島津庄(読み)しまづのしよう

日本歴史地名大系 「島津庄」の解説

島津庄
しまづのしよう

日向・大隅・薩摩三ヵ国にまたがる摂関家領庄園。総面積は八千町を超え、規模としては国内最大である。庄域は主として現在の宮崎県南部から鹿児島県域の大隅半島中・東部、薩摩半島のほぼ全域に及ぶ。

〔成立過程と平季基〕

島津庄の成立については同時代史料は存在しない。しかし正応四年(一二九一)と推定される島津庄庄官等申状(旧記雑録)には、万寿年中(一〇二四―二八)に「無主荒野之地」を開発し、宇治関白家(藤原頼通)に寄進して成立したと記される。長元年中(一〇二八―三七)には伊勢太神宮(現都城市の神柱宮)が勧請されるとともに「宇佐八幡宮」以下五社が庄鎮守として勧請され、庄の題額寺として常楽じようらく寺が建立された(同申状)。なお「庄内地理志」によると、常楽寺は横市よこいち(現都城市)にあったと考えられる。寄進者については、建暦三年(一二一三)四月日の僧智恵愁状案(長谷場文書)に「御庄建立主平大監季基朝臣」と記される。この平季基については、長元二年八月七日の大宰府宛の太政官符(「小右記」同年八月二一日条)に「大監従五位下平朝臣季基」とみえ、季基は大宰大監であることが確認される。

前掲太政官符案によれば、季基は子息兼光・兼助とともに大隅国庁・守館・官舎などや散位藤原良孝の住宅を焼亡させ、財物を奪い取り雑人を殺害したことにより大隅国司から訴えられている。「小右記」長元二年九月五日条には、大隅国司の訴えに対して、前大宰大弐藤原惟憲が季基から絹三千余疋を責取る代りに大宰府解文から季基の名前を除き、兼光の名前のみを同解文に載せたこと、惟憲は同解文に記載されていない季基を召出すことに反対したが、結局大隅国解に基づき季基の京都への召出が決定したことなどが記される。季基は翌三年一月二三日に左衛門陣に出頭させられている(日本紀略)。万寿年間の大宰府において、季基は大宰大監、惟憲は大宰大弐で、惟憲は季基の上司であった(万寿三年三月二三日・同四年九月四日「大宰府解文」類聚符宣抄)。惟憲は摂関家の家司であり(「小右記」長元二年九月五日条など)、季基が島津庄を藤原頼通に寄進した理由は惟憲との人的関係によると考えられる。また季基が寄進した相手が藤原道長ではなく頼通であることから、季基の寄進時期は道長が死去した万寿四年一二月四日以降であると推測される。

平季基が寄進した地域は、日向国建久図田帳(写、島津家文書)に島津庄の一円庄として記載されている島津院三〇〇町(現都城市郡元付近)の部分が該当すると考えられる。

島津庄
しまづのしよう

南九州日向・大隅・薩摩三ヵ国にまたがる摂関家近衛家領庄園。庄域は現在の宮崎県南部を中心に鹿児島・宮崎両県の広範囲に及んだ。

〔庄の成立〕

成立を直接示す史料はないが、「三国名勝図会」所収の神柱かんばしら大明神(現宮崎県都城市の神柱宮)の旧記に万寿三年(一〇二六)一月二〇日、平大監季基が当地を領し、移住の日に崇むる所なりとあることや、正応四年(一二九一)と推定される島津庄々官等申状(旧記雑録)に、島津本庄は万寿年中に無主の荒野の地を開発して庄と号し、宇治関白家(藤原頼通)に寄進したとあり、また庄号以後二六〇余歳などとあるところから、おおむね万寿三年頃の開創とみられる。平季基は建暦三年(一二一三)四月日の僧智恵申状(長谷場文書)に「御庄建立主平大監季基朝臣之御子息平五大夫兼輔朝臣」とあって、庄創立者と目されており、また当時大宰大監であったことは、万寿三年三月二三日や翌四年九月四日の大宰府解(類聚符宣抄)に「従五位下行大監平朝臣季基」とあることから明らかである。さらに長元二年(一〇二九)八月七日の太政官符案(「小右記」同月二一日条)によれば、「大監従五位下平朝臣季基并男散位従五位下兼光及兼助等」が大隅国庁・守館・官舎・民烟ならびに散位藤原良孝の住宅を焼亡し、財物を略奪、雑人を殺害したことにより大隅国司から訴えられている。そして「小右記」同年九月五日条によれば、国司の任期切れなどを理由に大宰府解では季基の名が被告人から除かれているが、これは前大宰大弐藤原惟憲の季基の請託にこたえた配慮があったのであろう。結局は「日本紀略」同三年正月二三日条にみえるように京都に召喚されたものの、処分は免れたものらしい。季基は上司惟憲らの権威を借り、開発した私有地を摂関家に寄進、その権威を借りて近隣の国司の干渉を退け、かつ財力を生かして庄園の基礎を固め、その拡大を図っていったことがうかがえる。

平季基の最初の開発地・寄進地は庄号からみて、古代西海道の日向国島津駅付近であったことは疑いなく、その故地とされる現宮崎県都城市郡元こおりもとを中心としたとみられる島津院や、伊勢神宮を勧請して創建された神柱宮の旧所在地、現同市梅北うめきた益貫ますのきを含むみなみ郷およびなかん郷などであろう。さらに隣接するほん(現都城市)三俣みまた(現宮崎県北諸県郡)財部たからべ郷などもほぼ同時期、または比較的早い時期に庄域化し、一円庄として当庄の中核を構成したものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報