大西村(読み)おおにしむら

日本歴史地名大系 「大西村」の解説

大西村
おおにしむら

[現在地名]福光町大西

西山田新にしやまだしん村の南西、立野たてのはら丘陵の北部の緩やかな段丘上にあり、大井おおい川が北西流する。中世末に開墾に着手されたと伝え、慶長年間(一五九六―一六一五)に伊東左衛門という武士が関東から来住し、本格的な開墾を進めたといわれる(福光町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、田中久三郎組に属し、役家数九。正保郷帳では市野沢いちのさわ村と一括されて高四六五石余、田方二八町余・畑方三町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五一七石、免四ツ、小物成は山役二八匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)の大西先組覚帳(福光町立図書館蔵)によると家数二二・人数一三七。

大西村
だいさいむら

[現在地名]加茂町大西

東は高麻たかさの山を境に仁和寺にんなじ(現大東町)、南西は南加茂村、北西は加茂中村。中央をあか川が流れる。中世には大西庄が成立しており、庄域は現在の猪尾いのおから大西までを含む地域と考えられる。庄内の地名として猪尾谷いのおだに村東方・同西方・久木ひさぎがみえる。貞永元年(一二三二)八月一九日の関東下知状(賀茂別雷神社文書)に「大西庄司」とみえ、承久の乱で勲功のあった伊北胤明とその子時胤親子は大西庄司跡を理由として、京都上賀茂社領である福田ふくだ庄に狼藉に及んでいる。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳の一〇番に「大西庄廿二丁」とあり、地頭は飯沼四郎の子。

大西村
おおにしむら

[現在地名]尼崎市大西町一―三丁目・三反田町さんたんだちよう二―三丁目・名神町めいしんちよう一丁目・立花町たちばなちよう三丁目・かみ島町しまちよう三丁目・栗山町くりやまちよう二丁目

栗山村の南、庄下しようげ川上流西岸にある。慶長国絵図には生嶋いくしまと肩書して村名がみえ、上之嶋かみのしま村など三村と一括で高一千八一三石余(→上之嶋村。正保郷帳によると高三一六石余。用水は武庫むこ川水系生嶋井掛り(尼崎市史)。天明八年(一七八八)には家数二七・人数一三二、牛一一、高札一。氏神は栗山村弁財天、ほかに熊野権現。庄屋一・年寄二(「巡見使通行用留帳」岡本家文書)。天保九年(一八三八)には水車一・船一がみえる(「巡見使通行用留」同文書)。明治一四年(一八八一)の耕地反別二五町七反余、うち田二五町六反・畑一反余、小麦作一町九反余・裸麦作八町五反余・菜種作一二町一反余・蚕豆作三町一反余(「上ノ嶋組七ヵ村裏作反別届」上之嶋村文書)

大西村
おおにしむら

[現在地名]豊前市大西

おお村・青畑あおはた村の東に位置し、求菩提くぼて山の北東麓丘陵および平坦地に立地する。江戸時代は初め小倉藩領、貞享二年(一六八五)一部が小倉新田藩領に分割され、元禄国絵図・天保郷帳などでは大西村一村で高付されたが、領内においては上大西が小倉藩領、下大西が小倉新田藩領となった(築上郡史)。元和八年人畜改帳に村名がみえ御蔵納分と御姫様分、家数二八・人数三九(うち百姓九・名子六)、牛九・馬一。元禄豊前国高帳では高五〇五石余、小倉・小倉新田両藩領とある。小倉藩領分は寛政七年(一七九五)の村々明細帳(友枝文書)によれば免二ツ八分、高二九八石余、反別田一六町八反余・畠三町八反余、家数二四、うち本村一〇・市楽一二・鬼ヶ平二、人数一〇九、牛九・馬四、薪歩行札・薪馬札・猪口酒札各一、池尾いけお池など池三。

大西村
おおにしむら

[現在地名]園部町大西

明治九年(一八七六)大坪おおつぼ村と西山にしやま村が合併して成立した村。東西の村境は丘陵性山地で、東は東半田ひがしはんだ村・西半田村、南は宍人ししうど村、西は下新江しもにえ村、北は船坂ふなさか村である。北流する本梅ほんめ川が園部川に合流する手前東岸が大坪村、西岸に位置するのが西山村である。

