畿内(読み)きない

精選版 日本国語大辞典 「畿内」の意味・読み・例文・類語

き‐ない【畿内】

(「畿」は、みやこの意)
[1] 〘名〙 昔中国で、王都を中心として四方五〇〇里の天子直属の地のこと。王城付近の地。〔書言字考節用集(1717)〕〔詩経箋‐大雅・大明〕
[2] 日本で、朝廷のあった主都周辺の四ないし五か国の総称、また、その範囲内に属する地。五か国の場合は、山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)をいう。うちつくに。五畿内(ごきない)
※続日本紀‐慶雲四年(707)七月一七日・宣命「京師・畿内、及び太宰所部諸国

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デジタル大辞泉 「畿内」の意味・読み・例文・類語

き‐ない【畿内】

《「畿」は王城から500里四方の地の意》
皇居に近い地。
京都に近い国々。山城大和河内和泉摂津の5か国。五畿内。きだい

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改訂新版 世界大百科事典 「畿内」の意味・わかりやすい解説

畿内 (きない)

中国,日本などの王城ないし皇居周辺の特別行政区域。日本では大和,河内,摂津,山背(城)の4ヵ国からなり四畿内と呼ばれたが,のち河内国から和泉国が分かれ,五畿内となった。畿内制が定められた時期は大化改新にさかのぼる。大化2年(646)正月に政治改革の基本方針を示す〈改新の詔〉が出されたが,その第2条で京師の制とともに畿内を置くことが定められている。このときの畿内は,大宝令制の国を基礎とする畿内と異なり,東西南北の4地点をあげてその範囲を示している。その4地点は,東は名墾(なばり)(名張)の横河(よかわ),南は紀伊の兄山(せのやま),西は赤石(明石)の櫛淵,北は近江の狭々波合坂山(ささなみのおおさかやま)である。東西南北の4地点をあげて範囲を示す畿内制は,北魏の首都平城で行われた制度を踏襲したものであり,令制の国を単位とする畿内は,東魏の首都鄴で行われた制度にならったものである。大化改新のさいに北魏の平城型の畿内制が採用されたのは,当時まだ国の制度が成立していなかったことによるが,それとともに4地点で示される範囲が,古くから大和政権を構成していた諸豪族の居住地域であったため,特別の行政地域として指定されたのである。なお畿内制の成立時期については,《日本書紀》に載せる〈改新の詔〉の史料的な信憑性がうすいこと,4地点をもって示される地域に特別な関心が向けられるのは672年の壬申の乱以後であることなどを理由として,天武朝であったとする説もある。初期の畿内の行政上の扱いは明らかでないが,大宝令の成立のさい,畿内の人民には租税のうち調の半分と歳役(庸)のすべてを免除する特典が与えられた。また令に,五位以上の官人が休暇畿外に出る場合は,天皇に奏聞して許可をうべきことを規定しているが,これは畿内が官人の常住する特別地域とみられていたことを示している。
五畿七道
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「畿内」の意味・わかりやすい解説

畿内
きない

王城の周辺地域に設定された特別の行政範囲。畿内制は中国の『周礼(しゅらい)』にみえ、古代の北魏(ほくぎ)や東魏などで採用され、日本でもこれに倣って設定された。大化改新の詔(みことのり)(646)では、東は名墾(なばり)の横河(よこかわ)、南は紀伊(き)の兄山(せのやま)、西は赤石(あかし)の櫛淵(くしふち)、北は近江(おうみ)の狭狭波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)に画された範囲を畿内国(うちつくに)としている。692年(持統天皇6)には大倭(やまと)(大和)、河内(かわち)、摂津(せっつ)、山背(やましろ)(山城)の4か国を「四畿内」とし、河内に設置された和泉監(いずみのげん)がいったん廃止ののち757年(天平宝字1)に和泉国となってからは五畿内となった。畿内制が実質的に成立したとみられる7世紀後半の天武(てんむ)朝では、畿内は畿外から軍事的に防衛され、官人を任用する地域であった。大宝令(たいほうりょう)でも畿内では調(ちょう)の半分と庸(よう)が免除されており、天皇側近の地として優遇されていた。

