平尾村(読み)ひらおむら

日本歴史地名大系 「平尾村」の解説

平尾村
ひらおむら

[現在地名]美原町平尾・さつき野東のひがし一―三丁目・さつき野西のにし二―三丁目

丹南郡に属し、北は小平尾こびらお村。東部は羽曳野はびきの丘陵西斜面にあたり、西部を東除ひがしよけ川がほぼ北流、中央を羽曳野丘陵に水源をもつ同川支流小平尾小こびらおお川が北流する起伏に富んだ地形。羽曳野丘陵中の山田やまだ池南部から西に延びる舌状の台地に、六世紀後半から七世紀前半にかけての一六基の須恵器窯跡群が分布する。窯の年代と村域西部にある平尾遺跡の年代がほぼ合致し、両者の関係が推測される。また南東部の喜志きし(現富田林市)との境に鋳物の型土に適する土があり、小平尾小川と喜志街道の交点より上流部分にタタラばしの字名が残る。なお大坂城石垣の裏込石材に徳治二年(一三〇七)一一月五日の銘をもつ十三重塔の残材があり、銘文にみえる「平尾寺」を平尾遺跡北部の中世寺院庭園遺構にあてる説がある。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]箕面市箕面・箕面一―八丁目・温泉おんせん町・箕面公園みのおこうえん

下止々呂美しもとどろみ村の南に位置する。村の北部は箕面山(三五五メートル)の山地帯で、集落は山地から流出する箕面川の扇状地上にある。地名は元応元年(一三一九)一二月一二日箕面寺請取状(勝尾寺文書)に「平尾報恩寺仏具事」とみえる。中世末には牧之庄まきのしよう(牧村)のうち。文禄三年(一五九四)一〇月の豊島郡牧平尾村検地帳(平尾共有文書)によると、検地面積三二町四反余(うち田方二二町余、畑・屋敷分九町余)で、石高は三七八石余(うち一八石余永代荒)。領主の変遷は牧落まきおち村に同じ。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]中央区平尾一―五丁目・平尾・白金しろがね一―二丁目・大宮おおみや一―二丁目・小笹おざさ一丁目・同五丁目・平和へいわ三丁目・同五丁目・山荘通さんそうどおり三丁目・浄水通じようすいどおり平丘町ひらおかまち平尾浄水町ひらおじようすいまち、南区平和一―二丁目・同四丁目・市崎いちざき一―二丁目

那珂なか郡に所属。春吉はるよし村の南西に位置し、北はしよう村・薬院やくいん村。福岡城下から雑餉隈ざつしよのくま(現大野城市)に至る福岡往還が通っていた。小早川時代の指出前之帳に村名がみえ、田三七町三反余(分米六〇三石余)・畠四町三反余(分大豆二四石)

平尾村
ひらおむら

[現在地名]四日市市平尾町

村の東南に位置し、当村の南東で三滝みたき川に金渓かんだに川が合流する。「満済准后日記」永享三年(一四三一)八月一九日条に「次勢州平尾庄事、可渡北畠中将持康方由、再三被仰処、未及遵行、以外次第也、此両三ケ条事、厳密ニ可仰付赤松由承間、召上原入道仰趣堅申付了」とある。平尾庄を北畠(木造)持康に沙汰付すべきことをおそらく守護土岐氏に命じたが実行されていなかったものと考えられる。長禄二年(一四五八)の伊勢国智積御厨年貢帳(醍醐寺文書)には平尾郷の地名があり、智積ちしやく御厨の荘域に含まれていた。平尾郷には、菊王名四反六〇歩、平三郎名六反、光太郎名一町六反一一〇歩など計一八町四反三〇〇歩の名田・公田・佃・出田などがあった。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]名張市平尾・さくらおかさかえ