二村とも園部藩領。大坪村の村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳に一五四石余、天保郷帳には二一四石余と約四割増加。幕末の家数二九、人口一一〇(「口丹波風土記」所引園部藩記録)。西山村は元禄郷帳に一五四石余、天保郷帳にはこちらも六割増の二四五石余と記す。幕末の家数二七、人口一三七(園部藩記録)

大西村
おおにしむら

[現在地名]物部村大西

久保くぼ村の西南、上韮生かみにろう川上流に近い北岸に位置する小村で、西は中上なかうえ村、南対岸は南池みなみいけ村。北方には八〇〇―一〇〇〇メートル級の山々が連なる。「土佐州郡志」には「東西六町南北五町、戸凡十八、其土黒、大西・下奈路、惣名大西村也」と記す。

韮生郷に属し、天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は太西ノ村として六筆二町四反四五代を記す。うち田分は一町九反一〇代・畠屋敷は三筆五反三五代で居屋敷の記載はない。すべて太西名とされ、大西孫兵衛の扣地。大西氏は大西名を伝領してきたものと思われ、「土ゐノ前一坪」とある一町三〇代(うち田分九反・山畠屋敷一反三〇代)の地に居住していたのであろう。

元禄地払帳によると本田高二四・九石、新田高六〇・一〇七石。

大西村
おおにしむら

[現在地名]久々野町大西

飛騨川右岸にあり、同川を挟んで南は柳島やなじま村、北から西にかけてくらい山分水嶺山脈の尾根が続く。矢萩やはぎ谷となかの谷が飛騨川に流れ込む緩傾地の温暖な土地。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえる(→久須母村。元禄検地反歩帳では益田ました阿多野あだの郷に載り、高一一〇石余、田四町七反余・畑一一町五反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割九分一厘、家数三〇、うち百姓二五・家抱五。天明八年(一七八八)の田七七石余・畑六三石余、反別田八町二反余・畑一二町六反余、家数三三、猟師鉄砲二(村明細帳)

大西村
おおにしむら

[現在地名]桜井市大字大西

初瀬はせ川西岸、大泉おいずみ村北方に所在。慶長郷帳にみる村高は七九六・四九石。慶長五年(一六〇〇)以降織田有楽(長益)領。元和元年(一六一五)長益は所領(三万石余)を三分して、四男長政(戒重藩一万石)、五男尚長(柳本藩一万石)と養老料(一万石)に分知した。その結果、大西村は分割され戒重藩領六〇〇石、柳本藩領一九六・四九石の相給地となり、廃藩置県に至った。

大西村
おおにしむら

[現在地名]大分市角子原つのごばる

大野川右岸のデルタ上に位置し、北はきた村、南東は角子原村。村内を伊予街道が通る。「肥後国誌」によれば「大塚村田淵村・奥シヤウシ村・カウジ村・久保井路村」などの小村がある。「豊後国志」に大西おおざい村・小西こざい村が載り、両村を大佐井おおざい郷・小佐井こざい郷の遺称地とする説がある。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で関手永のうち。

大西村
おおにしむら

[現在地名]富来町大西

富来川下流左岸、小室おもろ村の東に位置する。天文一〇年(一五四一)四月の諸職料田支配状(気多大宮司家文書)によると、気多社公文職支配の毎年役に「大西むら」が四〇〇文を納入している。正保郷帳では東方山中の広地ひろじ村と合せて高付され、高三四二石余、田二〇町七反余・畑二町余、免三ツ二歩。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には大西村の高一八一石、免五ツ、小物成は山役七四匁・苦竹役二五匁、鳥役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)

大西村
おおにしむら

[現在地名]山添村大字大西

春日かすが村西部の丘麓に位置する。慶長郷帳に大西村の名がみえ、村高は一七〇・五四石。元和郷帳には「山辺郡畑六ケ村ノ内大西村」とある。江戸時代を通じて旗本奥田氏(忠高系)領。

大西村
おおにしむら

[現在地名]金屋町大西

大薗おおその村の西にある小村で、慶長検地高目録には村名はない。「続風土記」に「此村尾上村より分れたる村なり」とあり、慶安(一六四八―五二)頃の分村という(金屋町誌)。天保郷帳では三九石余。石垣組に属し、「続風土記」では家数七、人数四〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報