天祐寺(読み)てんゆうじ

日本歴史地名大系 「天祐寺」の解説

天祐寺
てんゆうじ

[現在地名]諫早市西小路町

本明ほんみよう川右岸にある曹洞宗寺院。坤松山と号し、法人上は天祐禅寺とする。本尊釈迦如来。行基が温泉山満明まんみよう(現小浜町)などを開創した際に当地に真言系の寺院を建立したと伝えるが、明応年間(一四九二―一五〇一)雪舟に水墨画を学んだ春岡揚富が伊佐早いさはや領主の西郷尚善の援助によって当寺を創建したとされている。大永六年(一五二六)・天文一〇年(一五四一)・天正一〇年(一五八二)の六地蔵石幢があり、天文一〇年銘の地蔵には「林翁源松禅定門寿位」と記される。

天祐寺
てんゆうじ

[現在地名]今治市町谷

楠谷くすだににある。竜徳山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。縁起によると、創建は寛永一二年(一六三五)九月で、拝志はいし町の年寄役三宅川常定による。旧地ひがし(寺河原)真光しんこう寺の傍らで、高市たかいち円光えんこう寺の末であった。明治六年(一八七三)頓田とんだ川の氾濫によって大破し、現地に移転、同八年に再建された。

境内の「三宅川氏思源碑」によると、三宅川氏の祖通房は伊勢の宮川みやがわ(現三重県多気郡)を領していたが、文明三年(一四七一)通常の時、一条兼定の招きに応じて赤岡(現高知県香美郡)に転じた。

天祐寺
てんゆうじ

[現在地名]函館市青柳町

函館山の東麓、函館護国神社・函館公園などがある一角に所在する。天台宗、福聚山と号し、本尊薬師如来。嘉永年間(一八四八―五四)松前の智周房広照が現在地に一庵を結んで天祐庵と称したのに始まる。慶応年間(一八六五―六八)蝦夷三官寺の一つとうじゆ(現様似町)の休泊所となったが、同院が明治九年(一八七六)廃寺となったため同院の東照宮を当寺に移し、一時寺称を襲用した。

天祐寺
てんゆうじ

[現在地名]佐賀市多布施三丁目

寛永(一六二四―四四)以後の佐賀城下図をみると、城下の北の外堀の役割を果す十間堀じつけんぼり川の外に東西に対称的に二つの寺院が配置されている。ともに周囲を堀で囲まれた小さな出城的な意味をもっていて、東が真言宗清心せいしん(現大財二丁目)、西が曹洞宗の大竜山天祐寺である。慶長年間(一五九六―一六一五)の城下絵図には、清心院は記されているが天祐寺は記載がない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報