日本(読み)にほん

百科事典マイペディア 「日本」の意味・わかりやすい解説

日本【にほん】

◎正式名称−日本国Japan。◎面積−37万7970.75km2。◎人口−1億2805万7000人(2010)。◎首都−東京(1316万人,2010)。◎住民−日本人,アイヌ,朝鮮人,中国人など。◎宗教−仏教,神道,キリスト教など。◎言語−日本語(公用語)。◎通貨−円。◎首相−安倍晋三(1954年生れ,2012年12月就任)。◎憲法−1946年11月公布,1947年5月発効。◎国会−二院制。衆議院(定員475,任期4年),参議院(定員242,任期6年)。2016年3月時点の衆議院議席分布−自由民主党290,民主・維新・無所属クラブ92,公明党35,日本共産党21,おおさか維新の会13,生活の党と山本太郎となかまたち2,社会民主党・市民連合2,無所属18,欠員2。2016年3月時点の参議院議席分布−自由民主党116,民主党・新緑風会59,公明党20,日本共産党11,おおさか維新の会7,維新の党5,日本のこころを大切にする党4,日本を元気にする会・無所属会4,社会民主党・護憲連合3,生活の党と山本太郎となかまたち3,無所属クラブ2,新党改革・無所属の会2,各派に属しない議員6。◎GDP−4兆9093億ドル(2008)。◎1人当りGDP−3万3800ドル(2007)。◎農林・漁業就業者比率−3.4%(2003)。◎平均寿命−男79.0歳,女86.0歳(2007)。◎乳児死亡率−2‰(2010)。◎識字率−100%。    *    *アジア大陸の東方に長さは3500km以上,幅は広い所で300kmにわたって北東〜南西に連なる日本列島を占める国。古くは(わ),倭国などと呼ばれ,中国の《漢書》から《隋書》まではこのように表記されている。〈日本〉の国号は律令国家の成立とともに定着したとみられる。読み方は〈にほん〉〈にっぽん〉の二つがあり,1934年文部省は後者に統一することを提案した。現行憲法には〈日本国〉とある。日本の国土は,北海道,本州,四国,九州の4大島と周辺海域の諸島からなる。1968年には小笠原諸島が日本に復帰して東京都に所属,1972年には沖縄が復帰して沖縄県となった。首都は東京都。〔地形〕 日本列島の地形区分は地質構造を基準にして西南日本と東北日本に2大別され,その境界は本州中部を南北に縦断する糸魚川(いといがわ)‐静岡構造線である。西南日本はさらに内帯(北側)と外帯(南側)に分かれ,その境界は長大な断層帯の中央構造線である。地形は地殻運動が激しいため土地の起伏が大きく,多くの断層によって地塁や地溝に区切られ,全体に平地が狭小な山地形を呈する。また新しい地殻運動の結果,河岸段丘,海岸段丘,開析扇状地,隆起三角州,隆起海食台地,海岸平野などが各地に形成されている。東北日本では3列の山地が南北方向に並行に連なる。この山系には北見山地,日高山脈,奥羽山脈,三国山脈,越後山脈,関東山地などの高峻(こうしゅん)な山地と,北上高地,阿武隈高地,出羽山地などの丘陵状山地とがある。西南日本の山系では,紀伊山地,四国山地,九州山地など外帯の山地が高峻で,中国山地,丹波高地など内帯の山地は高原状を呈する。本州中央部には日本アルプスと呼ばれる飛騨山脈(北アルプス),木曾山脈(中央アルプス),赤石山脈(南アルプス)が標高3000m級の高峰をもってそびえ,日本の最高峰富士山(標高3776m)もこの地域にある。火山が多いことも日本の地形の特色で,多くの火山帯があり,最も多いのは成層火山であるが,溶岩円頂丘も多い。火山群にはカルデラが発達するものも多く,特に阿蘇山のカルデラは東西約17km,南北約25kmで世界最大の規模で知られている。 日本の河川は一般に流路が短く勾配(こうばい)が急である。したがって降水は直ちに流下して粗粒の土砂を運搬し,山地の谷口には扇状地の発達が顕著である。その付近では堆積によって河床が上昇し,天井川を作ることも多い。石狩,十勝,北上,最上,阿武隈,利根,信濃,天竜,木曾,淀,吉野,筑後などが大河川で,流域面積の最大は利根川(1万6840km2),最長の川は信濃川(幹川流路延長367km)。海岸線が複雑なことも著しい特色で,その延長は2万8000kmに及ぶ。岩手県太平洋岸,志摩半島,四国西岸,九州北西岸など出入の多いリアス海岸と,山形県,新潟県,鳥取県の日本海岸など砂浜からなる平滑な海岸とが組み合わさっている。日本の平野や盆地はきわめて小規模で,各地に散在する傾向がみられる。いずれも河川の作用による沖積平野であるが,台地と低地とからなる場合が多い。東西約140km,南北約110kmで日本最大の関東平野をはじめ,石狩,越後,濃尾,大阪,筑後などの平野がおもなものである。〔気候〕 年平均気温10〜18℃,年降水量は1000〜2500mm。ユーラシア大陸東岸の温帯に位置し南北に細長い地理的条件により次の特徴をもつ。1.同緯度の大陸西岸よりも冬寒く夏暑い(東岸気候)。2.季節風が卓越し夏は高温多湿(季節風気候)。3.多雨。春雨,梅雨,秋霖(しゅうりん)の3雨季がある。4.冬季の日本海側の大雪と太平洋側の晴天乾燥(明瞭な気候境界)。5.低気圧の通路にあたるため天気の変化が激しい(前線帯気候)。6.温帯に位置し四季の変化に富む(温帯気候)。7.南北の気候の差が大きく二つの気候帯にまたがる。8.大陸の内部に比べると海洋の影響を受けて温和(大陸度40〜50。ある程度海洋性気候)。9.台風常襲国。10.地形が複雑で盆地気候,山岳気候などが複雑に分布し,海陸風などの局地風が発達する。11.台風や梅雨による風水害をはじめ冷害,霜害など気象災害が多い。 日本の気候区分は,区分法によって異なるが,大きな境界が二つある。その一つは日本の背骨を形成する山脈で,これを境に日本海側(岸)式気候と太平洋側(岸)式気候に分けられる。両者の相違は冬季に顕著で,前者は曇った天気が続き雪が多いのに対して,後者では晴天乾燥が続く。この二つの気候の差は北海道から九州にかけて現れ,ところにより両気候が複雑に入り乱れる。もう一つの大きな境界は,ケッペンの気候区分での亜寒帯気候と温帯気候の境界,アリソフの気候区分での中緯度気団地帯と亜熱帯地帯の境界で,両者ともほぼ北緯37°〜38°の線に沿って東西に走る。