簗瀬やなせ村東方の丘陵地にあり、水田となる部分は少ない。嘉暦四年(一三二九)四月日の黒田庄悪党交名注文(東大寺文書)によれば、悪党張本の九郎が「南平尾」に、平七入道の縁者彦二郎が「黒田平尾」に住していた。ここにいう平尾は、現在の平尾より広い地域をさしていると思われる。慶長一八年(一六一三)三月六日付旧案(三国地志)には「簗瀬ひらう」とあり、この頃には簗瀬の一部であったように記される。しかし近世には独立の農村で、今の栄町・ひがし町方面まで耕地が広がっていた。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]長島町平尾

現長島町域の北端に位置する。北および西は大瀬戸うせど(長島海峡)に面し、南は蔵之元くらのもと村、東は浦底うらそこ(現東町)。村の中央を流れる小浜おばま川に沿って内陸部に開けた地域と北西部のリアス海岸の一帯で構成され、「鹿児島県地誌」は字地として塚原つかはら井手山いでのやま小路しようじ母良木ぼらぎはぎみね藤元ふじのもと浜漉はますき桟敷さしきの八集落をあげる。文禄四年(一五九五)四月二六日、対馬の宗義智に与えられた出水郡内知行方目録には長島のうちと冠して村名がみえ、高二三四石余。延享(一七四四―四八)頃の高四一九石余(三州御治世要覧)旧高旧領取調帳では高五九一石余。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]博多区東月隈ひがしつきぐま三丁目・東平尾ひがしひらお一―三丁目・東平尾公園ひがしひらおこうえん一―二丁目・東平尾

席田むしろだ郡に所属。御笠みかさ川中流右岸に位置する。南は下月隈しもつきぐま村、東は糟屋かすや志免しめ(現志免町)。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に「席田郡今田村」がみえる。正応三年(一二九〇)安楽寺(太宰府天満宮)に寄進された筑前国衙領のうちで、平尾村の小字にイマダノマエがあり、同地付近に比定される。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]佐賀市高木瀬町たかきせまち大字長瀬ながせ字平尾

いち川の北にある。正平一六年(一三六一)菊池武光が矢俣越前太郎にあてた施行状(河上神社文書)によれば「佐嘉郡平尾村闕所伍分参 同郡内田畠陸町仏念跡」を国分四郎・高木肥前入道の妨げを止めて下地を社家に与える旨を達している。この平尾村の土地が河上かわかみ神社(現佐賀郡大和町)と在地の豪族である国分氏や高木氏との間で争われていたものである。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]稲城市平尾・平尾一―三丁目

坂浜さかはま村の南にある。西は黒川くろかわ(現神奈川県川崎市麻生区)、西から南にかけて古沢ふるさわ五力田ごりきだ片平かたひら栗木くりきの諸村(現同上)に連なり、東は金程かなほど村・細山ほそやま(現同上)。市域の他の村々が多摩川水系なのに対して、当村は鶴見つるみ川水系に属していた。水田はもっぱら湧水を利用。寛永三年(一六二六)の都筑郡師岡庄平尾村検地帳(馬場家文書)が残り、反別一四町五反余。その後多摩郡府中領に属した。田園簿では田八一石余・畑一〇九石余、旗本黒沢領。寛延三年(一七五〇)同氏は断絶(断家譜)。旧高旧領取調帳では幕府領。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]亀山市両尾ふたお

亀山城の北方、安楽あんらく川北岸の山間に立地する。通称安楽谷五郷の一である。村の北には全山が奇石からなる石尾いしお山がある。地内には中世以来の城殿屋敷・大蔵屋敷とよばれる砦跡があり(三国地志)、平尾某が居守したという(亀山地方郷土史)。近世初期の帰属は明らかでないが、寛永一三年(一六三六)以後は亀山藩領の村に数えられ、翌一四年には内検地が実施された(九九五集)。この内検地では田畑合せて五五町余、村高六八七石余が記録され、茶桑銭六貫余、竹銭四貫余、山年貢として米六石余、二分金二両三歩、銀一一匁三分を上納(九九五集)。伝馬宿入用銀二七匁、新開林(一〇町余)運上金四両、銀一三匁余を納めている(亀山御領分雑記)

