名主(平安後期から中世)(読み)みょうしゅ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

名主(平安後期から中世)
みょうしゅ

平安後期から中世を通じて荘園(しょうえん)・国衙(こくが)領における年貢・公事(くじ)は名(みょう)を単位として収取されたが、名主は名(みょう)ごとに任命された管理・徴税責任者で最末端の荘官である。時代、地域によって名の性格は多少異なるが、畿内(きない)型と中間・遠隔地型の二つの類型に分けられる。畿内の荘園は概して小さく、名は荘園領主側の年中行事や法会(ほうえ)・神事などの繁雑で細かい要求に対応できるように編成されたので、その規模はせいぜい2~3町(1町は約119アール)でほぼ均等に編成されることも多かった。かつてこのような名はそのまま名主の所有・経営体と考えられていたが、それは誤りで、名主を最有力者とする幾人かの百姓の所有・経営地を一つの収納単位として編成したものである。名主は年貢納入の最終責任を負い、名に随時賦課される人夫役や雑公事を名内の百姓に適確に配分して勤めさせる役割を担った。そのような職務を果たす代償として名主は屋敷地の課役免除などの特権を与えられており、村のなかで有利な立場を築く挺子(てこ)となりうる名主の地位は有力農民競望するところであった。名には最初の名主の名前がつけられるのが一般的で、たとえば重遠(しげとお)名、末則(すえのり)名などはよくみかける名前である。いったん定まった名の名前は、たとえ名主が交代しても、荘園領主による名の編成替えが行われるまで長く維持された。

 中間・遠隔地の荘園は大きいものが多く、名の規模は不均等で、4~5反のものから数十町に及ぶものもある。2~3町規模の名では名主の性格は畿内の場合と基本的に変わらないが、山野河川を包み込んだ大規模な名の名主は農民というよりも在地領主的である。名の名前はここでは地名屋号として残ることが多い。

 名主を媒介とし名単位に行われた収取は、早い所では14世紀なかばに変質・解体し始め、しだいに直接耕作者が把握されるようになる。

[安田次郎]

『永原慶二著『日本の中世社会』(1968・岩波書店)』『稲垣泰彦著『日本中世社会史論』(1981・東京大学出版会)』『中野栄夫著『中世荘園史研究の歩み――律令制から鎌倉幕府まで』(1982・新人物往来社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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