ただしこの境界線は土地の高低により変形を受けている。この境界の北と南の気候の差は動植物の分布に明瞭に反映されている。〔資源〕 日本には多種多様な地下資源が賦存するが,標本的な量にとどまるものが多く,工業原料資源は国際的にみてきわめて貧弱である。まとまった産出をみるものは石灰石,硫黄,石炭,銅・鉛・亜鉛鉱石などで,近代工業に不可欠な鉄鉱石,ボーキサイト,ニッケル鉱,原油などはほとんどを輸入に依存する。石炭も原料炭(特に製鉄用の強粘結炭)の産出は少なく,産業の拡大と重化学工業化の進展につれて輸入資源の比率が急増している。かつて輸出さえしていた銅が今日では所要原鉱の大部分を海外に求めているのはその一例である。また水力資源は豊富であっても,エネルギー革命原子力発電の実用化とともにエネルギー資源の輸入も増加の一途をたどっている。しかしこのような国内資源の貧弱さが,かえって今日国際的に最も有利な工業立地(臨海コンビナート)を形成させた事情も無視すべきではない。なお最近世界的に注目されている海岸・海底資源(大陸棚の石油資源など)の開発は日本周辺でも緒につきつつあり,成果の実現が期待されている。〔経済〕 日本経済の資本主義化は,明治維新以降,官業創設とその払下げにみられるような殖産興業の強行など,国家の政策的介入によって急速に進められた。20世紀初頭には,安価な労働力利用の上に立つ紡績,製糸などの繊維工業と,軍事的需要を基盤とする鉱山,冶金業などが確立され,日露戦争,第1次大戦を経て1930年代までには機械,化学など近代的産業も確立をみた。この間の資本の集積により主要産業における財閥の支配が完成されたが,一方,寄生地主制が支配的な非近代的農業,中小零細企業が広範に併存し,低賃金,低生活水準,膨大な潜在的失業など,日本経済の二重構造といわれる特性が胚胎された。第2次大戦で日本経済は壊滅的な打撃を受けたが,戦後は驚異的な復興・発展を遂げ,1956年の《経済白書》は〈もはや戦後ではない〉と宣言し,1968年には国民総生産で西ドイツを抜き,米・ソに次ぐ世界第3位を占めるに至った。戦後の経済発展は,農地改革財閥解体と集中排除,独占禁止法制定などの経済民主化を出発点とし,朝鮮戦争で得た巨額の利潤による資本蓄積,技術革新の展開による設備投資を軸とする1960年代の高度経済成長に進んできたものであるが,その実質成長率は年平均10%を超える,世界に例をみない高いものであった。 このような高度成長は一つには民間企業設備投資が常に国民総生産の20%前後を占め,その比重が外国に比べてきわめて高かったこと,また国民総生産が大きくなったとはいえ,1人当り国民所得は小さく(1968年で世界19位),それだけ発展の余地が大きかったこと,および輸出の伸長などにささえられてきたといえる。この高度成長の間,主要産業での大企業への生産の集中は一層進行した。またかつての恒常的な労働力過剰状態から史上初めての労働力不足への転換が招来されるに至り,これをてことする農業の近代化,中小企業の合理化が促進され,二重構造の解消が進んだ。しかし高度成長の結果,先進国中で最高の消費者物価上昇,社会資本の不足,大都市の過密と産業公害,反面での過疎地帯の生成など,高度成長のひずみと称される国民生活上のアンバランスが顕著になった。 1970年代に入ると,主要国間の経済関係の変化のためドルを基軸とする通貨安定制度(IMF)が崩れ,変動為替相場制に移行,世界経済システムの転換期を迎えた。また先進諸国の産業はマイクロエレクトロニクス(ME)技術を中心とするきわめて速いテンポの技術革新の時代に突入した。そこに起こったのが1973年の石油危機で,他の先進諸国と同様,日本経済も不況とインフレの同時進行(スタグフレーション)の状況に陥った。これによる高度経済成長の終焉は多分野に大きな影響を与えたが,その一つは財政である。税収が激減する一方,景気対策のための財政支出は増大したため,多額の赤字国債が発行され,累積する財政赤字が課題となった。国鉄,電電公社,専売公社の分割・民営化や行政改革の方針,1988年の消費税導入はここに発している。また石油危機は企業を雇用調整に向かわせたが,労働組合は賃上げ要求抑制により雇用の確保をはかり,労使協調路線を選択,戦後労働運動に大きな変化をもたらした。さらに省エネルギー化の進行は産業構造の転換をも促進した。製造業における省エネ型の機械工業の比重の増大などがそれだが,とくにエネルギー消費の少ないサービス業人口は,この時期前後からの女性の労働力市場への大量の参入ともあいまって増大した。日本経済はこうした石油危機後に対応する産業調整を迅速に実現したが,これを支えたのはME技術革命を活用した労働生産性の飛躍的な向上であり,またこの技術により日本は機械製品を中心に輸出を急速に伸ばした。これは一方,自動車,半導体などの貿易摩擦をうみ(〈日米自動車協議〉〈日米半導体協定〉参照),対外収支の不均衡は1980年代後半から急速な円高をもたらした。この円高などを背景に,1980年代後半株式や土地,ビルなどへの投機が異常に活発化し,株価・地価の急騰をよんだ。この過剰な〈投資の泡(バブル)〉(バブル経済)は1990年には破裂し,株価・地価は急落,投資家・企業への深刻なダメージ,巨額の不良債権と金融機関への不信を残し(〈不良債権処理問題〉〈破綻金融機関〉),以後21世紀初頭まで不況を長びかせてきた。一方,経済のグローバル化のなかで進展する金融の自由化(〈日本版ビッグバン〉),安価な労働力を求めての企業の海外進出と国内の産業空洞化,雇用を求める外国人労働者の流入など,多様な課題が現れている。さらに構造改革にともなって貧富格差・地方格差が拡大するなか,行政改革,年金制度高齢化社会などの問題も含めて,日本経済は難しい局面に至っている。〔政治〕 日本国憲法は主権在民を宣言し,天皇は日本国および日本国民統合の象徴であってその地位は国民の総意に基づくと定めている(憲法前文,憲法1条)。統治組織は三権分立の原理に基づく。立法権は国権の最高機関たる国会に属し,国会はいずれも公選の代表で組織する衆議院参議院で構成する(憲法41条〜43条)。