平尾村
ひらおむら

[現在地名]上月町福吉ふくよし

蔵垣内くらがいち村の西に位置し、古代―中世の美作道が通る。寛永一七年(一六四〇)来見くるみ村から分村(「平福利神城由来」田住家文書)。江戸時代の領主の変遷は上月村に同じであったが、寛永一七年山崎藩主として入封した松平(松井)康映が甥松井康朗に約五千石を分知、当村は同家領(平福領)となる(「寛政重修諸家譜」など)。天保七年(一八三六)幕府領になったと考えられ(淀村文書など)、弘化元年(一八四四)龍野藩預となり幕末に至る(「龍野藩預地村名帳」脇坂家文書)正保郷帳に村名がみえ、田方一九五石余・畠方四九石余、旱損所の注記がある。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]和歌山市平尾

名草なくさ郡に属し、和田わだ川の上流山東さんどう盆地にあり、南は伊太祈曾いだきそ村。小名東原ひがしはら西原にしはらがある。古代末期から中世にかけて山東庄に含まれ、村内を中世以来の熊野街道(小栗街道)が通る。慶長検地高目録では高五二九石余、小物成七斗六升六合。山東組に属し、「続風土記」は家数五二、人数二一六、社寺としてつま大明神社(現都麻津姫神社)平緒ひらお王子社、小祠五(産土神社・弁財天など)、観音寺(西山浄土宗)を記す。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]吉野町大字平尾

西谷にしたに村の南にある。宇陀・吉野に通ずる交通の要衝。元禄元年(一六八八)芭蕉が北方のほそ峠を越えて吉野に出る途中、当地での句に、

<資料は省略されています>

竜門りゆうもん郷のうち。慶長郷帳では村高二六五・五八石。江戸時代を通じ旗本中坊(左近)氏領。旗本中坊氏領一五ヵ村三千五〇〇石の代官所が設置された。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]垂井町平尾

府中ふちゆう村の北西に位置し、東は青野あおの(現大垣市)。青野地区に美濃国分僧寺跡が検出されているが、国分尼寺は当地願証がんしよう(平尾御坊)周辺に推定されている。僧寺と同様の文様をもつ軒丸瓦などを出土するが、伽藍配置などは未詳。「天文日記」天文二二年(一五五三)二月二日条などに「平尾民部卿」とみえる。「言継卿記」永禄一二年(一五六九)一一月一二日条に「寅刻出立発足、平緒迄一里、次赤坂迄一里」とある。慶長郷帳に村名がみえ、高四八八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本津田秀政領。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]大津市仰木町おうぎちよう

上仰木村の北東にある。中世は仰木庄のうちであったとみられる。寛永石高帳に村名がみえ、高四〇六石余で幕府領。慶安高辻帳では田二九八石余・畑八八石余・永荒一九石余。元禄郷帳では五八七石余。天明村高帳では旗本赤井領二九四石余・同日野根領二一四石余となっている。明和期(一七六四―七二)当地の天台宗華開けかい寺に延暦寺の前大僧正忍達が隠居していたが、当村と下仰木村の大津宿助郷役の休役を幕府に働きかけ免除させている(「光耀山永代録」華開寺文書)。このため同寺では八月の命日に忍達忌を行っている。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]広陵町大字平尾

馬見うまみ丘陵東部、高田たかだ川西方、疋相ひきそ村の南に所在する。小字奈良山ならやまがあるように平たくならした丘陵地域である。天平二〇年(七四八)の弘福寺三綱牒(東寺文書)に「墾田参段壱百玖拾陸歩 廿二条五里十一坊内、墾陸田壱町 廿二条五里十三坊 庄家壱処 同郡大豆村」とあり、平尾・大塚おおつか付近が早くから墾田された。中世の細井戸ほそいど庄に属す。

