大神庄(読み)おおがのしよう

日本歴史地名大系 「大神庄」の解説

大神庄
おおがのしよう

古代の速見郡大神郷(和名抄)の地に成立した庄園で、「大神・藤原庄」ともよばれた(文和元年一一月二二日「足利義詮袖判下文」大友家文書録)。現日出町大神・藤原ふじわら真那井まない一帯に比定される。

宇佐宮神宮寺弥勒寺領で、文治元年(一一八五)四月一三日の後白河院庁下文案(益永家記録)に「浦部拾伍箇庄」の一として日出庄などとともに大神庄とみえる。浦部十五箇庄は一二世紀半ばから豊後国司源兼季や知行国主藤原頼輔の乱妨押領にあっていたが、このとき寺家の訴えにより院庁は寺家に返付するよう命じている。ただ当時、弥勒寺領は実質的には山城石清水いわしみず八幡宮領となっており、鎌倉時代初頭の別当善法寺祐清のときには弥勒寺領はその子息子女に分割され、領家が置かれ、預所なども設置されるようになった。当庄もこのとき祐清の娘薬師姫を領家とする庄園となった(承久二年一二月日「検校祐清譲状」石清水文書)。また新庄があり、弥勒寺領西宝塔院家庄に組込まれていた(文永七年三月日「善法寺宮清弥勒寺領注進抜書」同文書)

大神庄
おおかみのしよう

久安四年(一一四八)の東大寺領大和国雑役免顛倒注進(東大寺文書)に「注進 雑役免内顛倒庄々」として「大神庄二町五段号三和庄 元東南院御領也、而相博黒田新庄之後、伝領遠江入道子信基山階寺僧、死去之後、譲与住京女人了云々」とある。

これによると、大神庄はもと東大寺東南院の雑役免田であったことがうかがえる。信基は同庄内の私領主であろう。東大寺領黒田新庄との相博(交換)に関係あると考えられる長承二年(一一三三)の権少僧都大神荘相博券案(東大寺文書)には

<資料は省略されています>

とあり、伊賀国名張なばり中村なかむら(黒田新庄内)との交換によって藤原仲子が私領主となったことがうかがえる。

大神庄
おおかみのしよう

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条所載の乃貢未済庄々注文に「前斎院御領大神庄」とある。前斎院は鳥羽天皇の皇女頌子内親王であろう。本庄について知られている史料はこれだけで、したがって成立・所在はもちろん、オオカミかオオミワか呼称も明らかでない。「越後国式内神社考証」は糸魚川いといがわ大野おおの大神おおかみ社付近に比定して「大野村ヨリ凡二里許水上ニ、大神堂村アレハ、中古マテ此辺惣テ大神荘ニテ」と述べるが、この一帯は沼川ぬのかわ保と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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