行政権は内閣総理大臣を長とする内閣に属し,内閣は行政権の行使について国会に責任を負う(憲法65条,66条)。司法権は最高裁判所および法定の下級裁判所に属し,裁判所は違憲立法審査権をもつ(憲法76条,81条)。中央行政機関は1府10省からなり,地方行政は都道府県および市町村が当たる。治安維持は警察が担当し,中央に国家公安委員会警察庁,地方に都道府県公安委員会都道府県警察が置かれる。防衛関係は自衛隊が担当し,防衛省の統括下に陸上・海上・航空自衛隊がある。主要政党は1955年―1993年のあいだ続いた〈55年体制〉のもとでは,保守・革新の二大政党である自由民主党日本社会党を中軸に,民社党日本共産党公明党などであるが,1990年代に多党化と再編がすすみ,新党さきがけ新進党(民社党も合流),民主党などが登場し,社会党は1996年社会民主党と改称した。さらに新進党が1997年末に解党した後,諸党派の再編が進み,1999年には自由民主党,自由党,公明党による〈自自公〉連立政権が出現するにいたった。2000年には自由党から連立政権維持グループが保守党(のち保守新党)として分離し,〈自公保〉連立に変わった。その後2003年の衆院選の前後に,自由党は民主党に加わり,保守新党は自民党に合流し,野党としての民主党の重みが増した。2009年8月の総選挙では民主党が圧勝,民主党・社民党・国民新党による連立政権で歴史的な政権交代を果たしたが,2012年12月の総選挙で民主党は自民党に大敗を喫し,自民・公明が政権を奪還,自公連立による安倍晋三内閣が発足した。〔歴史〕 日本は更新世には大陸と陸続きで,大陸と同様な旧石器文化が展開していたが,沖積世には列島となって,縄文(じょうもん)文化と呼ばれる独自の新石器文化に移行した(縄文時代)。前3−前4世紀ころに,金属器の併用と水稲耕作とを特徴とする弥生(やよい)文化が西日本に起こって東日本へ波及すると(弥生時代),穀物蓄積や灌漑(かんがい)用水統制などが原因となって階級が分化し,各地に司祭者を王とする小国家が成立した。それらはやがて邪馬台(やまたい)国のような地方国家に成長したが,3世紀後半から豪族の連合政権である大和政権が日本統一を始めつつ,4世紀後半から南朝鮮の加羅諸国との外交関係もあった。新たな支配者の権威の象徴として古墳が各地に築造され,大陸や朝鮮から産業技術や漢字が取り入れられて古墳文化が成立した(古墳時代)。6世紀末に仏教が伝来し,7世紀前半の飛鳥(あすか)時代には日本最初の仏教文化が起こった。大和朝廷は隋・唐の東方進出に圧迫されて国政改革の必要を生じ,7世紀後半には大化改新壬申(じんしん)の乱を経て,中国の制度をまね,天皇を政治的・宗教的中心とする中央集権の律令国家が形成された。8−9世紀の奈良時代平安時代初期の文化は大陸文化の影響が顕著で,その傾向は以後も長く続いたが,平安初期には仮名も作られ,中期以後は独自の美的感覚が京都の朝廷貴族の間に生まれて国風文化と呼ばれた。政治的にも律令国家が変質して摂関政治,続いて院政が,荘園を経済的基盤として展開した。 全国各地の豪族は中央集権の衰退に伴い武士に成長,荘園の管理権を握り,12世紀末には源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。鎌倉幕府は13世紀に承久(じょうきゅう)の乱文永・弘安の役で京都朝廷をしのぐ実力を示したが,荘園領主や在地領主を把握(はあく)しきれず,14世紀前半に倒れた。鎌倉時代には奈良・平安以来の仏教をうけて今日の日本仏教の諸宗派が発達した。南北朝時代の動乱を経て,14世紀の中ごろ京都に足利氏の室町幕府が開かれた。この室町時代には守護は領主化して守護大名に成長し,公家武家の文化が融合して東山文化が栄えた。しかし応仁・文明の乱後,守護大名を打倒した戦国大名が各地に割拠する戦国時代となり,古代貴族は没落し幕府権力は衰退した。16世紀中ごろキリスト教と鉄砲が伝わり,キリスト教は宣教師の精力的な布教で浸透,鉄砲は戦国大名の戦術・築城法に決定的な影響を与えた。この戦乱の中から覇権を握った織田信長,次いで豊臣秀吉が天下を統一,太閤(たいこう)検地によって新しい徴税体系と農村の支配体制が確立し,刀狩によって兵農分離が行われた。織豊政権のもとで華麗な安土桃山時代の文化が生まれた。 戦国大名の最後の覇者徳川家康は農村収奪の上に統一国家を再建,江戸幕府を開いた。幕府は幕藩体制のもとに士農工商の身分を固定し,キリスト教禁止を口実に鎖国を行い,のちには儒教的教化も利用しつつ全国支配を強化した。江戸時代の太平の永続は交通・商工業の躍進,町人の台頭,貨幣経済の発展,多数の都市の出現をもたらし,江戸と大坂を中心に元禄文化文化文政時代の文化が栄えた。しかし,経済の実権を握る町人の力は,一方で武士の権威を失墜させ,農民の窮乏化とたび重なる災害は百姓一揆(いっき)を頻発(ひんぱつ)させ,幕藩体制は内部から崩壊し始めた。北方には18世紀半ばからロシアが南下してくるが,幕府は蝦夷地(えぞち)を19世紀初めまでに直轄地として内国に編入した。19世紀中期以降は欧米列強が東洋に進出して日本に開国を迫り,下級武士による尊王攘夷(じょうい)運動倒幕運動が激化して,ついに260余年にわたる江戸幕府は倒れ,明治維新を迎える。 1868年の王政復古によって成立した明治政府は京都朝廷の天皇を頂点とする公家と諸侯,西南雄藩の下級武士を中心とする合体政権であった。彼らは戊辰(ぼしん)戦争で旧幕府勢力を打破し,首都を江戸に移して東京と改め,版籍奉還廃藩置県により中央集権体制を強化した。この間,17世紀以来薩摩藩の支配下で,日清両属の状態にあった琉球を〈琉球処分〉により沖縄県として統合し,また蝦夷地を北海道と改称してアイヌの同化政策をすすめた。こうして政府は文明開化,殖産興業政策を推進し,軍隊・警察をはじめ電信,鉄道,各種工場(官営工業)など官営事業を開始した。1873年の地租改正条例は私的土地所有権の確認と同時に政府の財政的基礎を形成する契機となった。1877年の西南戦争を最後に明治初年以来の不平士族の反乱は鎮圧された。同時に自由民権運動が全国に展開,政府も1881年,10年後に国会を開くという詔書を発布した。