二一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報