富山村(読み)とみやまむら

日本歴史地名大系 「富山村」の解説

富山村
とみやまむら

[現在地名]高山町富山

宮下みやげ村の北にある。村域は南北に細長く肝属川支流中山なかやま川の浸食によって形成された南北に連なる狭小な低地のほかはシラス台地となっている。北部を志布志しぶし筋が東西に通り、東は串良くしら上小原かみおばる(現串良町)、南西は姶良あいら下名しもんみよう(現吾平町)。古くは宮下村も富山村に含まれたといい(高山名勝志)、また村名は古くは鳥見山とも記したとされる(高山郷土誌)。建武元年(一三三四)七月日の島津庄謀反人交名注文(旧記雑録)には島津庄日向方みなみ(現末吉町)で北条高時一族に同意して濫妨狼藉を行ったとされる人々のなかに、串良院地頭津野四郎兵衛入道・松崎平次郎らと並んで富山十郎義治の名がみえる。

富山村
とみやまむら

[現在地名]西那須野町西富山にしとみやま

北は上・下の井口いぐち村、南は高柳たかやなぎ村、西に周辺の村の入会秣場の西原にしはらが広がる。蟇沼ひきぬま用水が北西から南東へ貫流する。天正一八年(一五九〇)大田原晴清が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「とミ山」がみえ、遅沢おそざわ・高柳・南郷屋みなみごうや中内なかうち笹沼ささぬま(現黒磯市)とともに三二石五斗余(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領。大田原宿の定助郷村で勤高五石余(宝暦一四年「大田原宿助郷帳」印南敬二郎文書)

富山村
とみやまむら

[現在地名]宇佐市富山

五十石ごじつこく川を挟んで敷田しきだ村の西、通称天津あまつ台地の上にあり、西は下毛郡植野うえの(現中津市)。村の東端から北端をめぐるように五十石川が曲流する。江戸時代後期にそれまで敷田村分の荒野であった若山わかやま飛永とびながなどの地を開発成立した新田村で、開発は尾永井おながい村の庄屋本多威太夫の主導によって進められた。中津藩領。藩の許可を得た威太夫は入植者の耕地を等しく一戸七反とすることなどを決め、用水路建設から開発に取りかかった。藩はこれを御仕組村と位置付け、家作料・農具馬代や食料の大麦・小麦・種籾などを貸付けている。文化一二年(一八一五)には出百姓が七軒、同年の見取米は一二石余となり、文政元年(一八一八)には「飛永并古田出百姓見分上納」の高が二二石五斗余、同三年には飛永分の取米が二九石七斗ほどになっている。

富山村
とみやまむら

[現在地名]伊自良村小倉こぐら

東を伊自良川が南流し、南は四日市場よつかいちば村、北は小倉村。もと伊自良村のうちで、元禄郷帳には長滝ながたき村枝郷で、高九一石余、幕府領と記される。しかし明治大学刑事博物館本元禄郷帳では同高で、同じく長滝村枝郷だが、尾張藩領とする。当村の支配関係は複雑で、東光寺古文書(東光寺蔵)には「岡田将監様御支配之節長滝村に富山を少々添へ尾州へ御引渡被成候(中略)大岡、大門、富山は掛村支郷に御座候」とあり、富山は元和五年(一六一九)幕府領から一部が尾張藩領となり、ほかはかけ村の支郷(幕府領)として残った。「濃州徇行記」は「全体富山本郷は長滝村と掛村と入合の支邑なり」とし、明治二年(一八六九)の掛村明細帳も「当村飛地四ケ所 但富山江壱里」としている。

富山村
とみやまむら

[現在地名]南郷村富山

片貝かたかい村の西、伊南いな川右岸の段丘上にあり、集落は沼田街道に沿う。東の上富山と西の下富山からなる。和泉田組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「富山 百四十七石三斗六升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で免四ツ二分。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一五一石余。天明八年(一七八八)の家数一四(うち空家二)・人数六八(「廻国使案内手鑑」馬場家文書)。化政期の家数は上富山四・下富山一二(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一六・人数七六(人員録)。同八年片貝村に合併。山野の少ない当村は、西の下山しもやま村の山に寛文八年(一六六八)に入会の取決めをしていたが、場所や分量が不明のため出入が起こり、享保一六年(一七三一)和談が成立した。

富山村
とみやまむら

面積:三四・七一平方キロ

県の東北端にあり、東は天竜てんりゆう川に沿って静岡県磐田いわた水窪みさくぼ町・佐久間さくま町に対し、北は八岳やたけ山を境として長野県下伊那しもいな郡天龍村と接し、西と南は豊根とよね村に囲まれている。村内にはほとんど平地はなく、天竜川に沿った急峻な山地である。近世初頭の検地でも豊根村と合わせて「奥村一七ケ村」と一本で村高が表示されており、そのなかの河内こうち市原いちはら大谷おおたに佐太さたの四つの村落であった。

富山村
とみやまむら

[現在地名]馬頭町富山

矢又やまた村の南、那珂川左岸に位置。北西は松野まつの村、集落は那珂川支流の富山川の谷間に発達。明応九年(一五〇〇)一一月朔日の結城政朝寄進状写(八槻文書)にみえる「武茂之内河口」は、西端の字川口と考えられる。近世当初は松野村のうちで入山いりやま新田と称していたが、のち分村、明和四年(一七六七)富山村に改めたと伝える(水府志料)。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)には「松野村、入山共ニ」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報