精選版 日本国語大辞典 「中間」の意味・読み・例文・類語
ちゅう‐げん【中間】
ちゅう‐かん【中間】
なか‐の‐ま【中間】
なか‐ま【中間】
ちゅう‐ま【中間】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
仲間,中間男とも書く。公家,武家,寺家などに仕える僕従の呼称の一つ。平安時代に現れ(《古今著聞集》),武家社会を通じてひろくみられた。従者のうち侍の下で雑色(ぞうしき)(小者)の上,つまり両者の中間に位置するところから,この名があるともいわれるが(《四季草》《貞丈雑記》),侍,雑色,中間の順に記す例もみられる(《北条重時家訓》)。鎌倉・室町期の武家の中間は〈主人の弓・箭・剣等を持ちて御供に候し,また警護等のことをつとむ〉(《相京職鈔》)とか,〈折烏帽子に小結して,直衣に大帷をかさね,袴に大口をかさねて著るが中間〉とされ(《玉勝間》ほか),御中間といわれて領主の強制執行などの使者もつとめた。侍(殿原(とのばら)・若党・かせ者など)が名字をもつのにたいして,中間は〈名字なき者〉とされた(《小早川家文書》)。戦国期の農村では,〈ちうげんならばかせものになし,百姓ならばちうげんになす〉(《児野文書》)というように,農民が中間からかせ者へと侍身分に取り立てられるのが名誉・恩賞とされ,〈諸奉公人,侍のことは申すに及ばず,中間・小者・あらし子に至るまで〉(《近江水口加藤家文書》)というように,武家の奉公人には侍,中間,小者,荒子の四つの身分序列が一般的に成立していた。なお《日葡辞書》は中間を馬丁とし,《雑兵物語》は〈弓鉄砲の足軽衆や長柄供廻りの中間衆〉と足軽・中間を区別している。
執筆者:藤木 久志 江戸時代には武家奉公人の一種で,足軽と小者の間におかれた。戦時には非戦闘員として小荷駄(こにだ)隊を形成し,平時には雑役に従事した。侍(騎兵)が士分と称されたのに対し,中間は足軽(歩兵)とともに軽輩といわれた。また足軽にはおよそ苗字帯刀が許されたが,中間にはそうしたことはなかった。江戸幕府には540~560余人の中間(役高15俵一人扶持,御目見以下,羽織袴役,譜代席)があった。大・中・小の3組に分かれ,各組に頭1人(若年寄支配,役高80俵持扶持,御目見以下,上下役,焼火間詰,譜代席)がおり,組頭は大組に4人,中・小組に各3人(役料10俵一口)がおかれていた。日ごろは,城内諸門などの番衛として勤仕し,また将軍の遠行に供奉した。ちなみに,このほかにも中間目付,旗指之者,持鑓之者以下分掌も多くあり,役米もまちまちであった。
執筆者:北原 章男
福岡県北部の市。1958年市制。人口4万4210(2010)。中央を遠賀(おんが)川が北流し,西半は低湿な水田地帯,東半は古第三紀夾炭層からなる低い丘陵地で,北九州市八幡西区に接する。1891年の筑豊興業鉄道(現,JR筑豊本線)開通以後,筑豊炭田北部の炭鉱町として発展し,就業者の大半が炭鉱業に従事した。1950年代後半からの石炭合理化政策によって打撃を受け,64年末の大正鉱業中鶴鉱を最後にすべて閉山し,人口も激減した。1960年代中ごろから産炭地域振興のために造成された西部の虫生津(むしようづ)・五楽(ごらく)両工業団地を中心に電機,金属,縫製,建設関係など約30企業が進出した。また北九州市の黒崎に通じる筑豊電鉄沿線の東部丘陵地の住宅地化が進むなど,最近は北九州市の衛星都市としての発展がめざましい。桜の名所垣生(はぶ)公園内には横穴古墳群(羅漢百穴)があり,堀川運河は遠賀川と洞海湾を結び石炭輸送に利用され,唐戸水門がある。
執筆者:土井 仙吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