政府の憲法制定準備はひそかに進行したのち,1889年の大日本帝国憲法発布,1890年の国会開設により天皇制の支配体制は完成した。日清戦争の結果,日本は台湾を領有し,またその賠償金を基礎に金本位制度を樹立して,資本主義経済体制を整えた。朝鮮・満州をめぐるロシアとの対立が深まり,日露戦争によって日本の朝鮮・南満州に対する支配権を確立,1910年日韓併合を強行した。国内における資本主義の発展に伴い,階級対立は深まり,社会主義思想も広まったが,政府は大逆事件などによって社会主義思想を弾圧した。しかし,1913年憲政擁護運動で民衆は初めて内閣を倒した。以後〈大正デモクラシー〉のなかで民主主義思想は広まり普通選挙,女子参政権などの要求が,労働者の要求と結びついて展開した。米騒動は,民衆の経済的要求が政治行動となった画期的事件であった。 第1次大戦に際し日本は二十一ヵ条要求を中国につきつけ,こののち,中国問題と軍備縮小問題をめぐって英,米との対立は決定的となった。1927年の金融恐慌から大恐慌にかけて(昭和恐慌),日本資本主義の矛盾は最大限に露呈し,同時に中国への帝国主義武力侵略が開始された。1931年満州事変により,日本の国際的孤立は深まり,同時に共産主義・社会主義思想や労働者・農民の運動に対する弾圧は治安維持法によって強化された。五・一五事件二・二六事件を通じてファシズム体制は強まり,1936年日独防共協定(翌年,日独伊防共協定)によって日本は反共戦線へ荷担した。1937年日中戦争の開始により,日本の戦争体制は決定的となり,あらゆる面で統制が強化され,国家総動員法はその支柱となった。1940年日独伊三国同盟,1941年日ソ中立条約を経て同年12月8日太平洋戦争に突入した。日本は緒戦の勝利にもかかわらず,本格的な反攻が始まると後退を続け,沖縄の戦,本土空襲,広島・長崎への原子爆弾投下により壊滅的な打撃を受け,ソ連が参戦するに及んで1945年8月ポツダム宣言を受諾した。1946年日本国憲法の公布によって戦争放棄,基本的人権の尊重の原則が確立され,民主主義国家として再出発することとなった。〔戦後の歩みから現在へ〕 1945年8月15日日本は降伏し,太平洋戦争は終結した。以後のいわゆる戦後史は,日本の再建と発展に決定的な影響力をもつ米国の対日政策と深くかかわり,おおむね以下の各期に区分してとらえることができる。 第1期(1945年―1947年)。日本は降伏と同時に連合国軍の占領下に置かれ,東京には占領軍総司令部(GHQ)が設置され,米国のマッカーサーが連合国最高司令官となった。実質的には米軍の単独占領で,占領政策も米国が単独に決定した。11ヵ国代表からなり占領政策決定機関たる極東委員会も,最高司令官の諮問機関たる対日理事会も実質的権限はなかった。統治方式は日本政府を介して行う間接統治であった。この時期には軍国主義一掃と民主主義的諸制度の制定など大変革が行われ,天皇人間宣言,極東国際軍事裁判の開廷,財閥解体,農地改革,新教育制度の施行があり,1946年11月新憲法が公布された。また平和と民主化を求める革新勢力の伸張は著しく,そのために幣原喜重郎内閣は総辞職に追いこまれた。 第2期(1947年―1954年)。この時期に入ると占領軍当局は保守勢力擁護の態度を明確化した。1947年史上最大といわれる二・一スト計画はGHQの命令で未発に終わり,以後労働運動は大きく転換した。中国大陸における蒋介石政権の相次ぐ敗退に対処するため,1948年米国陸軍長官のローヤル声明を転機として米国は日本非軍事化政策を放棄し,反共の防壁として米国の傘の下での日本の自立化を進めた。1949年総選挙で民主自由党が圧倒的勝利を収め,長期にわたる保守党政権の支配が始まった。1950年朝鮮戦争を機にGHQはレッドパージをもって革新勢力を弾圧,共産党を事実上非合法化した。他方,米国の日本再軍備化方針により警察予備隊が設置された。また朝鮮戦争激化に伴い日本は米軍の兵站(へいたん)基地となり,いわゆる特需景気によって経済は復興した。1951年サンフランシスコ講和条約が結ばれ,1952年その発効により独立が回復された。しかしそれはソ連・中国などを除いたいわゆる片面講和であり,また同時に調印された日米安全保障条約により米軍は引き続き駐留することとなった。次いで中華民国(台湾)と日華平和条約が締結され,いわゆるサンフランシスコ体制が確立した。講和条約締結期から片面講和・基地反対をめぐり平和運動や労働運動が高まり,その情勢の中で講和条約発効直後の1952年メーデー事件が起きた。 第3期(1954年―1960年)。1954年日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され,日本の再軍備化は進み,自衛隊が生まれた。1955年保守合同による自由民主党の成立と,左右両派の統一による日本社会党の成立によってできた保守対革新の二大政党制に移行した(55年体制)。この時期に自民党は〈憲法の自主的改正〉を唱え,憲法調査会を1956年発足させている。経済面では外資の大量流入もあっていわゆる神武景気が起こり,後の所得倍増政策の素地を作った。一方,破防法・教育2法制定に対する反対運動,本土・沖縄における基地強化反対運動,ビキニ水爆実験に端を発した原水爆禁止運動が全国的に広まった。1956年日ソ国交が回復され,引き続き国連加盟が実現,IMFや国際復興開発銀行(世界銀行)にも加入し,国際社会への復帰が実現した。1958年に始まった安保条約改定交渉は大きく国内をゆるがす問題となり,全国的な安保反対運動(安保闘争)が展開された。しかし政府は1960年新安保条約を成立させ,日本の政治体制は新しい段階に入った。一方,この運動のなかで市民運動という新たな政治参加の形態が定着しはじめた。 第4期(1960年―1970年)。この時期は米ソ両大国の冷戦状態から平和共存体制への転換が国際的な背景となっている。ケネディ政権の出現により米国の対日政策は手直しされ,両国の結合が強められた。日本はアジアにおける地位の回復をめざし,東南アジア諸国への進出も顕著となったが,それは1965年の日韓条約成立によりほぼ完成された。独占資本の地歩は強化され,日本経済の国際的地位は高められ,海外進出が急速に伸びた。