下閉伊郡(読み)しもへいぐん

日本歴史地名大系 「下閉伊郡」の解説

下閉伊郡
しもへいぐん

面積:二四〇四・三三平方キロ(境界未定)
山田やまだ町・新里にいさと村・川井かわい村・岩泉いわいずみ町・田老たろう町・田野畑たのはた村・普代ふだい

県の東方ほぼ中央に位置する。東は太平洋に面し、北は九戸郡野田のだ村・山形やまがた村、久慈市、西から南にかけて北上高地を境に岩手郡葛巻くずまき町・玉山たまやま村、盛岡市、稗貫ひえぬき大迫おおはさま町、遠野市、上閉伊郡大槌おおつち町と接し、南東部で宮古市を囲む。大半を北上高地が占めており、遠別とおべつ(一二四一メートル)阿部館あべだて(一二一八・四メートル)青松葉あおまつば(一三六五・六メートル)早池峰はやちね(一九一三・六メートル)などの高山が峰を連ね、その間に平庭ひらにわ区界くざかい大川おおかわなどの高原が点在する。西部の山地を源とする安家あつか川・小本おもと川・摂待せつたい川・田老川・閉伊川などがほぼ東流し太平洋に注いでおり、海岸には隆起段丘が続き、国立公園陸中海岸特有の豪壮な海食崖がみられる。海岸段丘の隆起速度は北部が早く、安家川や田野畑村真木まぎ沢・松前まつまえ沢などでは河川の浸食は下方に進んで深い峡谷をつくっている。一方、緩慢に隆起した小本海岸以南の小本川・摂待川・田老川などの谷は側方浸食も進んでおり、南部ほど河川付近の平坦面は広い。

〔原始・古代〕

原始時代の遺跡は普代川・小本川・田老川・津軽石つがるいし川の流域および海岸段丘上に濃密に分布する。大部分が縄文時代のもので、早期から晩期に至っているが、とくに中期のものが多く大半を占める。普代村不行道ふぎようどう遺跡・太田名部おおたなべ遺跡、田野畑つくえ遺跡・和野わの遺跡・切牛きりうし遺跡、岩泉町茂師もし遺跡、田老町水沢みずさわ遺跡・小堀内こぼりない遺跡・樫内かしない遺跡、山田町上台うわだい遺跡・四十八坂しじゆうはつさか遺跡などいずれも海岸段丘上に形成されており、和野遺跡には環状列石がみられる。岩泉町には瓢箪穴ひようたんあな洞穴・赤穴あかあな洞穴などの石灰岩層にできた洞穴遺跡が多い。閉伊川上流では川井村に下川井遺跡・江繋えつなぎ遺跡、新里村和井内わいない遺跡・刈屋かりや遺跡・腹帯はらたい遺跡などがある。弥生時代の遺跡はごくまれである。土師器須恵器を出土する古代の遺跡は山田町立神館たてがみたて遺跡・沢田さわだ遺跡、川井村道又みちまた遺跡、田野畑村羅賀らが遺跡・島越しまのこし遺跡などにみられるのみで、遺跡の規模も小さい。郡内各地に坂上田村麻呂による蝦夷進攻の説話や神社仏閣建立の伝承が数多く残されている。前九年の役において源頼義・義家に討たれ閉伊の地に逃れ隠れたという安倍氏一族の説話も残る。

〔中世〕

源頼朝の奥羽平定ののち、閉伊郡のうち沿岸部は源氏ゆかりの閉伊頼基に与えられたという。頼基ははじめ釜石近辺に拠るが、のち船越ふなこし沼田ぬまた(現山田町)に移る(「尾崎明神縁起」盛岡市中央公民館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報