古くからおもに武家方にみられた軽格の奉公人の一つ。戦国時代に広範に成立し、江戸時代には足軽と小者との中間の身分とされた。足軽、中間、小者は一括して軽輩と称されたが、このうち足軽のみが士分と称される侍(さむらい)・徒士(かち)と同様に戦闘員であったのに対し、中間は小者とともに非戦闘員に属した。戦時には小荷駄(こにだ)隊を形成し、平時には雑務に従った。苗字(みょうじ)帯刀はいっさい許されなかった。江戸幕府には550人前後の中間(役高十五俵一人扶持(ぶち)、御目見(おめみえ)以下、羽織袴(はかま)役、譜代(ふだい)席)があり、大・中・小の三組に編成され、各組に頭(かしら)は1人(若年寄(わかどしより)支配、役高八十俵持(もち)扶持、御目見以下、上下(かみしも)役、焼火間詰(たきびのまづめ)、譜代席)、組頭は大組に4人、中・小組に各3人(役料十俵一口)が置かれていた。城中諸門の勤番、将軍遠行の供奉(ぐぶ)などを役目とした。
[北原章男]
平安時代以降,公家・武家・寺家などに仕えた従者。侍(殿原)と小者(こもの)の中間に位置し主人の弓・箭・剣などをもって供した。江戸時代には仲間とも書き,武家奉公人の一種別で,足軽の下で小者の上。戦時には兵糧・武器の運搬,平時には主人の供廻や諸役所の雑務に従事。農村や城下町から短年季の奉公人として雇用される場合が多く,江戸では人宿(ひとやど)などから供給された。中間頭のもと数組に編成され,藩邸内では中間部屋などの大部屋で集団生活した。また幕府の中間は役高15俵1人扶持,譜代席で540~560人ほどおり,大・中・小の3組に編成されていた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…近世初期以降,都市の発展にともなって出現したもので,とくに江戸に流入する多数の出稼ぎ奉公人に対し,その身元保証,雇入先の斡旋,そして,就職先がきまるまでの宿泊を行う必要があったことから必然的に発生したものと思われる。こうした周旋屋が扱ったのは,おもに武家の下級奉公人である中間(ちゆうげん)や若党(わかとう),一般町家の下男,下女など,1年あるいは半年契約の出替り(でがわり)奉公人であり,芸妓,娼妓などについては,関東で〈女衒(ぜげん)〉と呼んだ専門の周旋人が手がけることが多かった。また,土木工事などに必要な大量労働力の供給は,〈人入れ稼業〉と称して町奴(まちやつこ)が行った。…
…治安対策上,彼らは1657年(明暦3)から86年(貞享3)にかけて弾圧され,ほぼ消滅してしまった。その後賭博を愛好する気風は火消人足や武家奉公の中間(ちゆうげん)に受け継がれた。中間たちは町方(まちかた)の詮索が直接及ばない武家屋敷内の中間部屋で賭博を盛んに行った。…
…奉公人という称呼は,中世では上位の従者,家臣をさすものとして用いられるのが一般的であった。御恩・奉公【佐藤 堅一】
【武家奉公人】
近世初頭までは侍身分の者をも奉公人のうちに加えていたが,江戸時代では将軍や大名,旗本・御家人や大名の家中に雇用された若党(わかとう),足軽,中間(ちゆうげん),小者(こもの),六尺,草履取(ぞうりとり),ときに徒士(かち)などの軽輩をさし,軽き武家奉公人ともいう。その平生の身分は百姓,町人であり,武家奉公中のみ家業として帯刀が許され,奉公さきの家来の取扱いをうけた。…
…1591年(天正19)に豊臣秀吉が全国に発布した3ヵ条の法令。侍,中間(ちゆうげん),小者などの武家奉公人が百姓,町人になること,百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに従事すること,もとの主人から逃亡した奉公人を他の武士が召し抱えることなどを禁止し,違反者は〈成敗(死刑)〉に処するとしている。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をひかえて,武家奉公人と年貢の確保を目的としたものと思われる。…
※「中間」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
1/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
12/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新