1964年のOECD加盟,東南アジア開発閣僚会議提唱,1965年のアジア開発銀行設立提唱,1966年のアジア太平洋閣僚会議開催など一連の動きがその現れであった。しかし1960年代の経済躍進は,ベトナム戦争に伴う特需に大きく起因していることからも明らかなように,対米依存の傾向が強い。この間日韓条約阻止闘争の失敗により革新勢力の運動は転機を迎えた。一方では組織分裂が起こり,他方では軍事基地撤去・沖縄復帰運動や青年・学生の学園改革・反戦運動など反体制運動が盛んになった。1965年以後の産業・貿易の驚異的な発展は国際経済における日本の地位を不動のものとした。また日米パートナーシップのスローガンのもとに,政治的にもいわゆる日本の自主・自立化が強力に進められた。 第5期(1970年―1989年)。1971年のドル・ショック,1973年の石油危機,さらに生産の大規模化と都市化による公害等により高度経済成長は終わった。1970年代の大幅な財政支出がもたらした財政危機は深刻であり,国債の累積による長期債務残高は一般会計規模の2倍を超えた。政府は1981年臨時行政調査会を設置し,財政再建・行政改革に取り組み始めた。政権は1980年,1986年と衆参同日選挙で大勝した自民党が担当しつづけ,電電公社や国鉄の民営化を実施した。これは1980年代に進んだ労働組合の再編(1989年〈連合〉結成など)にも大きな影響を与えた。1980年代後半のリクルート事件,大型消費税の導入などによって政治不信は拡大し,1989年には再び多党化,参議院では与野党が逆転し,与野党伯仲の状況が生まれた。 第6期(1990年―)。1980年代末−1990年代初めの東欧革命・ソ連解体による冷戦体制の崩壊は全世界に大きな影響を与えた。そのような状況下で1992年PKO協力法成立により,国連の枠組みの下で自衛隊がカンボジアに出動し,いわば戦後初の海外派兵となった。1993年夏の衆院選の結果,自民党が過半数を割って非自民の連立政権が誕生し,ここに〈55年体制〉は崩壊した。この時の細川護煕内閣により小選挙区比例代表並立制が導入された。1994年には自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権で村山社会党内閣が成立し,村山は社会党の基本政策であった安保廃棄・自衛隊違憲などを放棄した。この間に多党化のなかで政党再編がすすみ,新進党,民主党が発足し,社会党は社会民主党と改称。1996年秋の衆院選では自民党がほぼ半数を獲得した。1980年代後半以降,外交・軍事面では,ひきつづき米国との連携を強め西側諸国の一員としての外交政策を推進してきたが,ロシアとの北方領土問題,米国・EU諸国との輸出増大による経済摩擦,東南アジア諸国連合との協調,沖縄基地問題など問題は多く残されている。また,民主化が進む周辺アジア諸国の人びとから〈戦後補償〉の要求が国家レベルとは別に提起され,日本および日本国民のあり方が問われている。国内的には,外交とも絡む経済面での〈規制緩和〉問題が一貫して提起されているが,高齢化社会へ向けての福祉行政の充実,原発事故等の公害・自然破壊・環境破壊の防止,過疎・過密,地価高騰などの都市問題と地域振興,高度情報社会に対応した産業再編,農産物の輸入自由化に対応する農業対策,これらの施策を実行するための行財政改革や政党の政治倫理の確立等々,問題は山積している。長期に及ぶ不況の克服や切迫した金融再編を緊急の課題として抱えつつ,これらの問題に対応する過程で,1999年に小渕恵三内閣は,ガイドライン(日米防衛協力のための指針)関連法,国旗国歌法を成立させるなど,国論を二分するテーマを強引に押し通す手法を取った。また,2001年には中央省庁等改革基本法が施行され,内閣府の発足,財務省(旧大蔵省)と金融庁の分離など,中央行政機関の変革がなされた。こうしてグローバリゼーションが進むなかで,21世紀の日本の進路が問われている。2001年に登場した小泉純一郎内閣は〈聖域なき構造改革〉を唱え,また2002年には〈日朝平壌宣言〉により日朝国交回復交渉に着手する一方,米国での〈9.11事件〉以後,2001年〈テロ対策特別措置法〉を制定,イラク戦争に際し2003年〈イラク復興支援特別措置法〉を成立させた。また〈有事法制〉も定め,翌年自衛隊をイラクに派遣するなど,戦後日本のコースは大きな転換点へとさしかかった。2005年,衆議院の憲法調査会報告書は9条問題などで改憲の方向を盛り込んだ。他方では,ASEAN+3(中国・日本・韓国)から展開した〈東アジア共同体〉構想が議論される状況の下で,国連安保理常任理事国への日本の立候補問題などとも関連して中国で反日デモが激化。韓国では歴史教科書問題,竹島問題,靖国参拝問題などが連動して,日韓関係も困難な局面にあり,日朝交渉は膠着状態である。2006年9月,小泉長期政権を引き継いだ安倍晋三内閣は,新憲法の制定や教育の抜本改革に取り組む姿勢を明確に打ち出した。しかし,グローバル化と構造改革による貧富格差・地方格差の拡大のなか,安倍晋三内閣,福田康夫内閣といずれも支持率低迷による在任期間一年未満の自民・公明連立政権が続いた。さらに麻生太郎内閣では,2008年の米国金融危機に端を発する世界同時不況の直撃を受けた。2009年8月の総選挙では民主党が圧勝,民主党・社民党・国民新党による連立政権が発足したが,鳩山由紀夫内閣菅直人内閣野田佳彦内閣とめまぐるしく交替。沖縄基地問題,デフレによる経済の長期停滞,さらに2011年3月東日本大震災が発生し,それに伴う福島第一原発の事故も発生。こうした事態に加えて,日中・日韓関係などの東アジア外交など,内外の重大課題に民主党政権は応えることができないまま,2012年12月野田佳彦内閣は衆議院を解散した。民主党は2012年12月の総選挙で自民党に大敗,自民・公明に政権を奪還され,自公連立による安倍晋三内閣が発足した。経済再生を最優先課題としたアノベミクスの提唱や積極的平和主義をかかげた政権公約でもある憲法改正に取り組む姿勢を鮮明にした。日本は,政治・外交のみならず経済・社会のありようも含め大きな転換点を迎えている。
→関連項目日本人日本料理