[金田章裕]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畿内」の意味・わかりやすい解説

畿内
きない

中国,朝鮮,日本で,王城,皇居などのある首都周辺の特別区域の名。日本では「うちつくに」ともいう。山城,大和,河内,和泉,摂津の5ヵ国の総称。中国の畿内制を取入れ,8世紀初めの『大宝律令』では,大倭,河内,摂津,山背の4ヵ国を畿内とし,特別の行政区域とした。畿内制成立の時期については諸説がある。畿内の文字の初見は『日本書紀』崇神天皇 10年 10月の条であるが,制度としての畿内制に関する記事の初見は,大化改新の詔の第2条である。それには区域を,東は伊賀国 (三重県) の横河,西は播磨国 (兵庫県) の櫛淵,南は紀伊国 (和歌山県) 兄山,北は近江国 (滋賀県) 狭々波合坂山 (ささなみのおうさかやま) 以内としているが,その後国を単位として区域を構成するようになり,浄御原令制下ではすでに四畿内が成立している。その行政単位である国には若干の変動があり,まず和泉,芳野2監 (げん) の廃置があったが,天平宝字1 (757) 年和泉国を復し,「五畿内」が成立,七道と合せ「五畿七道」として全国をさすようになった。畿内に対する特典として,調の半分と庸のすべてが免除された。その他種々の面において,畿内は中央先進地域としての処遇を受け,長く政治,経済,文化の中心として栄え,明治以後は京都,奈良,大阪,兵庫の各府県に編入された。

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普及版 字通 「畿内」の読み・字形・画数・意味

【畿内】きない

王城の四方五百里の地。〔独断、上〕京師は天子の畿千里、日に象る。日は躔(てんじ)千里なり。

字通「畿」の項目を見る

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「畿内」の解説

畿内
きない

「うちつくに」とも。古代の行政区分。現在の近畿地方の中央部にあたる。山城・大和・河内・和泉・摂津の各国が所属。646年(大化2)の改新の詔で四至の地点を示すかたちで畿内が規定された。中国の王畿の制の影響をうけて,大和政権の存在した大和盆地とその周辺を特定地域として設定。その後,令制の国の成立によって,畿内は大倭(やまと)(大和)・山背(やましろ)・河内・摂津の4国から構成されて四畿内とよばれ,757年(天平宝字元)の和泉国設置以後,五畿内(五畿)とよばれた。律令制度では畿内出身の氏族が律令官人として行政機構を動かし,また課役についても畿外地域とは負担が異なる。臨時の地方官として731年(天平3)に惣管(そうかん)を設置した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「畿内」の解説

畿内
きない

律令制下,山城・大和・河内・和泉・摂津の5国の総称
もともと中国の制で帝都を中心とした一定地域をさす。大化の改新のとき,畿内の制を定め,持統朝には四畿の制が設けられ,ついで757年河内国から和泉国を分立させて五畿とした。畿内の住民は調は半納,庸は免除などの優遇措置がとられた。

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防府市歴史用語集 「畿内」の解説

畿内

旧国名では「山城[やましろ]」「大和[やまと]」「河内[かわち]」「和泉[いずみ]」「摂津[せっつ]」の5国のことです。今の大阪・奈良・京都の一部にあたります。

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百科事典マイペディア 「畿内」の意味・わかりやすい解説

畿内【きない】

五畿七道

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世界大百科事典(旧版)内の畿内の言及

【五畿七道】より

…また日本全国を表す語としても用いられた。五畿は山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内の5ヵ国をさし,七道は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道(各項目参照)をさす。畿内は皇都周辺の特別行政地域として646年(大化2)に設置された。…

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