慶長郷帳・寛永郷帳には「細井戸村」、元和郷帳には「細井戸平尾」、万治三年(一六六〇)の郷帳には「細井戸ノ内平尾村」とみえる。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]大宇陀町大字東平尾ひがしひらお

小和田こわだ村南方に立地。宇太水分神社古図には「平生」とある。

慶長郷帳にみる村高一六七・四九四石。近世初期は幕府領(代官辻子和泉)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、延宝七年(一六七九)幕府領に編入された。この間郡山藩の二割半無地高増政策で村高は二〇九・三六八石となる。寛政七年(一七九五)家数一三、人口六四(男三二、女三二)とみえ、以後歴年の戸口資料が残り、慶応三年(一八六七)家数一八、人口九六(男四九、女四七)、牛二疋の構成であった(大宇陀町史)

平尾村
ひろおむら

[現在地名]明和町平尾

大堀おおほり川左岸、伊勢参宮街道の北方にある。北は中大淀なかおいず村、東は大堀川を越えてかしわ(現伊勢市)、南は参宮街道沿いの上野うえの村、西は斎宮さいくう村に達する。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]西吉野村大字平雄ひらお

むね川流域、茄子原なすはら村の東にある。宗川むねかわ郷のうち。慶長郷帳によると村高一四一・〇六八石、幕府領(代官大久保長安)延宝検地により村高は二七〇・三六六石と倍増した。村内の徳善とくぜん(浄土真宗本願寺派)は乗専開基。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]松浦市調川町つきのかわちよう 平尾免ひらおめん

調川村の北東にあり、今福いまふく川が流れる。北は海に臨む。江戸時代は平戸藩領で、志佐筋に属する。正保国絵図に平尾村とあり、高二六四石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では調川里村内平尾免とある。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳には調川村枝村とあり、高二六四石余。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]玄海町大字平尾

仮屋かりや湾に面する低い台地にある。水利に乏しく、耕地は孟多志もたし溜池などの小さな溜池に頼る。海岸は沈降海岸で、沖の瀬おきのせの暗礁がある。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]愛東町平尾

大覚寺だいかくじ村の南東に位置し、南東から南にかけて小倉おぐら村と接する。北東に東光寺とうこうじ山がある。天正(一五七三―九二)末から慶長五年(一六〇〇)にかけては豊臣氏の支配下で、慶長二〇年か元和三年(一六一七)に彦根藩領となったと推定され、寛永石高帳では高三三七石余。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]勝山町大久保おおくぼ

図師ずし村の北東に位置し、御所ごしよヶ岳北西麓の低丘陵上に集落が形成されている。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高二八七石余、家数二七・人数四五(うち百姓五・名子三)、牛六・馬二。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]大宇陀町大字平尾

宇陀川東岸、野寄のより村北方に立地する。養和元年(一一八一)七月二七日の大和国諸庄米送状(京都大学蔵大東文書)に「宇郡平尾庄」とあり、宇太水分神社古図には「西平生」と記す。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]佐賀市巨勢町こせまち大字修理田しゆりた

高尾たかお宿を抜けて長崎街道を東へ進むと平尾村である。街道の北の水田の中に環濠集落を形成している。正保絵図に村名がみえる。寛政元年(一七八九)の巡見録には石高二〇九石余、家数三〇軒ほど、人数二五〇人ほどと記されている。

平尾村
ひらおむら

[現在地名]豊川市平尾町

「平幡村誌」に「古時稲束・平尾ノ二ケ村ナリシ由」とあり、村域に稲束いなつかと称する所がある。慶長九年(一六〇四)八月の平尾村本田畑帳(寺部幸八氏蔵)によると、田七四町二反余・畑屋敷一〇町六反余で、分米千三六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報