日本【にっぽん】

日本(にほん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本」の意味・わかりやすい解説

日本
にほん

正式名称 日本国。
面積 37万7976.41km2
人口 1億2614万6099(2020)。
首都 東京

アジア大陸の東縁に北東から南西にわたって弧状に延びる列島の国(→日本列島)。北から北海道,本州,四国,九州と連なり,沖縄および周辺の諸島を含む。環太平洋造山帯の一部を構成し,火山が多い。河川は一般に短く急流である。気候は四季の変化に富み,夏は高温多湿で秋に台風が多い。東京の平均気温平年値は 16.3℃,降水量平年値は 1528.8mm。アイヌおよび少数の外国系の人々を除けばほとんど単一の民族構成で,日本語を話す(→日本人)。出生率は人口 1000あたり 8.0(2014)と低く,平均寿命は男性 80.5歳,女性 86.8歳(2014)で,人口高齢化が進んでいる。義務教育は 9年制で,就学率はほぼ 100%。第2次世界大戦後の 1947年に日本国憲法が施行された。議院内閣制で,衆議院参議院の 2院からなる(→両院制)。外交は国際連合中心主義を軸とするが,アメリカ合衆国と日米安全保障条約を結んでいる。鉱物資源に乏しいが,近代工業は高度に発達している。就業者の 4.2%が 1次産業に,25.2%が 2次産業に,70.6%が 3次産業に従事(2010)。石油,木材,鉄鉱石などの原材料を輸入し,機械,自動車,電気・電子機器などの製品を輸出する。主要輸入先は中国,アメリカ,中東諸国,輸出先は中国,アメリカ,アジア諸国。交通網は道路,鉄道ともきわめてよく発達。1960年代からの高度経済成長により世界有数の経済大国になったが,1990年代から長期の景気停滞期に入っている。なお,日本の呼称は対外的には「にっぽん(NIPPON)」が用いられる。(→日本史

日本
にっぽん
Nippon

P.シーボルト著。初版は 1832~54年に 20分冊してライデンで刊行された。シーボルトがオランダ東インド会社の長崎商館付き医師として滞在した間 (1823~29) に収集した資料と日記をもとに著わした著作で,A3変型判で 1400ページあまり。日本に関するヨーロッパ人の著書としては比類のない大著で,ヨーロッパでの日本研究の基盤をなしたものである。第2版は 97年シーボルト生誕 100年記念に息子らによって刊行された。縮刷本2巻で,初版の一部省略や補足があり,シーボルトの小伝が付記されている。第3版は 1930~31年にベルリンの日本学会が刊行したもので,初版の複製に2版の追加分と未刊草稿を加え,索引をつけてある。第4版は主として初版を用い,3版本を一部加えたもので,東京の日蘭学会監修で 75年に出版された。邦訳としては,部分訳として呉秀三訳注『シーボルト江戸参府紀行』 (1928) ,全訳として岩生成一監修『シーボルト「日本」』 (78~79) がある。

日本
にっぽん

陸羯南 (くがかつなん) が 1889年2月 11日の帝国憲法発布の日に東京で創刊した政論新聞。『日本新聞』ともいう。国家主義的な中立系といわれた。谷干城,三浦梧楼らが資金的に援助し,記者には福本日南三宅雪嶺,古島一雄,池辺三山長谷川如是閑,丸山幹治,正岡子規らを集め,近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策をきびしく批判,創刊後の約8年間に 30回も発行停止処分を受けた。日清戦争後は次第に経営困難となり,羯南も病に倒れ,1906年6月伊藤欽亮に譲渡された。やがて如是閑らの有力記者もこぞって退社し,政友会系の平凡な新聞に転落。 14年末,社屋の火災もあって廃刊。

日本
にっぽん

日本」のページをご覧ください。

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精選版 日本国語大辞典 「日本」の意味・読み・例文・類語

