宣教師追放令(読み)せんきょうしついほうれい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宣教師追放令」の意味・わかりやすい解説

宣教師追放令
せんきょうしついほうれい

1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉が発令した、キリスト教宣教師(伴天連(バテレン))に国外退去などを命じた法令。秀吉は従来キリスト教布教に好意的な態度を示していたが、87年、薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津氏を降(くだ)して九州を平定し、その帰途、博多(はかた)の陣中において同法令を発令した。6月19日夜、秀吉は博多在陣中のキリシタン大名高山右近(うこん)に棄教を強制し、右近がこれを拒否すると改易に処し、さらにイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリヨのもとに使者を送り、布教によるキリスト教信仰強制、神社・仏寺の破壊、牛馬を食用とすること、ポルトガル人による日本人奴隷の売買などを詰問した。コエリヨはこれに対し釈明を行ったが聞き入れられず、翌6月20日朝、19日付けで5か条の定(さだめ)が通告された。この定は一般にバテレン追放令とよばれ、長崎県平戸(ひらど)の松浦史料博物館に写本が残されている。その内容は、(1)キリスト教を邪教としてその布教を禁止し、宣教師の追放を命じたこと、(2)教会黒船を区別して商・教分離の方針を打ち出したこと、(3)給人(きゅうにん)の知行(ちぎょう)を当座のこととして集権的封建体制を宣言したことなどである。

 なお5か条の定による追放令に関連して、6月18日付けの11か条の覚(おぼえ)があり、伊勢(いせ)神宮文庫所蔵の写本『御朱印師職古格(ごしゅいんししきこかく)』に収録されている。しかし神宮のみに進達された可能性もあるので、現段階では18日令の検討は慎重でなければならない。

 秀吉による宣教師追放令発令の原因については、(1)イエズス会の日本への領土的野心説、(2)キリシタン勢力の本願寺(=一向一揆(いっこういっき))的性格説、(3)キリスト教が日本の国法、伝統、宗教を否定するものであったという日本神国説、(4)ポルトガル船の博多湾への廻航(かいこう)拒絶、ポルトガル人の日本人奴隷売買、不品行などポルトガル商人の失策説、(5)秀吉側近の施薬院全宗(せやくいんぜんそう)ら反キリシタン勢力による画策説、(6)キリシタン勢力の神社・仏寺破壊など、過激な活動によるものとする説、(7)教会領長崎の没収を目的とする説、などがあげられている。この追放令によって各地の教会などは没収、破壊されたが、宣教師は九州各地のキリシタン大名の領内に潜伏し、「追放」を事実上空文と化した。しかしこの法令はけっして撤回されず、徳川政権の禁教令に受け継がれた。

[村井早苗]

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