大東町(読み)だいとうちよう

日本歴史地名大系 「大東町」の解説

大東町
だいとうちよう

面積:四五・九九平方キロ

小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀おおすか町、北東は菊川きくがわ町、東は小笠町浜岡はまおか町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原まきのはら台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。また牧之原台地を水源とし、町域を縦貫して遠州灘に注ぐ菊川と、小笠山丘陵から流れる支流の下小笠川・佐束さづか川、牧之原台地から流れる支流の牛淵うしぶち川が下流部で合流するため、昭和になって河川改修が進むまで菊川はしばしば氾濫した。一方、これらの河川の恩恵を受けられない中央部の丘陵地帯には江戸時代から明治期にかけて灌漑用溜池が多数作られ、下小笠川右岸には北から小笠池・西にし池・はやし池・渡辺わたなべ池・長谷ながや池・しん池・居沼いぬま池などがあり、下小笠川左岸と佐束川右岸の丘陵には北から堂西どうざい池・かい沢奥さわおく池・かい沢口さわくち池・日向ひなた池・尾沢おざわ池・近江おうみ池・毛森奥けもりおく池・西之谷東にしのやひがし池・西之谷西池・池・兼政かねまさ池などがあり、また佐束川左岸にも山田やまだ池などがみられる。

大東町
だいとうちよう

面積:一五二・二三平方キロ

大原郡の中央東部、旧出雲国のほぼ中央に位置する。東は八束やつか八雲やくも村・能義のぎ広瀬ひろせ町、南は仁多にた郡仁多町、西は大原郡木次きすき町・加茂かも町、北は八束郡宍道町・玉湯たまゆ町・松江市と接している。東部・北部・南部は標高三〇〇―八〇〇メートルの山々に囲まれ、町域の七〇パーセントは山地である。斐伊川の支流あか川が西流して加茂町へ流れる。古代から現在まで大原郡に所属。「出雲国風土記」にみえる大原郡八郷のうち屋裏やうら郷・海潮うしお郷・佐世させ郷・阿用あよう郷の四郷が当町域に比定され、「和名抄」でも郷名は同じである。風土記所載の大原郡家を前原まえばらに、大原郡の新造院の一つを仁和寺にんなじに比定する説がある。そのほか阿用山・須我すが山・船岡ふなおか山・御室みむろ山・笶村やむら山、海潮川・佐世小川・須我小川・幡屋はたや小川、木垣きがき坂は当町および隣接町村に比定され、佐世社(佐世神社)世裡陀せりだ(西利太神社)得塩うしお(海潮神社)加多かた(加多神社)等々呂吉とどろき社・日原ひはら社・幡屋社・春殖はるえ社・船林ふなばやし社・阿用社・置谷おきたに社・伊佐山いさやま社・須我社・川原かわはら社・除川よきかわ社が当町域に存在する(括弧内は「延喜式」神名帳の表記)

大東町
だいとうちよう

面積:二七八・四四平方キロ

東磐井郡の北部に位置し、北は江刺市・気仙けせん住田すみた町、南は千厩せんまや町、東は陸前高田りくぜんたかた市、西は東山ひがしやま町。三方を大鉢森おおはちもり(六三四メートル)蓬莱ほうらい(七八七・八メートル)阿原あばら(七八二・一メートル)原台はらだい(八九四・七メートル)室根むろね山などに囲まれ、砂鉄さてつ川とその支流興田おきた川・鳥海とりうみ川・猿沢さるさわ川が南流、南部を室根山麓から発する曾慶そけい川が西流する。

大東町
おおひがしちよう

上京区一条通御前通西入

町の北寄りを一条通(旧一条大路)が通り、町の西は天神通(旧西靫負小路)。一条通付近は平安京の一条大路(一〇丈、約三〇メートル)にあたり、他の町域は右京北辺の官衙町の一つ「筑紫町」の地(「拾芥抄」西京図)。平安中期以後は一条大路西大宮大路西南の地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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