にほん【日本】

[一] (「東の方」の意の「ひのもと」を漢字で記したところから) わが国の国号。大和(やまと)地方を発祥地とする大和朝廷により国家的統一がなされたところから、古くは「やまと」「おおやまと」といい、中国がわが国をさして倭(わ)国と記したため倭(やまと)・大倭(おおやまと)の文字が当てられた。その後、東方すなわち日の出るところの意から「日本」と記して「やまと」と読ませ、大化改新の頃、正式の国号として定められたものと考えられるが、以降、しだいに「ニホン」「ニッポン」と音読するようになった。明治二二年(一八八九)制定の旧憲法では、大日本帝国(だいにっぽんていこく)が国号として用いられたが、昭和二一年(一九四六)公布の日本国憲法により日本国が国号として用いられるようになった。その読み方については国家的統一はなく、対外的に多く「ニッポン」を用いる以外は「ニホン」「ニッポン」が厳密に使いわけられることなく併用されている。本辞典では、文献上明らかに「ニッポン」と記されている場合以外は、すべて「ニホン」として扱った。美称として、大八洲(おおやしま)、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)、葦原中国(あしはらのなかつくに)、秋津島、秋津国、大倭豊秋津島など。
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「日本の衆生、三年つつしみてかの仙人になつみ」
※日葡辞書(1603‐04)「Nifon(ニホン)」 〔李白‐哭晁卿衡詩〕
[二] (日本) 日刊新聞。明治二二年(一八八九)陸羯南(くがかつなん)が創刊。日本主義を唱え、国民の統一と国家の独立を主張。大正三年(一九一四)廃刊。

にっぽん【日本】

[1]
[一] わが国の呼び名。→にほん
※高野本平家(13C前)一「日本(ニッホン)秋津嶋は纔に六十六箇国」
※天草本平家(1592)一「タイタウ Nippon(ニッポン)ニ ヲイテ ヲゴリヲ キワメタ ヒトビト」
[二] 「にほんばし(日本橋)」の略。
※雑俳・柳多留‐二〇(1785)「日本に死にそこないが二人なり」
※雑俳・川傍柳(1780‐83)二「日本を越すとありんす国へ出る」
[2] 〘名〙 (形動) 日本一であること。すばらしいこと。あっぱれであること。
※黄表紙・狂言好野暮大名(1784)「下々を憐れませらるる御仁心の程日本だ日本だ」
[補注]古くから「ニホン」「ニッポン」と両様によまれてきたが、本辞典では特に「ニッポン」と読みならわされているもの、および、文献上確証のあるものを除いて、すべて「ニホン」にまとめた。なお、子見出し項目も「ニホン」の項のもとで扱い、「ニッポン」の読みのある例も、そこにまとめた。→日本(にほん)

ひ‐の‐もと【日本】

※宇津保(970‐999頃)俊蔭「汝日の本の父母にむかふべき便りを与へむ」
※新古今(1205)羇旅・八九八「いざこどもはや日のもとへ大伴の御津の浜松まちこひぬらん〈山上憶良〉」
[補注]挙例の「新古今」は、「万葉集‐六三」を出典とする。「万葉集」の「早日本辺」は「はやくやまとへ」と訓むべきだとされるが、「万葉集」諸写本の傍訓には「ハヤヒノモトヘ」とある。

じっ‐ぽん【日本】

日本国の呼称。「日本」の字音読みから、ヨーロッパ語で呼称されたものの一つ。
※日葡辞書(1603‐04)「Iippon(ジッポン)。ヒノ モト〈訳〉東洋、すなわち日本」

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デジタル大辞泉 「日本」の意味・読み・例文・類語

にっぽん【日本】

わが国の呼び名。→にほん(日本)
「ヒノマルノハタハ―ノシルシデアリマス」〈尋常小学修身書・第2学年用・明治36年〉〈日葡
[補説]「日本」が「ニホン」か「ニッポン」かについては決定的な説はない。「日」は漢音ジツ、呉音ニチで、ニチホンがニッポンに音変化し、発音の柔らかさを好むところからさらにニホンが生じたものか。ジパングジャパンなどはジツホンに基づくものであろう。国の呼称としては、昭和9年(1934)に臨時国語調査会(国語審議会の前身)が国号呼称統一案としてニッポンを決議したが、政府採択には至っていない。日本放送協会は昭和26年(1951)に、正式の国号としてはニッポン、その他の場合はニホンといってもよいとした。日本銀行券(紙幣)や運動競技の国際大会でユニホームのローマ字表記がNipponなのは、先の事情による。平成21年(2009)、麻生内閣は「今後、『日本』の読み方を統一する意向はあるか」の質問に対し、「『にっぽん』又は『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている」と答弁した。外務省では、英語による名称はジャパン(Japan)を用いている。なお本辞典では、両様に通用する語については、便宜上「にほん」の見出しのもとに集めた。
[名・形動]《安永・天明(1772~1789)ごろの江戸での流行語》日本一であること。すばらしいこと。また、そのさま。
「この不自由なところが―だとうれしがりけり」〈黄・艶気樺焼
[補説]書名別項。→日本

にほん【日本】

わが国の国号。アジア大陸の東方にあり、北海道本州四国九州および周辺諸島からなる島国。首都、東京。行政上、1都1道2府43県に分けられる。総面積37万7815平方キロメートル。総人口、1億2692万(2016)。
[補説]古くは大和やまと地方を基盤とする大和政権によって国家統一がなされたところから「やまと」「おおやまと」と称したが、大化の改新のころ「日出づるところ」の意で日本ひのもとと称し、奈良時代以降これを音読して「ニッポン」または「ニホン」というようになった。古く、大八洲国おおやしまぐに葦原中国あしはらのなかつくに葦原千五百秋瑞穂国あしはらのちいおあきのみずほのくになどの美称がある。明治22年(1889)には「大日本帝国憲法」の制定により「大日本帝国だいにっぽんていこく」が国号として用いられ、昭和21年(1946)には「日本国憲法」の公布により「日本国」が国号となったが、読み方は統一されていない。大和政権以降、公家による律令時代、武家による封建時代を経て19世紀後半の明治維新により近代国家としての基礎が確立。日清日露戦争第一次大戦などで千島列島台湾・南サハリン・朝鮮などを領土として獲得したが、第二次大戦に敗れその大半を失った。→にっぽん(日本)
[類語]大和やまと日の本八洲国やしまくに大八洲おおやしま秋津島敷島葦原あしはらの中つ国豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国和国わこく日東東海扶桑ふそう神州本邦本朝ジャパンジパング

にっぽん【日本】[書名]

Nippon》江戸時代後期に来日したドイツ人医師・博物学者、シーボルトによる日本の総合研究書。ドイツ国王ウィルへルム2世の援助を受け、オランダ、ライデンで出版。1832~1851年にかけて13回の配本を行い、全20冊を刊行した。日本の地理・歴史・社会・風俗・動植物など、多分野について紹介した大著で、図版も多数収録。
明治22年(1889)創刊、大正3年(1914)廃刊の日刊新聞。明治21年(1888)創刊の日刊紙「東京電報」を改題して陸羯南くがかつなんが創刊。国家主義の立場から過度の欧化政策を批判、薩長藩閥政府を攻撃したため、しばしば発行停止処分を受けた。記者として古島一雄福本日南・末永純一郎・正岡子規などが在籍、資金面では谷干城近衛篤麿らが支援。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日本」の解説

日本
にほん

明治後期の代表的日刊新聞(1889〜1914)
1889年に陸羯南 (くがかつなん) が谷干城 (たにたてき) らの支援を得て創刊。陸のもとに三宅雪嶺・長谷川如是閑 (によぜかん) らが藩閥政治を批判しつつ,日本主義の論陣を張った。大正期に入って廃刊となる。

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世界大百科事典 第2版 「日本」の意味・わかりやすい解説

にほん【日本】

面積(1995年10月1日現在)=37万7829km2(歯舞諸島,色丹島,国後島,択捉島の合計5036km2を含む)人口(1995年10月1日現在)=1億2557万0246人最北端=宗谷岬―北緯45゜31′ 最南端=沖ノ鳥島―北緯20゜25′ 最東端=南鳥島―東経153゜58′ 最西端=与那国島―東経122゜56′(施政権の及ぶ範囲)本項では日本の国号の由来および日本の歴史,文化,社会の特質を巨視的に記述した。

にほん【日本】

陸羯南(くがかつなん)を社長兼主筆として東京で創刊された新聞。創刊は1889年2月11日。自由民権期の政党機関紙と小新聞(こしんぶん)という二つの新聞類型が崩れていく過程で,〈政権を争ふの機関〉でも〈私利を射るの商品〉でもなく,主義のみによってたつ独立新聞として非党派,非営利の言論新聞をめざした。その掲げる主義は,〈日本の一旦亡失せる国民精神を回復し且つ之を発揚せん〉という〈国民主義〉であった。この背景には当時の新興知識人によるナショナリズム運動があった。

にほん【日本】

シーボルトの著書。原題は《Nippon》。1832‐52年に20分冊の仮綴本として13回にわたり発行配布された。独立回復後のオランダの国策に基づく援助を得て,シーボルトは日本滞在中(1823‐28)に,日本の自然科学的・民族学的調査・研究を精力的に行った。動・植物のほか文献,記録,民族学的資料など,おびただしい収集資料に加えて,日本人門下生の報告資料,およびシーボルト以前にケンペルツンベリーらが日本について記載した書物も参照して,帰国後本書がまとめられた。

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世界大百科事典内の日本の言及

【日本】より

…面積(1995年10月1日現在)=37万7829km2(歯舞諸島,色丹島,国後島,択捉島の合計5036km2を含む)人口(1995年10月1日現在)=1億2557万0246人最北端=宗谷岬―北緯45゜31′ 最南端=沖ノ鳥島―北緯20゜25′ 最東端=南鳥島―東経153゜58′ 最西端=与那国島―東経122゜56′(施政権の及ぶ範囲)本項では日本の国号の由来および日本の歴史,文化,社会の特質を巨視的に記述した。。…

【日本研究】より

…西洋における日本研究は,16世紀後半以降,キリスト教の日本への普及とともに始まり,19世紀後半から20世紀前半にかけてイギリスが,また太平洋戦争を契機としてアメリカが日本研究の中心となった。一方,ロシア・ソビエトは独自の伝統をもち,戦後はアジア諸国でも盛んになりつつある。…

【日本社会論】より

…現代の日本は,高度に産業化された先進国の一つに属している。都市化も著しく,全人口の4分の3に当たる9000万ほどの人たちが〈市〉に住んでいる。…

【日本列島】より

…日本列島は,太平洋を縁どり帯状の地域をつくる環太平洋地帯に属し,アジア大陸の東縁に分布する花綵(かさい)列島の一部を構成する。国土の主要部である本州,北海道,四国,九州は,互いに連接して日本列島の弧をつくり,全体としては南北に細長く続き,南東にふくらんだ形の島列を示す。…

【陸羯南】より

…この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。…

【政教社】より

…創立時の同人は,志賀重昂,棚橋一郎,井上円了,杉江輔人,菊池熊太郎,三宅雪嶺,辰巳小次郎,松下丈吉,島地黙雷,今外三郎,加賀秀一,杉浦重剛,宮崎道正の13名で,おもに東京大学,札幌農学校出身の新進知識青年であった。機関誌《日本人》(一時,後継誌《亜細亜》)を発行し,幅広い国粋主義を主張し,徳富蘇峰主宰の《国民之友》とともに明治中期の思想界を二分した。一方,高島炭坑坑夫虐待事件(1888)で坑夫救済のキャンペーンを展開し,また大隈重信外相による条約改正交渉に強く反対し,日清戦争に際して対外硬派の主力となって開戦の世論喚起に努めるなど,終始対外的には国権主義の姿勢を示しつづけた。…

【日本及日本人】より

…1907年雑誌《日本人》と新聞《日本》の伝統を継受するかたちで政教社の発行した雑誌。月2回刊。…

【ホフマン】より

…ドイツのビュルツブルク生れのオランダ人で,初期の日本学者。1830年アムステルダムでP.F.vonシーボルトに会ってその助手となり,のちライデン大学教授として日本学の講座を担当した。…

※「日本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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